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2006/01/28

ナマのベトナムが分かる。週刊ベトナム・ニュース47号

ウィークリー・ベトナム・ニュース  
■ 平成18年1月28日 土曜日 第47号
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■ こんにちは!!

いつもお世話になっておりますベトナムからニャットアインです。

今日もここ一週間のベトナムの主なニュースをご笑覧下さい。

翻訳は直訳とせず、日本語に馴染む意訳としておりますので、ご注意下さい(笑)また、訳者の独断と偏見を交えた辛口寸評を入れてみました。内容が片寄り、言葉が多少過ぎる箇所も多々あろうかと存じますが、これもベトナムを愛するゆえの諫言とお許し下さい。

誤字・脱字はご愛敬ってことでお願いします<(_ _)>

尚、記事の転送は営利目的以外なら原則自由ですが、自己責任において行い、その中で被った被害・損害に対し筆者は責任を負えませんのでご了解下さい。

ベトナム・ニュース その47 今週のヘッドライン

* 1月23日(月) カンボジア東部レポート前編
* 1月24日(火) カンボジア東部レポート後編
* 1月25日(水) 世界が認めたサッカーボール
* 1月26日(木) ソンミ大虐殺の英雄
* 1月27日(金) 暮れの花市 始動!
* 1月28日(土) テトの過ごし方

1月23日(月) カンボジア東部レポート前編
*   前々から当地で物流事業に携わる友人から一度、カンボジア7号線を東進しベトナム国境までの物流量と道路事情を見に行こうと誘われていたが、首都プノンペンとシェムリエップ以外にうちの商売(菓子)が、カンボジアの地方で販売展開が出来るようになるまでにはまだまだ時間が掛かるだろうと、長く出掛けることを躊躇っていたのだが、丁度、プノンペンの日系企業と販売契約書締結を完成させる仕事が出来たのに併せ、ついでに将来のカンボジア物流を考える為にも一度この目で確かめる事にしたのだった。本日は、その現地レポートをしようと思う。

   今回もサイゴンからプノンペンは国際バスを利用して1号線を移動することにした。これまで片道10米ドルだったが、今年から2ドル値上がりし12米ドル。ただバスの走行ルート沿いであれば、予約時にどこで乗りたいと申し込めば、予約時に運転手の携帯電話の番号をくれ、当日、指定した場所でピックアップしてくれるのは楽である。ベトナム国境のあるモックバイ迄は道路も格段に良くなっており、僅か1時間15分ほどで到着する事が出来るし、ベトナム側及びカンボジア側双方とも出入国手続きは全てバスの係員が代行してくれ楽だ。ベトナム検問での出国手続きに掛かる時間は凡そ30分程度、相変わらず係員は無愛想だが業務は機械的に淡々とこなしてくれる。

  カンボジア・ヴァーベット検問は今回からこれまで建築中だった建物が3週間ほど前に完成し、それと共に業務もそこに移されていた。カンボジアの寺院を思わせるオレンジ色の瓦を葺いたそれは朝日に燦然と輝いて、まるでテーマパークに吸い込まれて行くような錯覚に陥る。尤も、中は安普請で内と外のギャップが激しいが、まあこれはお愛嬌って事にしておこう。こちらも、手続きに掛かった時間は凡そ30分。双方一時間で入出国手続きは完了した。以前だとこの手続きだけで軽く2時間は掛かっていたので、それからするとかなりのスピードアップだ。

     因みにこれまでカンビジアのビザ代は、ホーチミン市のカンボジア領事館で取得するとUS25$を取られていた。(本来のビザ代はツーリストでUS20$なのだが、各国カンボジア在外公館の小遣い稼ぎで、下駄を履かせて販売されていたものが、カンボジア政府から厳禁の通達が最近だされたとのこと)ところがヴァーベットの新しい事務所には何とビザ料金が明確に張りだされており、ツーリストが本来の価格・ビジネスがUS25$になっていたのには感心した。

  ヴァーベットからプノンペンまでの間、僅か二カ所のみ架橋工事をしていた以外は概ね舗装道路の状態は悪くなく快適な旅を続けることが可能で恐らく架橋工事もこのまま資金不足とか他に何事もなければ2ヶ月ほどで完成すると思われる。メコン川は相変わらずフェリーにバス毎乗って運ばれて行くのだが、これも5分ほど待つだけで苦にならない。カンボジア在住日本人ビジネスマンの話に因ればここに橋が架けられるには未だ15年くらい掛かるのではないかとのことだったが、現在の交通量であれば、別に架設する必要性は感じられなかった。

  プノンペンには午後12時半に到着。途中、出入国手続きで1時間を要しているので、実質的な移動時間は僅か5時間でサイゴンと結んでいることになる。飛行機であれば片道30分程度の飛行時間で済むものの、空港に移動し2時間前にチェックインして、現地でも入国手続きや市中心部までの移動時間を考えれば4時間弱は掛かってしまうことを考えれば、バスで出掛けた方が安くて遙かに便利である。セントラルマーケット付近にあるバスターミナルに降りると、近くの中華料理屋、山東飯店に入り昼食を取る。ここの焼き餃子は天下一品だ!元々、焼き餃子はこの店のメニューにはなく、水餃子しかなかったのだが、カンボジア在住日本人の誰かが焼き餃子を出すように勧めたらしい。焼き餃子をつまみながら、よく冷えた青島ビールをごくっと一杯。まさに至福の時を体現することで出来てしまう。プノンペンへお出かけの際は、是非一度、足を運ばれたい。

  昼食を終え、予め手配しておいたパジェロに乗り込み、一路7号線を東に進んで行く。つまり、ルートは異なるもののベトナムへ向けてまた走り出したというわけだ。

1月24日(火) カンボジア東部レポート後編
*   プノンペンからコンポンチャムへ続く7号線は意に反し、きれいに舗装されているばかりか、1号線では見られなかったセンターラインや路側帯と道を分ける白いラインが引かれており、快適そのものだった。途中、一度のトイレ休憩を挟みコンポンチャムの街へは丁度3時間後に到着。
街に入り直ぐ目に入ってきたものは、海老茶色した4メートルほどのモニュメントだ。その台座には日の丸とカンボジア国旗が描かれており、「きずなばし」と書かれていた。そう、この橋こそ日本のODAで2001年に完成したメコン川を跨ぐカンボジア唯一の架橋なのだ。

  日頃、ODAと聞いても、自分とは全く関わりのないことで別に意識することもないが、目前に架かった立派な橋に目を遣れば、嫌でも自分が日本人であることを意識するものだ。橋の形を喩えると首長竜を河の真ん中に足を折り沈ませたような感じで緩やかな曲線を湛えている。橋の種類的には桁橋になろうか単純な作りのように見えるが、先の曲線が橋全体に優雅さを与えていた。取り敢えず一緒に行った友人と、「きずなばし」をバックに記念撮影。そしてメコン川河畔にあるコンポンチャム最大のメコンホテルに宿を取ることにした。エアコン付きの部屋がUS10$。ファンのみがUS5$の超安値!迷わず、リバーヴューのエアコン付きを頼んだが、生憎、河側の部屋は全て満室。僕ら以外の客は全て西洋人で占められていた。気を取り直し、裏部屋に荷物を下ろすと、コンポンチャム市内に出てみることにした。

  どんな街だろうと期待したものの、市中心部は一周2キロ程度でしかなく午後6時を回っていたこともあって、人々の活気ある姿は見られなかった。しかし、途中メコン川沿いにキラキラ輝く大仏が目に飛び込んできた。このお寺の名前はWatt Nokor。境内にはセメントづくりで色鮮やかなお釈迦様が数多く飾られ、釈迦誕生から入滅までの様子がそれらで判るように並べられていた。特に目を引いたのが画像にもあるように、いかりや長介に似た大仏の姿だ。不謹慎と思いながらも、そのユニークな顔に爆笑してしまったので、ここで読者の皆さんにお裾分けしたい。

  余談だが、プノンペンの取引先から聞いた話で、コンポンチャム自体、街の人口規模は小さいものの、カンボジアの中の地方で見ればコンポンチャム州全体の人口はプノンペンを除けば最大だという。

  翌朝ホテルを5時出発。未だ薄暗い中をきずな橋を渡った。延々と続く道に障害物はなく極めて順調なドライブを一時間ほど続けると、ベトナム国境の看板が目に入り、右にハンドルを切る。ここから国境の検問所までは未舗装道路だが、ほぼ90%はアスファルトを張るだけのところまで完成している。多分、1~2ヶ月後には舗装が完了すると思われる。カンボジア側国境検問所へは6時半頃到着した。既にカンボジア側では木材などを満載したトラック20数台数珠繋ぎで検問が開くのを待っている。
検問所の横の茶店でミー(ラーメンのようなもの)を食べながら、検問所の様子をしばらく伺うことにした。ユニフォームを着込んだ係官5~6名が隣のテーブルで僕らと同様、ミーを食べている。カンボジア人にしてはでっぷりと皆好い体格をしている。きっと賄賂で潤っているのだろう。

  ほどなくして、検問所の係官を掴まえ中立地帯を見学させてくれと友人が頼むと、すんなりOKの返事が戻ってきた。もちろん係官はベトナム語が達者だ。パスポートくらい預けておけと言われるかなと考えていただけに、余りの簡単さにこちらが拍子抜けしたくらいだ。じゃあと敬礼し、検問をくぐる際、件の係員は「ベトナムに入らないでね~」と笑顔で手を振ってくれた。こちらも「よっしゃよっしゃ」と答礼し、あくまでも自然体で内部を撮影しまくり、この調子ならベトナム側へも行けるかもなんって、少しチャレンジしてみようと考えたが、中立地帯が終わるポイントにも係官が言って、それでも素知らぬ顔して通り過ぎようとすると「駄目駄目、そっちへ行っちゃ駄目」と追い返されてしまった。仕方がないので、引き返し途中、荷口の積み替え所兼保税倉庫のようなところに立ち寄った。中で働く従業員はどうやら殆どベトナム人らしくベトナム語があちこちから聞こえてくる。手を振ると皆、笑顔を返し愛想がいい。

  隣の建物はどうやらカンボジア国境警備隊のオフィスらしい。平屋だが、庭に停まっている車はランクルやレクサスなどの高級車が5~6台あり、実入りの好い仕事であることが伺える。実際、カンボジアの物流を良く知る日本人の話では、ベトナム側には各国境毎に国際運送を扱う“座”又は“株仲間”があって彼らが一手に荷を独占しカンボジアへ物資を送るのだが、同じような座はカンボジア側にもあって、双方が密接に連携しているという。インボイス価格は完全アンダーヴァリューで、一応 タリフに基づいた税金を納めるほか、トラック一杯“通関協力金”の名目で約US1000$を渡すらしい。内2割が現場の係官の余録となり、3割が所轄の税務署の余録となり、残りが国庫と言う名の上納金になるという。どおりで係官たちは、良く肥えて血色がよい筈である。

  小一時間ほど見学して検問を後にしたが、近い将来、このルート、ベトナム・サーマット=カンボジア・TRAPEANG PHIONG PIRが人々の往来用に開かれるようになるのも時間の問題だろうということで今回のカンボジアレポートを締めたい。

1月25日(水) 世界が認めたサッカーボール
*   有名サッカー選手が使うボールがベトナム南部Dong Thap省の若者によって作られているといえば俄に信じられないだろう。Nhi My村のフットボール輸出チームリーダーNguyen Xuan Myさん 33歳曰わく、彼らが作ったボールがAndrei Shevehenko、Zinedine Zidane、Dodoer Drogba、Adrian Mutuなどに使用されているんだと自慢げに語る一方、一流選手達の華麗なボールさばきの妙技がNhi My村の人々のボールに支えられていることを知らないという。「ここで作られたボールはヨーロッパや南アフリカに輸出してきました。そして、サッカーボール作りのお陰でこの村の経済/雇用に貢献しているのです。」とDong Thap省共産党青年部書記Le Thanh Congさん。

  前出のMyさんが、ボール作りの道に入ったきっかけは、サッカーボール作製者養成コース生徒募集のニュースを聞いた時に始まる。彼女は直ちに友人を誘って受講を申し込んだのだった。「始めたばかりのこの頃が一番大変だったわね」と当時のことを思い出すMyさん。革製ボールの加工は難しく、余分なところに力を入れすぎてしまい、指先が破れ血を流したり、腫れを作りながら作業を続けたと言い、やっとの思いで初めて自分で作り上げたボールも形が歪で満足の行かないもので、泣き出したかったという。
しかし、他の人に出来て自分に出来ないはずはないと周囲の友人達と励まし合いながらボール作りに専念していったそうだ。Myさんは今では後進の育成に努め“君の作ったボールは有名選手が蹴るのよ”を合い言葉に日夜 自身のボール作りの他 指導にも当たっているという。もう一人のボール職人Tran Thi Hieuさん。19歳は名人と呼ばれ日に4つのサッカーボールを縫い上げるという。これまでに返品されてきたものはひとつとしてなく、一針一針丹念に糸を通してゆく。

  Nhi My村青年団団長Pham Thi Tien曰わく、村のボール作りは地元の大きな経済的成功だと胸を張る。既に2004年3月以来、11500個の高品質サッカーボールを海外に輸出し返品は極僅かだ。Cao Lanh区青年同盟書記Phan Thi Ai Xuanさんは、現在、訓練中のNhi Thanh村のフットボール輸出チームも時期に輸出事業に参加することになりだろうと打ち明けた。
「誰でも20日あればサッカーボール作りが出来るようになります。しかし、やる気があり苦労を厭わない人ならば私は3日でボール作りを教えます」とMyさんは笑顔で答えた。

(辛口寸評)
へ~~~そうなんだ~~~という記事である。Dong Thap省と言えば、お米、そして養魚が盛んな地域といった認識しか持ち合わせていなかった筆者には意外な事実だった。サッカーボール作りで有名な国と云えば、アジアならインドやパキスタンが挙げられる。ただこれらの国々では未就学児童が労働者として酷使され、近年、批判が高まっている。だから、ベトナムに生産拠点をシフトしてきたと考えるのは早計だろうが、Nhi My村でボール作りが2004年3月から始まったことを考えれば、ひょっとすると何某かの関係はあるのかも知れない。ひとつだけ云えることは、今後、ベトナムで売られているサッカーボールに対しての見方が変わると云うことだ。世界のプロフットボールプレーヤーが認めた高品質の球、是非、日本への土産のひとつとして加え入れたい。

1月26日(木) ソンミ大虐殺の英雄
*   元米軍ヘリコプター操縦士でベトナム民間人をソンミ大虐殺から救ったHugh Thompsonさんの遺体は米軍栄誉葬の中、ルイジアナ州ラファイエットに埋葬された。Thompsonさんは1月6日、ルイジアナ州アレキサンドリア近くの退役軍人病院で癌により62年の生涯を閉じた。彼は平和主義者と讃えられ、葬儀には大勢の人々が彼の死を悼んで集まった。

  Thompsonさんの副操縦士で事件に遭遇したLarry Colburnさんも彼の葬儀に参列したひとりだ。葬儀には21の弔砲が打たれヘリコプターが旋回していた。星条旗に包まれたThompsonさんの棺を見つめながら、Colburnさんは「Hughこそ、一発の砲弾も使わずにソンミ大虐殺問題を解決した男だ」と呟いた。1968年3月16日上級准尉だったThompsonさんは、ソンミ村でベトナム民間人救出の為、部下と共にヘリコプターで急行した。ある米軍将官にしてソンミ大虐殺は、アメリカ陸軍の歴史始まって以来 最も恥ずべき所行であったと評した。

  歴史家に因れば、ソンミ村に住んでいた民間人504人が米軍により虐殺され、内210名は12歳未満の子供だったという。その日、Thompson元上級准尉とその部下Colburnは敵地偵察の命を受け飛行を続けていた。ソンミ村上空を通過しようとした時、そこに信じられない光景が彼らの前で繰り広げられていた。何と米兵達が村人を虐殺していたのだ。Thompson元上級准尉は殺戮を繰り広げる友軍に向かいガンポイントを合わせ、友軍に対し殺戮を止めなければ射撃すると警告を発したのだと、当時 ソンミ大虐殺軍事法廷で扱った主任検事のWilliam Eckhardsさんは語る。

  Thompson元上級准尉は殺戮を止めると直ぐさま二機の僚機に怪我を負ったベトナム民間人の救出に当たるよう命令を下し、治療の為に病院へ搬送したのだった。

(辛口寸評)
  人間は極限状態に置かれたとき、理性を失った野生化した動物となり本能が赴くままの行為に走るという。それは恐怖によって引き起こされ、更に群集心理が働くのだ。筆者は平和を望むひとりだが、薄ら甘いサヨクではない。平和の中で、充分な理性が保たれた中で、反戦平和などと唱える輩を見ると反吐が出そうになる。ソンミ大虐殺を引き起こした米兵達の行為を肯定する積もりもないが、ゲリラ的に神出鬼没のベトコンに対し、彼らも心臓が張り裂けそうな精神状態の中での任務遂行であったことは容易に推測出来るというものだ。喩えは軽いが、肝試しで暗闇にひとり残され、彷徨い歩く時の心理状態 それに加え、常に死と隣り合わせの状態に置かれたとしたならば、朧気ながら理解して貰えるだろうか。つまり戦争そのものが人間を狂わせるのである。誤解を恐れず更に云えば、Thompsonさんの行いは確かに人道的見地に立てば賞賛されるべきものである。しかし、地上に彼が居たとしたなら どうだっただろうと筆者はふと考えてしまう。

1月27日(金) 暮れの花市
*   ホーチミン市やハノイ市のような主要都市の住民は旧正月テトに備え家を飾る花や盆栽の購入計画をはじめる頃だが、今年はそれらの選択肢に例年以上の幅が出るようだ。花市場では盆栽やエキゾチックな蘭の花々、加えて輸入生花も多く販売される。今週、日曜日の朝4つの特設市場がホーチミン市内の一区では9月23日公園とKe Van Tam公園、Go Vap区ではGia Dinh公園で、七区のSaigon South新郊外地区でオープンした。中でも9月23日公園で開催される花市場は最大級の規模で700軒ものブースが軒を連ね、Gia Dinh公園は200軒、Le Van Tam公園で60軒となっている。

  市内の公園を管理するGreen Tree & Parks社の報告に因れば、出店者数は昨年対比で150%の増だといい、出店者の中には一週間も前から様々な大型の花々を持ち込み在庫を貯めている者もいるという。春祭りは本日1月24日から一区のTao Dan公園で2月4日まで開催され、ここでも花々や盆栽の販売が行われる。今のところ旧正月用生花購入の客足は僅かだが、それでも美しく並べられたそれらを見ようと大勢の市民がつめかけている。本格的な売買は25日以降になると思われる。

  今年は変わった形の盆栽や蘭などで市場が埋まるだろう。野生のマンゴから造られたマンゴ盆栽やネコヤナギ(?)なども並べられ凡そ1.2m~1.5mドン(US75~94$)の値が付けられ、通常の盆栽が10万ドン(US6.25$)であることを考慮すれば非常な高値で取引されることになる。小型の盆栽(アプリコット)は通常価格は10万ドン。しかし樹齢100年を超えるものには60mドン(US3750$)の値が付けられるという。輸入生花はやや高値で取引され一輪6万ドン~(US3.75$~価格応談)まで幅広い。今年の桃の木の発育は順調で昨年より花が綺麗であると報告されている。これらの価格は一本あたり25万~70万ドン(US15.63~43.75$)の価格帯になるという。

  ハノイ市でも同様で、伝統的な桃の木をはじめイエローデイジー・カメリア・カヴァルワイン・アザレアなどが市場に並び、加えて南部名産のアプリコット盆栽や輸入蘭などが販売されるという。

(辛口寸評)
この日曜に筆者は国営デパートに所用で出掛けた折り、Nguyen Hue通りに立ち寄った。普通、自動車専用車線として使用されている真ん中の二車線は封鎖され、着々と花市設営準備が進められていた。Nguyen Hue通りの入り口付近にはエントランスを飾る石の偶像が並べられる作業が行われていて、例年以上にイベント性を持たせたしつらえになるようだ。恐らく今週中、テト正月までは大勢の人出があることだろう。この時期、サイゴンに滞在される人は是非お出かけ下さい。

1月28日(土) テトの過ごし方
*   このところテト休暇を利用し、比較的経済に余裕のある28~40歳のカップルたちは外国旅行に出掛ける風潮が拡大してきている。これまで旧正月は伝統的に家族が寄り集まって自宅で過ごすといった流れで来たが、これら核家族として暮らすカップルたちは大家族の元で正月を祝うことなく、テト休暇は自分たちを日頃の仕事の疲れから解放することに使おうとしているようだ。

  ハノイで貿易会社を営むNguyen Lan Huongさんは旧正月二日目に当たる1月30日から5日間 ご主人と共にシンガポール旅行に出掛けるという。
「正月に自宅に閉じこもりテトを迎えるために飾りや食事にお金を掛けるのは馬鹿げているわ。この時期 例年物価も上がるしね。そんなことにお金を使うくらいなら、テトは海外でリラックスし、のんびりと過ごした方がましよ」とHuongさん。テトを海外で過ごそうとしている人々にとって、ホリデーはとても重要だと考えている。ホーチミン市でマスコミ関係の職場に勤めるVu Dang Hungさんは、この時期をカンボジアで8日間過ごす。Hungさんは、ベトナムから離れた場所でホリデーを楽しむことは単にリラックスだけに留まらず、外国の文化・歴史などを知る上でとても勉強になるという。「今回、カンボジア行きを決めた理由はアンコールワットへ出掛けるためです。何と言っても世界七不思議のひとつですからね」と独身のHungさん。

  ハノイの旅行会社で管理職を務めるNguyen The Hungさんによれば、このところベトナム人のテト休暇を利用した外国旅行の需要は年々伸びてきており、特にここ2年余りで急激に増大しているのだという。実際彼の会社で企画したシーズン中の外国ツアーはテト元日20日前にして完売している。
このような風潮は伝統的家族主義に基づいた考え方と矛盾しており、本来、テトには遠くに働きに出ている各家族メンバーが自宅に一堂に会する機会を与えてきたし、これからもこの素晴らしいベトナム家族の伝統が長く存続して欲しいものである。

  ハノイ市で新聞社勤務Nguyen Huy Ducさんの仕事納めはテト元旦5日前だ。休みに入ると直ぐに帰省の準備に取りかかり生まれ故郷Nam Dinh省に住む家族や親戚たちへのお土産を用意しなければならない。「私がテトに帰省する一番の理由は年老いた母に会うためです。テトのような重要なイベントに母をひとりにさせるわけには行きませんし、それに故郷へ戻ると子供の頃を懐かしむことが出来るからです」と今年35歳になる記者ははにかんで言った。「アメリカに暮らす私の叔父もテトには里帰りする予定です。以前、独身時代の彼はひとりで帰省していましたが、今では所帯を持ち奥さんと子供たちを連れての帰省です」とDucさんは続ける。

  「我々は仕事や子育てなどに日々追われた生活を送っています。しかしテトには家族を連れベトナムに帰省し、伝統的な正月を祖母や親戚たちと楽しみたいのです」とQuach Van Quangさん。テトはベトナム人にとって重要な家族のイベントと言えるのだ。が、しかし全ての海外に暮らすベトナム人がテト帰省するわけではない。アメリカ越僑のBui Diepさん曰く、カリフォルニアの彼のコミュニティーには多くのベトナム人が住んでおり、みなテトが近づくと祖国のテト話で盛り上がり、年寄りたちからはテトが如何に素晴らしいものであるかを感動的に語って聞かせてくれるという。「私もフラワーマーケットの草いきれの匂いやバンチュン(正月用ちまき)の香りを良く覚えている」とDiepさん。

  テトは全てのベトナム人にとって彼らがどこに住んでいようが大切な歳時記なのだ。大切なのはそれぞれがそれぞれのやり方、方法を用いてテトを祝うことではないだろうか。

(辛口寸評)
本日の辛口寸評は私事で恐縮だが今年 筆者の家族は帰省せず、サイゴンで過ごすことになっている。かみさんの実家は北部ソンラ省、ざっとサイゴンから片道2000キロの彼方にある。隔年毎に家族と共に実家・日本への帰省と繰り返して来ているが、運良く昨年暮れ義妹の結婚式があり、実家からも日本からも家族がそれの出席に集まったので、今回はどこへも行かずひたすら二週間の正月休暇をサイゴンで過ごす次第なのだ。ただ、やはりテトが近づくにつれ、かみさんをはじめ家人もどことなくそわそわしており、北部の実家の両親や兄弟たちと日々、電話でたわいもない連絡を取り合って慰めとしているようだ。元々、テトに実家へ帰省しなくてもいいと言い出したのはかみさんなのだが、どこかでやせ我慢をしているのかも知れない。さて、今日は仕事納め、給料とボーナスをスタッフやワーカーたちに無事支払い終えた。身も心も漸く年の瀬が始まったベトナムです。

以上

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