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2006/02/19

長浜市の幼児殺害事件の背景を考える

「長浜市」で発生した幼児殺害事件で感じたこと、考えたこと。

長浜市で発生した事件は、何をどう論じてみても、殺害された幼稚園児の生命が元へ戻ることはない。断片的に報道される中身を検討すると、これほど痛ましいこともないように思う。加害者の母親は、自らの子供を助手席に乗せた状態で、後部座席の幼児二人を包丁で刺し殺し、車外へ放置し逃亡した。これが事件の全容だという。

しかし、一方で報じられる中身によると、殺害に至った母親は、「自分の子供が、周囲の子供にとけ込めない。これは周囲の子供が悪いので、自分の子供がダメになると考え、殺害を選んだ」とのことが本当なら、これまた余りにも衝撃的な内容だと云わざるを得ない。

殺害に至った加害者の母親は、中国黒龍江省の出身と報じられ、来日理由は「結婚」だという。加害者の子供は5歳だから、少なくとも母親は26歳~27歳で「幸せな結婚生活を夢見て来日」したことになる。報じられる範囲でご亭主の年齢(47歳)を考えた場合、どのような曲折があったのか知る由もないが、おそらく、「国際結婚を生業とする口入れ屋」の手によるものではなかろうか。全く文化も環境も異なる地へ突然嫁入りして、いくつもの途惑いがあったのではないかと推測する。漏れ聞くところでは、凶行に及んだ加害者の母親は「中国の黒龍江省で大学を修え」てとある。現在の中国で、いかにモンゴルと国境を接する辺境の黒龍江省であろうとも大学を修えるのは、両親または親族が一定の社会的(政治的)地位を持つことを意味している。

それが、どのような手づるで「花嫁来日」となったのか、警察と検察には解明を求めたい。あるいは裁判上の弁護活動で、弁護人は明らかにする必要がある。それを行ったからといって、殺害された二人の幼児が戻るわけではないことは百も承知だ。

しかし、映像として写し出される「殺害現場とされる周辺や加害者の自宅の風景」から考えた場合、純然とした農村風景でしかない。日本の農業の基本は「稲作農業」である。しかも「水稲」であり、村社会の掟(決め事)は、何よりも「水の管理と適正配分」である。この掟が時代と共に若干の変化はあっても、脈々として受け継がれてきたし、大袈裟に言えば「日本社会の根幹を成している」のである。従って、地域社会に溶け込めなければ、そもそも日常生活そのものが成り立たないのである。

中国も黒龍江省では農業の基本は平地の「麦」である。水の配分は「水稲」ほど喧しく考える必要はない。同じ農村社会といっても、根本的に社会の基層が異なる。

中国を始め外国からこの種の地域へ「嫁」に来た人が等しくぶつかる「日常生活の壁」であり「強い途惑い」に包まれたのだろうと推測する。この「地域慣習」という壁は実に大きいのだ。それぞれの地域で暮らす日本人には「地域慣習」という自らが保持する「壁」の厚さや高さは分からないが、外国から来た人で、いきなりその種の地域での生活を強いられたら、途惑いと混乱は増すばかりだろうと思う。

大都市では、おそらく、一定の規模で「来日者のコミュニティー」も形成されているから、そこでフォローし合うこともできるが、この度のような地域では、その種のコミュニティーもないから難しい。

今回の事件では、「言葉の問題」も指摘されている。これも「障壁」だったものと考えなければならない。加害者の母親は中国でおそらく「標準的な日本語」を基礎的な意味で習得していたものと推測するが、実際の生活では「地域の言葉(語彙=イデオム)」は、標準的な日本語では示されない。また地域の慣習上の言葉は、実際に生活してみても、そうとう溶け込まなければ理解できないことが多い。日本人が現在の生活の場を離れ、全く、異なる地域へ移動しても経験することだ。しかし、そこには「日本人」という暗黙の了解がある。つまり「外国人」ではないから自らを護るために身構える必要はない。

今回の事件の背後を考えると、この種の「日常生活の場における様々な壁」が、ものすごい圧力になっていたのではないかと思わずにはいられない。

ご亭主は、どのように考えておられるのだろうか。申し分けないが、ご亭主側のご家族や親戚の方々が、報じられる「ご自宅」を「中国からの嫁」のために建て与えてやったのに、「何が不満だったのか?」などと、失礼ながら、お考えなのであれば、そのような態度が、加害者となった母親を凶行に走らせる間接的な原因を構成しているとも考えられる。人は、必ずしも「物質」で埋め尽くされたから「幸せ」を享受できるわけではないのだ。

本当に、ご亭主は、どうお考えなのだろうか、おそらく現在の住居地で生活されることも困難になるのではないか。残されたご自身の子供(心の傷とどう立ち向かうのか)を、今後、どのように育てられ、どのように家族を再建されるのか。ご近所との関係性をどのように維持されるのか。

また、「日本で嫁を得られないから外国から嫁を」という、「金の力」で「嫁取り」を求める人達へ、安易なビジネスとして「外国人花嫁」を斡旋する側は、「人としての責任」を問われなければならない。「金で嫁を買う」ことが如何に安易なことであるかを示したのではないか。

想像に過ぎないが、加害者の母親は、追いつめられた後に子供を伴い「自死」することを考えていたのではないか。警察による身柄確保が思いの外早かったので、それに至らなかっただけと推測したのだが。

この度の事件は「現実の犯行」も、その「背景に潜む本質」も実に深刻であり、日本社会が直面する危機の本質を顕している。

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コメント

うーん。私も実は全くおんなじことを考えていました。
このニュースを見て。
よく「公園デビュー」について子供を持つ女性の間で話になるようですが、若い(そして若くはない)お母さんが初めて公園に出る際に、交わす会話、そして服装、そしてすでに存在する母親たちと溶け込む際に、多大なる緊張感を持っている。
といいうことがこの「公園デビュー」という言葉に現れていると思います。
私は子供を持っていないので、友人から聞いた範囲でしかわかりませんが、公園に集まる母親たちのもっぱらの関心ごとは
子育て、嫁姑の仲、夫との関係、また家計のやりくりなど
非常に狭い世界の中でお母さん同士、一見仲がよさそうでいながら、持ち物や持ち家について見栄を張りあい、微妙なステータス争いや見えない縄張りがあるということを聞きます。
その中で私自身やっていけるかどうか不安なものがあります。

なんねんか、前に、東京の護国寺で、お寺に勤める夫と持つ妻が、家賃の違い、生活レベルの違いそして、お受験への不安から、子供の同級生である幼稚園児(?)を殺害して、神奈川かどこかの実家の庭に埋めたとう痛ましい事件がありましたが今回も本質的に似通っているものを感じます。


東京や大阪などの大都市圏であれば、中国から来た彼女に異文化への関心から興味を持ってくれたり、また自分の異文化での体験から彼女に同情と愛情を持って接してくれる人もときどきはいるかもしれませんが、日本の田舎であれば、自分たちが生まれ育ったところ以外のことには興味はなく、自分たちの価値観の中でしか物事を見ようとしない視野の狭い人々も多いのでは想像されます。

私自身、小学校の時に地方の小学校、中学校に何転校をしたことが合計4回ほどあるのでわかりますが、すでに出来上がった女の子たちのグループに入って溶け込むというのには想像を絶する気遣いとエネルギーが必要です。
そして特に田舎は人の出入りが少ない分
社会が硬直していて、柔軟性がない。
また、
男性の集団のヒエラルキーは比較的わかりやすいのに対し、女性の微妙な力関係と仲間意識というのは非常にわかりにくく繊細でそして時には陰険ですらあります。

そういう社会の中に、中国大陸の田舎で育った一人の若い女性が飛び込み、日々戦ってこなくてはならなかった孤独感と受験社会の中での子育てへのプレッシャーは相当なものだったのでしょう。責任感が強い女性ほどあせりといらだちも
大きかったのではないかと思います。

ここで、おっしゃるとおり、国際結婚斡旋業者による日本定住者増大の影には、今回の事件の彼女のような悩みと苦しみを抱えた人々が日本全国にまだまだたくさんいることを忘れてはならないと思います。

私も、警察の取調べの通訳を何度かしていますが
業者斡旋で日本人の男性と結婚したベトナム人で
孤独のあまり家を飛び出し、犯罪を犯してしまった人の話を何度か聞きました。
家族も、親類も、友人も誰一人いない土地で
外国人の夫と価値観や習慣の壁の中で、なれない外国語を使って家事や育児を抱えて生きていく彼女たちの生活は想像以上に大変です。
心から心配して彼女の心に寄り添ってくれる友人が一人でもいれば、こんなことにはならなかったのに。
と思うことがよくあります。

私も16歳の時にアメリカのメイン州というど田舎に一人で飛び込み現地の学校に通い、20歳の時にはベトナムのホーチミンの路地裏で暮らし始めましたが、どんなに孤独だったときでも、だれか1人が声をかけてくれてくれるだけでありがたい。そして横に来て、故郷がどんな国なのか、
どんなものを食べて育ったのか、どんな言葉をしゃべるのか。
そして今故郷の家族はどうしているのか。今の生活で困ったことはないか、聞いてくれたときは涙が出るほどうれしかった。そんな友達のおかげでこれまでなんとかやってこれたと思っています。

今自分の周りにも孤独の中で生きている人がいるかもしれない。そして自分はそれに気がつかないのかもしれないのです。
だから自分の周りで寂しそうにしているひとを見かけたら
少しでもいいから言葉をかけてあげたいとおもいます。
そして、自分の家族と、自分の子供の将来だけでなく、もっといろんなことに目を向けたお母さんたちが増えれば、こんな悲しい事件は起きなくてすむのだと思う。

もっといろんな生き方や価値観、そして人間の多様性を楽しめ尊重しあえる人々が増えればもっと日本も暮らしやすい社会になれるのに。。

この事件を見て強く思いました。

投稿: 石井良佳 | 2006/02/22 08:50

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