ウィークリー・ベトナム・ニュース
■ 平成19年9月15日 土曜日 第132号
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■ こんにちは!!
いつもお世話になっておりますベトナムから、ニャットアインです。
今日もここ一週間のベトナムの主なニュースをご笑覧下さい。
翻訳は直訳とせず、日本語に馴染む意訳としておりますので、ご注意下さい(笑)また、訳者の独断と偏見を交えた辛口寸評を入れてみました。内容が片寄り、言葉が多少過ぎる箇所も多々あろうかと存じますが、これもベトナムを愛するゆえの諫言とお許し下さい。
誤字・脱字はご愛敬ってことでお願いします<(_ _)>
尚、記事の転送は営利目的以外なら原則自由ですが、自己責任において行い、その中で被った被害・損害に対し筆者は責任を負えませんのでご了解下さい。
ベトナム・ニュース その132 今週のヘッドライン
* 9月10日(月) カシューナッツ生産と今後の課題
* 9月11日(火) 愛国心を女性に喩えると?!
* 9月12日(水) 希少野生動物密輸の裏事情
* 9月13日(木) 職業訓練校にも未来はある!
* 9月14日 (金) 最近目を引いた観光関連情報
* 9月15日 (土) 村山富市氏ベトナムで叙勲
9月10日(月) カシューナッツ生産と今後の課題
*高い営業実績を記録するにも拘わらず、カシューナッツ産業界は、2010年にかけて安定的発展を遂げるための長期戦略が要求される偉大な挑戦に晒されているという。今年8ヶ月間で、ベトナムは92000トンのカシューナッツを輸出し、3億7500万米ドルを稼ぎ出し、年度予算遂行率を65.7%とした。昨日、業界団体の専門家たちは、ホーチミン市において今年のカシューナッツ貿易と生産高、そして業界の発展計画について話し合いを持った。草の根レベルから中央までの関係企業団体と関係省庁及び自治体政府が一同に会し討議は進められた。
ベトナムカシューナッツ協会の報告によれば、第一四半期の実状を採り上げてみると、カシューナッツの輸出価格はやや上昇し、7月から8月のピリオドで昨年同時期にFOB一立米あたりUS3950$だったものがUS4100$で推移したという。現行、カシューナッツの最大輸出先国はアメリカで全体の市場の32.9%を占め、中国とオランダがこれに続くとの事。次に農業僻地開発省は、世界のカシューナッツ需要は今も高く、今後、カシューナッツの年間需要伸び率は平均5.7%になると見積もられている。加えて、ベトナム市場自体、大きな需要を秘めて下り今後の拡大が見込まれると語った。
とはいえ、未だ幾つかの課題(開発の未計画・労働者不足・機械化の未整備・衛生上の規格未完備・安全性の向上等)が業界全体に残されており、これらを前進させない事には業界の手堅い伸びは見込めないという。生産設備不足が生産性の劣化を招き品質・価格・手間に多大な影響を与えてしまう一方で、人材不足も業界に近年打撃を与えつつある。というもの、他の産業に人材が流れてしまうからだ。農業僻地開発省は、既に農業計画開発研究所に対し、2010年までのカシューナッツ業界の種苗開発・インフラ整備・原料生産特区の策定の実行可能なプロジェクト化を進めるよう課題を与えたという。それに拠り、2010年にはカシューナッツ生産地域を45万ヘクタールにまで拡大させ、より多くの投資を呼び込み生産施設の合理化並びに農業生産技術の底上げを図ってゆくという。カシューナッツ生産加工施設は再編を行い、中小は徐々に減らし、近代的な設備と技術を有する大規模加工施設に集約させてゆく方針だ。
現在、ベトナムは世界一のカシューナッツ輸出国で全部で164社の生産者が従事している。
(辛口寸評)
筆者の会社で生産するお菓子にも原料として多くのカシューナッツが使われているので、この手の記事にはついついひきづり込まれてしまう。そんなことは兎も角、これまでカシューナッツの主な生産地は、インドやアフリカのジンバブエ辺りがトップを占めてきたが、現在はコヒーと共にカシューナッツでも世界一の輸出国に押し上がったようだ。この背景には、やはり中国の存在がある。以前、原料としてのカシューナッツを手に入れるのは用意で、サプライヤーに電話一本かければ、その分を予め打ち合わせた価格で、取りに行くまで預かっていてくれたものだが、それが4年前に突如、中国カシューナッツバイヤーがベトナムに乗り込んで来ると、彼らはトラックを何台も連ねて、カシューナッツ生産者を直接回り、虱潰しに買い漁っていったのである。
突然、相場は軒並み跳ね上がり、しかもそれまでサプライヤーと地元メーカーとの関係も壊れていった。それはそうだろう。オフシーズンになれば、中国人バイヤーたちは酷いときは相場の二倍以上でも札束でサプライヤーを煽り、カシューナッツを買い付けてゆくのだから、全く歯が立たないのである。弊社も対抗策として、それまで必要な生産量だけ細かく仕入れていたシステムから、一年分の使用量をハーベストシーズンに丸ごと買い付けることにした。幸い、カシューナッツは外殻と中殻の二重構造なので、外殻のまま保存すれば2~3年は十分、鮮度を保つのでこの方法は功を奏したものの、それでも一気に現金を用意して買わなくてはならなかったのは、資金的にきついものだった。
現在はカシューナッツの生産高が上がってきたので、中国人が多少余分に買い付けて行っても問題ないが、それでも記事の中でも指摘されていたように、これからはベトナム国内需要が上昇してくるのは間違いない。以前は一般的なベトナム庶民にとって、カシューナッツは高嶺の花だったが、今では市場にピスタチオも目にすることができるほど、その裾野の広がりを見せて来ている。ベトナム業界団体は取りこぼしのないよう、国と共に産業の発展と育成に励んで頂きたいものだ。
9月11日(火) 愛国心を女性に喩えると?!
*色々な面においてグエン・ティ・キム・フエさんの勇敢な精神はベトナム国家の神髄を代表していると言える。しかし、現在68歳のフエさんの誇りはベトナム戦争に民兵として従軍し華々しい功績を挙げた事ばかりでなく、ベトナムの偉大なる指導者にして伝説の英雄ホーチミン大統領と直接話しをする機会を得たことだ。「私は世界一の強運の持ち主だと思います。ホーチミン大統領に5回も会えたのですから!会う度に大統領は私の人生や戦友について尋ねてくださったの。」と今も思い出すと胸がときめくというフエさん。戦争中の彼女の人生や一緒に苦楽を共にした戦友たちはどちらも心温まる想い出だが、しかしホーおじさんに対する彼女の傾倒は愛国心の片鱗を見せるものだ。
フエさんは1965年に民兵に志願し入隊した後、彼女は中部クアンビン省に配属され、16名の小隊長としてバイディンに向かう途中のラ・チョン橋南の国道12A号の補修に従事したのだった。この道路は他の道と同様、北部から南部へ兵站を運ぶ補給路である一方、戦略重要拠点と米軍から認識され絶えず爆撃に曝される道でもあった。
彼女らの使命は危険で決死のもので、最前線に送られる彼女たちは常に敵の爆撃に因る戦死を意識し仮葬式を出して戦場に臨んだほどだった。1966年7月3日に始まる凶暴なB52爆撃機に因る、絨毯爆撃はそれから45日間続き、フエさんの戦友24名の命を奪った。「あの当時、私たちは車の通行を可能とするために道路のある部分の補修工事を急ぎながらもその一方で、爆弾で離ればなれになった戦友を探したものです。」とフエさん。
「爆撃後に戦友を探すのは危険この上ない作業でした。1966年7月3日、アメリカの戦闘機が突然、私と3人の戦友に襲いかかりました。襲撃を避ける為、私たちは近くのトンネルに飛び込んだのですが、4人が入るには狭すぎて私はひとり外へ出て他のトンネルを探すことにしたのです。暫くすると一発の爆弾が戦友の潜むトンネルに落とされたのでした。爆撃が終わりそのトンネルへ様子を見に行くと誰もおらず、そこには骨や肉やスカーフの破片が飛び散っているだけでした。」とフエさんは涙をすする。幾度かフエさんは死ぬような目に遭ったが、彼女のファイテイングスピリットは萎えることがなかったという。
「正気に戻る度、私は戦闘に備えたものです。」とフエさん。
勇敢なる彼女の功績が認められ、フエさんは1966年北部フンイェン省の軍事訓練コースに送られた。ここで彼女は先ず第一回目のホーおじさんとの出会いがあったのである。「あれは昼下がりのことでした。私は射撃試験を終えたところで、直ぐに私が最高点を記録したと発表がありました。すると南部ベトナムスタイルのパジャマを着て、ゴム草履を履いた老人が私に向かってやってきて、どうしたら射撃の腕が上がるのかその秘密を教えて欲しいと尋ねて来たのです。
そして私は彼に、先ず自分を落ち着かせ感情をコントロールし、息を深く吸い込み後は引き金を引くだけですと答えたのでした。その後、射撃訓練をもう一度行っていたら、先ほどの老人が現れ、私に“クアンビンの若い女性は農産物育成に長けているばかりかアメリカとの戦いにも長けているようだね。」と語りかけてきたのです。それがホーチミン大統領であることは既に気づいていました。」とフエさん。
「その年の暮れ、クアンビン通信代表団の功績をホーチミン大統領に報告するための代表に任命され、私は偉大なる指導者との再会を果たしました。大統領は私が所属する部隊や人々、そしてそれらの働きぶりについて多くの質問をなされました。私は彼に182名の部下が彼女の指揮下に入り、現状、マラリアが部隊内の問題であるとお伝えしたのです。ホーおじさんはヴ・キィ秘書官に私が話したことを全て記録させ最後に独身かどうか尋ねたのです。ですが、私は恥ずかしがり屋なので私が幼妻であることを躊躇いました。しかし、近くの誰かが私が既婚者であることを報告するとホーおじさんはいつ子供を作るのか尋ねられました。私は、我々の革命が成就した暁にとお答えしました。」とフエさんは語る。ところが、その時、ホーチミン大統領はフエさんにアメリカとの戦いは今後、5年10年に渡る長丁場になるので、早く子供を作り共にアメリカと戦う一員として育てて欲しいと言い、良い戦士のフエさんは良き母親にもなれるでしょうと付け加えたそうだ。
ホーおじさんとの会見を終えると、全ての人々が大統領との夕食に招待され、招待者には当時ベトナムでは貴重なお菓子が贈られたのだった。この会見後、国中の民兵の毎月の砂糖の配給量は250グラム・塩250グラム増量され、新しい戦闘服一枚と女性用医薬品一瓶が与えられることとなった。この小さなプレゼントが結果的に民兵の戦闘意欲を高めることに繋がった。当時、食事や衣服は全て国家の管理下に置かれクーポン券システムにより支給されていた。
フエさんはそれから数ヶ月後の1967年1月に大統領に再会することになった。この年、英雄たちの国会議会において彼女はクアンビン省代表の11名の同志と共に労働英雄称号を授与されたのである。
「ホーチミン大統領は私たちひとりひとりに腕時計とハンカチをくれました。今でもそれらは大切な私の宝物です。」とフエさん。そしてフエさんとそのチームが前年、45日間の爆撃での苦難を物語ると、ホーおじさんは感動し涙を流したという。しかし、フエさんのとって最も感動的なホーおじさんとの会見は1967年7月の第4回国家民兵会議の時だった。「私は花束をホーチミン大統領に渡す役目を任されていました。私が花束贈呈をする際、カメラマンがその瞬間を捉えて撮影してくれました。その写真は何度も何度もメディアに利用され国中が見てくれたのです。そして今もその写真は我が家に大切に飾ってあります。」とフエさんは誇らしげに話す。
5回目と最後にフエさんが大統領と会ったのはロシア10月革命記念式展でのことだった。フエさんと他の代表者たちは旧ソビエトを訪問前にホーおじさんは代表団に声を掛けた時だ。1969年9月2日にホーチミン大統領が死去すると、ベトナムの伝統に倣いフエさんは大統領の為に100日間の喪に服した。喪に服する最中もフエさんは偉大な指導者に対する愛情と支援を続けたわけだ。この間、フエさんと5人の仲間たちはホーおじさんとベトナム青年劇団メンバーとして日本と中国へ公演に出掛けた。偉大な指導者は死去したが、彼の教えは今も生き続けており、フエさんはベトナムニュースに対し、現在 国家の産業かと近代化を推し進める為にベトナム共産党中央が掲げる青年たちの教育モデルとしてホーチミン大統領を見習おうとするキャンペーンに同調していると語る。
フエさんは1995年退職し、現在は中部クアンビン省の片田舎で静かに余生を送っている。「私の恩給は僅かで一ヶ月あたり140万ドン(約10450円)でしかありません。しかし、一日の私の生活には十分で、貯金して我が家の改修に充てたり姪や甥の学業の足しにしています。」とフエさん。多分、フエさんの最も偉大なキャリアを挙げるとすれば、1969年訪日前の記者会見で彼女自信の言葉で語った言葉になるだろう。外国の記者がフエさんに何故アメリカを向こうに回した戦士がこんなにも可憐で若いのかというして門に対し、彼女は「確かに私の身体は小さいけれど、スピリッツまで小さいものではありません。私たちは敵に懼れず、国家の自由と独立の為なら自己犠牲も厭いません。」と答えたのだった。
(辛口寸評)
この記事の主人公、フエさんもそうだし、またクチトンネル観光で観光前の見せられる当時のクチの様子を撮影した記録フィルムの中に出てくる若い女性のベトコン兵士もそうだが、慎重は150cm、そこそこで体重40キロを軽く切るような彼女たちが重い対地機関砲を背中に担ぎ、ギリギリで死角を作る戦車の前に出ての正面突撃などなど若い女性だからといって決して侮ることは出来ない。我が家の嫁は戦後直ぐに産まれたので、やはりこれら芯の太い(図太い)世代に属する為、夫婦喧嘩をしても時に嫁が“こわい”と感じることがある。
何分、筆者は日本の高度成長期真っ直中に誕生した世代のため、我慢や辛抱をすることに不得手で、しかも消費は美徳の観念がしっかり植え付けられているため嫁さんとは対極の位置におり、一言で云うならばこちらは“へたれ”なのである。確かに怖い女房ではあるが、筆者に無い部分を持ち合わせ、それで後方支援に入ってくれればこれほど心強いパートナーもいないのも事実だ。まあ僕としては可能な限り“敵”に回したくない女性であるのは確かだろう(笑)
9月12日(水) 希少野生動物密輸の裏事情
*ハノイ市警は今週火曜日、ベトナムに虎の骨や内臓を密輸しようとしたギャング一味を摘発し、4人を逮捕すると共に内蔵の一部が摘出された3匹の虎を没収した。3匹の虎はタンスアン区の一軒家で密かに育てられ、内2匹は腸を取り除かれ弱った状態で見つかり腸は冷凍庫の中で冷凍保存されていたという。また、この一軒家近くに住むラオカイ省出身のグエン・ティ・タン40歳が所有する家の中で、虎の皮と骨、そして内臓が発見されている。タンの居住地域内でタン名義で借りた別の家では、内臓を除かれた虎と4本の象の鼻、それに8個の雄牛の頭他、多くの動物の骨が見つかったという。結果的に主犯のタンと彼女の3人の手下が逮捕されたのである。
尋問に因れば、タンは内蔵が摘出された虎をミャンマーから輸入し、その骨を砕いて1グラム辺り400米ドルで伝統的なリューマチの煎じ薬として販売したという。密輸は2004年から行われてきたと云い、昨今、ベトナム北部で虎の違法取引が広がっている為、余罪が無いか更に追求の手を強めていると当局は結んだ。
(辛口寸評)
ベトナムも中国文化圏に属するため、漢方が盛んだ。チョロンへ行くとそれらしい何種類もの薬材が軒先にうずたかく詰まれ異臭を放っているが、沢山の客でどの店も賑わっている。薬材はナツメ類、キノコ類、タニシ、エビ、フカヒレ、牡蠣殻、アワビ、サザエ、タツノオトシゴ、ナマコ、ウコン、朝鮮人参、薬草百種の他、記事の話題となり珍重され高価な虎の骨や胆、或いは熊の胆などが販売されている。2年ほど前にも、ホーチミン市の直ぐお隣のドンナイ省で、生きた熊の胆を定期的に採るため自宅で熊を養殖していた男性がその熊に襲われ非業な死を遂げ、このベトナムニュースでも採り上げたが、虎や熊の骨や胆の需要の高さを物語るものだ。
今回はミャンマーから虎が密かにベトナムに運び込まれたということだが、ここから筆者にはベトナムでの虎の乱獲がここ数年で激しくなり、個体数が激減していると直感的に識った。筆者の嫁さんの故郷はベトナム北部ソンラ省でラオス北部と国境を隣接するところにあるゴールデントライアングルの山岳地帯にあり、虎や熊がよく出る地域なのだ。ある旧正月にソンラへ家族連れで里帰りをした際、親戚の家でお呼ばれをして、そこの人に裏庭に案内されついてゆくと、何と小さな虎を飼っていて大いに驚いたことがある。何でも、親にはぐれたそれをハンターが拾い、それを分けて貰ったのだという。
親戚の人は生後未だ一ヶ月くらいだといい、暫く育ててみるつもりだと話してくれた。それから一年ほど経ってそこの家から小包が届いた。中を開けて見ると手紙一通にクリーム色した粗い粉、それと茶色に干涸らびた肉片のようなものが同封されていた。そう、感の良い読者の皆さまにはお判りだろうが件の虎のなれの果てである。
どうやら、大きくなると共に食費が嵩みだしたことに加え、その内、こちらが餌になる恐れが出てきたので、やむなく潰して漢方の薬材にしたとのことと書き添えられていた。虎にしても熊にしても北部では普通に取引されてきたのが今日に祟り、需要の高まりと共に密輸が行われるようになったと考えて間違いないのである。
9月13日(木) 職業訓練校にも未来はある!
*今年25歳になるデザイナーのグエン・ゴック・ディウさんはインターネットカフェで、新しく設立された日系企業の会社ロゴの仕上げに余念がない。2004年にディウさんが挑戦した産業芸術大学の入試結果は惨憺たるもので不合格となった。この為、彼女は大学進学を断念しFPTアレナで職業訓練を履修することにしなければならなかった。「デザイナーになることが子供の頃からの夢でした。仮にもう一年待って受験するという選択肢があったとしても、更にお金がかかったでしょうし、何よりも合格する保障もありません。確かに大学を出ていればある程度将来の保障はされるでしょうが、しかし職業訓練を受ければ私にも仕事が得られると考え、大学を諦め新たな道を職業訓練に求めたわけです。」とディウさん。
毎年、10人に7人の割合で何千人もの高校生が大学入試に失敗し、ディウさんと同じような状況に置かれ、浪人し来期を目指すか或いは職業訓練校に身を置くかの狭間でしばし悩むものである。ハータイ省バヴィ区出身のブイ・ザンくんは大学入試に失敗したら職業訓練校に入学すると決めていたという。「僕はいくつかの職業を考えて見たけど、最終的に選んだそれは自動車修理を選択したのです。
これを履修すれば卒業後仕事の機会に恵まれるであろうことを自分なりに理解していたからに他なりません。」とザンくん。また、フンイエン省ティエンルー区出身のファム・ヴァン・タンくんは、職業訓練校で新しく学ぶものは難しいことも多くついてゆくのが大変だと理解していましたが、卒業後、深い市場経済の知識を有した有資格専門家となれば必ず成功するものと強く信じ、この道を選びました。」と語る。
ホーチミン市経済研究所のレ・ヴァン・タン氏は、労働市場はある意味、職業訓練校を通じて高等専門教育を求める学生たちの支持により変化を遂げようとしているのだという。「昨今、雇用者は給与体系をこれまでの資格偏重主義から、効率性と許容力にシフトしつつあり、結果的に大卒とか職業訓練校卒であるかは問われなくなり、その意味において合理性が優先されるようになったと言えるでしょう。」とタン氏。
しかし、全ての学生や保護者がこの意見に同調しているわけではない。実のところ筆者の妹が大学受験に失敗した時、私は両親に妹を職業訓練校に通わせたらと提案すと彼らの機嫌は更に悪化したのだった。父は、私が妹の未来を望まないのか、大卒にしか未来は無いのだと詰め寄って来た。結局、妹は友達のほとんどが大学へ行くのに自分だけが職業訓練校では恥ずかしいと言って、浪人を選び職業訓練校へは行かなかった。
職業訓練校に対する世間の見方が変わる必要がある。ホーチミン市職業訓練校のグエン・チャン・ギア校長は世間の人々が職業訓練校へ通うことが一般的なキャリア追求の道であることに気付く必要があると語る。ベトナム全土に1000カ所の職業訓練校があり、50万人の学生が学ぶことが出来、この一は1.5倍も大学より高いのだ。
ホーチミン市人民委員会労働傷病兵社会課のチャン・クオック・ニン氏は、主要産業における熟練工の需要は急速に高まっており、これらの企業では実用的なスキルと能力を身につけた職業訓練校卒業者採用を熱望しているという。職業訓練校の重要性を広く認知せしめ、卒業後の効果と効用を学生たちに理解させる機会を提供すべきで、専門的知識を学べば彼らに適した仕事が選択出来るのですとギア校長は結んだ。
(辛口寸評)
ベトナムが今後 近代化と工業化を国是として成し遂げてゆくために必要なことは如何にして、技術的知識を持つ集団を量産し、社会に送り出して行くことにあると言える。現段階では、高校で普通課程を優秀な成績で終えた者は大学へ進学し、そうでない者が“仕方なく”職業訓練校に通うと言った構図がこの国に存在している。結果的に、高卒で出来の好くない者の受け皿が職業訓練校だとの見方が世間に定着しているのだ。とは言うものの、のっけから職業訓練校の選択が格下扱いでは、そこに集まる学生も生涯ある種の劣等感を持ち続けるのみならず、そもそも学習意欲の低下は免れない。故に、国是にも照らし合わせるとするなら、ベトナムも日本同様、中学卒業後の高校課程において、普通科だけでなく、工業科や商業科、更にいえば技術の基礎(初歩)を職業高校の設立が求められるのである。
この3年間で、工業科では初歩的な旋盤操作や製図をひく技術を取得し、商業科であれば初級の複式簿記や情報処理などの技術を取得出来るようにして行くことが肝要だ。その知識を持って、専門大学で学ぶのも好し、或いは即戦力として就職しても好しと言った状態にすることが最終的にこの国が望むものを得ることに繋がるわけだ。加えて、高校課程から将来付きたい職業を目指すわけだから、そこに誇りを持ち学習に意欲を注ぐことも可能となろう。この点にベトナムは早く気づいて欲しいものである。
9月14日(金) 最近目を引いた観光関連情報
*カンボジア観光省に因ると、カンボジアとベトナムは共同で二国間を繋ぐ沿海部の観光開発を行って行くという。この計画は、ベトナム及びカンボジア、そしてタイの三カ国の南部都市間を海上で繋ぐ協力枠組みの一環として合同で行われるものだ。カンボジア観光省は、同国の財界が370万米ドルを投じ、観光ルートとして利用されるカンボジア海浜の町ケップの都市整備とサービス開発を実施するとのこと。この計画の下、完成の暁には観光客はケップからベトナムのハアティエン間を海上で行き来が可能となる。また、カンボジア政府は、シエムリアップからの飛行機を就航させる為に海辺のシアヌークヴィルにある国際空港をアップグレードすることに決定した。カンボジアへの観光客数は年々増加の一途を辿り、2006年には200万人が訪れているという。アパレル産業と共に、カンボジアでは観光業の発展を目指している。
ハノイ市から世界的に有名なサパ地域があるベトナム北西部のラオカイ省を走る豪華列車が運行した。最も高額なチケットは個室一等ベット付きで片道99万ドン(約7390円)、4人用コンパートメント寝台車は一ベット34万ドン(約2540円)、6人用コンパートメント寝台車は一ベット30万ドン(約2240円)、ソファー席が20万ドン(約1500円)で、所要9時間のこの鉄道はラオカイ駅を午後11:50発で、ハノイ駅発は午前0:30発となり、チケットはハノイ04-9429919 ホーチミン08-5174085で電話予約が可能だ。この豪華列車以外にハノイからラオカイへは5本の汽車が運行されている。現行、ベトナムではホーチミン市と中部ビーチリゾートのニャチャンを結ぶ2台の5星観光列車が運行している。このチケットの予約は次のウェブサイトから可能だ。
www.5starexpress.com.vn 或いは www.5star-express.vn.
(辛口寸評)
このところ、アセアン域内の移動が年々簡単になってきている。
その一例が、国境を跨ぐ国際バスの運行が充実してきたところにある。ホーチミン市とプノンペン市を約6時間で結ぶバス料金は片道11米ドルから14米ドルと各社マチマチだが、おしぼりや飲み物サービスは当たり前で、他にバインミー(ベトナムのサンドウィッチ)をくれるところもあり、現在、10数社がこの区間にバスを走らせている。最近では、ホーチミン市・シエムリアップ間の運行サービスも開始され、片道18米ドルで16時間を掛けて移動するというものだ。こちらも需要は高いようで、今後、続々とバス会社やタクシー会社が参入すれば、価格も引き下げられるかも知れない。
事実、ホーチミン市・プノンペン市間は現在、そのような傾向にある。ヨーロッパへ行くとユーロバスなるものが走っており、ヨーロッパの都市間を縦横無尽に結ぶ国際バスのネットワークが広がっている。
大都市間を結ぶだけでなく、中核都市間からもハブ化されているため、例えばアイルランドのダブリンを起点に、ロンドンを経由せず、ノルウェーのオスロやフィンランドのヘルシンキ、或いはドイツのハンブルグなどへ行くことが可能だ。アセアン域内の移動も最終的には東西回廊の整備充実と共にユーロバスのように進化するのだろうと思われる。
9月15日(土) 村山富市氏ベトナムで叙勲
*グエン・タン・ズン首相はハノイで元日本国首相で日越友好協会会長の村山富市氏に友誼勲章を贈呈した。この賞は村山氏の日越二国間関係発展に寄与貢献した実績が認められ贈られたものだ。訪越中の元首相との懇親の席で、ズン首相は日越両国が共有する文化・習慣のお陰で両国が戦略的パートナーになり、貿易・投資・政策・国防の面で共通の利益をシェアするまでになったと語った。またベトナムとの多面的協力においては特に経済・貿易・投資の分野で日本の役割が増大し、アセアン地域に重きをなす存在となりつつあるとズン首相。
ズン首相は日越両国の友好促進及び協力関係建設に貢献してきた村山氏を賞賛し、ベトナム政府と人民は日本国首相として国に奉仕した頃から現在に至るまでの同氏の貢献を忘れないだろうと語り、併せてこれからの村山氏の協力も期待したいと祝辞を述べた。村山氏は祝辞に応え、ベトナムを訪れる度、発展めざましい成果を目の当たりにし、そして日越関係が全ての分野 特に投資と貿易で順調に発展進化している姿に満足していると述べた。良好な二国間関係は双方に利益をもたらすばかりでなく、アセアン地域の安定・発展・平和に繋がるものだと村山氏は指摘し、今後ともベトナムでの日越平和友好協会の効果的な無償援助を通じ貢献し続けて行きたいと語った。
村山富市氏は第81代日本国首相として1994年から1996年の二年間、政権を担った。
(辛口寸評)
この村山富市氏、失礼ながらまだご存命にあったとは、如何にベトナム暮らしが長いとはいえ正直大変驚いた。1994年6月24日に自民党・社会党・さきがけ連立内閣において、海部俊樹元首相を破って、棚からボタモチのように内閣総理大臣のポストに就任したわけだが、この人ほどその後の日本を貶めた首相はいなかったと思う。就任期間中に阪神淡路大震災が起きたのは記憶に新しいところだが、ニュースで首相官邸内に出来た、緊急災害対策室で、村山氏を始めとする時の執行部の面々は一応にテレビに釘付けとなり、火の海となった神戸の街を馬鹿面揃えて呆然と眺めていたのに無性に腹立たしい気持ちにさせられた。目の前の大災害に何ら有効な手だても対策も打てづ、苟も一国の宰相が一個の“野次馬”でしか無かった姿に深い失望感に襲われたのである。恐らく、読者の中には同じような気分に浸った方も多いのでは無いかと思う。
次に、1995年8月15日の戦後50周年記念式典において、村山は閣議決定に基づき、日本が戦前、戦中に行ったとされる侵略や植民地支配について公式に謝罪したことである。このお陰で、日本の戦時中の行為が全て“悪”として、中共や朝鮮、所謂“特定アジア”が、その後の対日政策において外交カードとして有効に使い始め、従軍慰安婦問題や今日に尾を引く靖国問題への禍根を生み出すきっかけとなった、全く愚かしく情けない村山談話が定着し、以後の歴代政権に引き継がれて日本国政府の公式歴史見解として扱われることになった元凶でもある。時代の悪戯とは言え、村山内閣政権発足時から55年体制下で続いてきた保革対立に終止符を打った自社さ連立政権だからこそ実現できたのだろうし、衆議院議員総選挙で大敗した社会党の党首であったことが、自民党の後押しで数の力で政権を取ってしまったという面も否定できない。要するに時代のあだ花だったのだろう。
以上
最近のコメント