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2007/11/15

稲尾和久さんの死を心から悼む!

野球の面白さ、野球の不思議さを見せてくれた大投手「鉄腕稲尾」。
遂に、「神様、仏様、稲尾様」と言われた人が、本当に「仏様」になっちゃった。

福岡を舞台に活躍された頃、日本経済の戦後復興を支える「北部九州」は活気に溢れていた。
今は、発展成長するアジア経済を睨んだ巧みな産業構造への転換もあり、またもや活気に満ちている。
大投手「稲尾和久」さんは、当時の九州の勢いを表徴する人だった。
それは、九州の誇りともいえる、「西日本鉄道(=西鉄)」の球団「西鉄ライオンズ」の一員として、向かうところ敵無しのような、あるいは(噂どおり)破天荒なチームが、当時のエネルギーを代表していたからかも知れない。

西鉄の電車は、その頃も今も福岡(天神)と大牟田を結んでいる。西鉄のバスは、福岡を中心に北部九州を隈無くネットワークしている。

その電車とバスに運ばれ、今は姿形もなくなった福岡城址の「平和台球場」へ足を運び、自分の人生を賭けたかのように「西鉄ライオンズ」を応援した(と聞いている)。

三原 脩監督に率いられた「西鉄ライオンズ」は稲尾、大下、中西、豊田、和田・・・・・らの選手が粗削りな勝負を繰り返していた(らしい)。
伝説のチーム「西鉄ライオンズ」は、当時の北部九州の星だった(と思う)。

エネルギー政策が転換される前の事だったろうから、「その日の稼ぎは、その日に使う」を良しとして、「粗削りでも鯔背でゴン太」な山の男たちを魅了した不思議な野球チームが「西鉄ライオンズ」だった(と聞いている)。

当時の娯楽は、「野球」、「相撲」、「プロレス」と相場が決まっていた(ようだ)。
テレビで中継される、それらを見る事だけでも「凄いなぁ~!」と羨ましがられ、まさにそこには「ALWAYS・三丁目の夕日」に描かれる姿がそこにあった(と思う)。まして「平和台球場」で鉄腕稲尾の投球を見たという事は、周囲の人には大変な偉業と映ったかもしれない。

博多の街(というか福岡)では、当時、11月は忙しい月と言われた(ようだ)。
活躍する「西鉄ライオンズ」が「日本シリーズ」を「平和台球場」へ引っ張ってきて見せてくれる。終わるや否や、その年を締める「大相撲九州場所」が「福岡スポーツセンター(いまは「ソラリアプラザ」になった)」で開かれる。相前後して、「福岡国際マラソン」も開催されるというようにスポーツ目白押しだった(ようだ)。

博多の街(福岡)は、新年年明けと共に、一年中「お祭り騒ぎ」というか「祭」を楽しむ事ができる「日常」があり、山で命を賭けて生きる「男たち、女たち」に「非日常」を提供する異空間だったかも知れない。

その最大ヒーローが「西鉄ライオンズ」であり、稲尾であり、大下、中西、豊田、和田・・・・・らの選手だった(と考えている)。
その気持ちを正面から受け止め、闘いに挑み、見事に打ち勝つ「西鉄ライオンズ」。
だから、彼らはスターだったのだ。

同じ時代に、同じ経済環境を支えた、もう一方の雄「夕張」の山(廃坑)へ足を運んだ日に、夢を見せ、夢を与えてくれた大投手「稲尾和久」さんの逝去を知った。

夕張の山(廃坑)にいた事もあり、メンテナンス中の事もあり、13日と14日の掲出はお休みにした。メンテナンス後の再開、第一本目は「(故)稲尾和久」さんの死を悼む掲出になった。

これも何かの縁であろうか、「24」は、それぞれの内で、永遠に光る、光り続ける事だろう!「故・稲尾和久」様のご冥福を心からお祈り申し上げる。「やすらかに!」と。
ついに「西鉄ライオンズ」は消えてしまった!

引用開始→ 元西鉄ライオンズの稲尾和久さん死去  (asahi.com)
2007年11月13日21時40分

「神様、仏様、稲尾様」と称賛されて鉄腕の異名をとり、プロ野球・西鉄ライオンズの黄金期を担った稲尾和久(いなお・かずひさ)さんが13日午前1時21分、悪性腫瘍(しゅよう)のため福岡市内の病院で死去した。70歳だった。通夜、密葬は親族のみで行い、告別式は22日午後2時から福岡市中央区古小烏町70の1の積善社福岡斎場で。喪主は妻律子さん。

大分県別府市出身。56年に別府緑丘高校(現芸術緑丘)から西鉄(西武ライオンズの前身)に入団。開幕戦で初登板を果たし、21勝(6敗)を挙げて新人王を獲得した。入団当初、打撃投手として磨いた制球力を武器に、翌年もプロ野球シーズン最多タイの20連勝を達成した。

58年には33勝でリーグ3連覇に貢献。この年の巨人との日本シリーズでは、チーム3連敗後、自らが4連勝して逆転優勝の立役者となった。第5戦では打者として延長10回、日本シリーズ初となるサヨナラ本塁打を放っており、投打の活躍は「神様、仏様、稲尾様」とたたえられた。

そのほか、プロ14年間で輝かしい実績を残した。1年目から8年連続で20勝以上を挙げ、61年には、戦前のスタルヒン(巨人)に並ぶシーズン最多42勝をマーク。最多勝を4度、最優秀防御率を5度、獲得した。通算成績は276勝137敗、防御率1.98。93年に野球殿堂入りした。

69年に現役を引退してからは西鉄やロッテなどの監督を計8年務めた。ユニホームを脱いでからも評論家として活躍。少年野球の指導にも力を入れ、陰からも球界を支えた。

手足のしびれを訴え、10月30日に検査入院していた。
(WEB朝日新聞社asahi.com)  ←引用終わり

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