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2008/06/02

モードの帝王、天才イブ・サンローラン氏の死を悼む、限りないオマージュを!

Erp0806020834000s2sankei一人の天才が、引退を表明したとき、世界はその才能がモードの表舞台から消える事を惜しんだ。
しかし、「モードの帝王」と呼ばれた、サンローランは晩節を汚す事を嫌い、実に潔く引退してしまった。

随分前に、日本人デザイナーの草分け「KENZO」の高田賢三が引退を表明したとき、「エェ!?ナンデ?」と、思わず言葉が口から漏れ出た。しかし、考えたらそうだろうなぁと、いつまでもファッションの世界で「個人の創造力が大きな要素で、個人が率いるブランドビジネス」は、創出するイメージとメッセージがポイントだから、その創造力を維持しいつまでも発信し続けるのは気力体力ともに難しい。
去るときは来る。仕方がない!

その後、数年を経た上で、イブ・サンローランは引退表明したのだった。
日本の(国・公立)大学の教授なら定年退官の年齢だった。
有り余る才能、しかし余生で穏やかに自分のために大切に使われる事がよい、と考えた。

イブ・サンローランが与えた影響力や破壊力は並のモノではなかった。
フランスのモード界はもとより、世界のファッションビジネスに、彼は「知的センスに溢れた美」を見せた。
「フランスのエレガンス文化」を体現して魅せた。

サンローランは、「クリスチャン・ディオール」でディオール亡き後、チーフデザイナーを務めディオールの「クリスチャン・ディオール」を更に発展させた。
その後、マルク・ボアンがサンローランの後を継ぐが、ディオールの突然の訃報を受け「クリスチャン・ディオール」を支えたのはサンローランである。
いよいよ、以前にも増して「クリスチャン・ディオール」の「エレガンス」に拍車がかけられた。

「クリスチャン・ディオール」を去ったサンローランは、自ら「イブ・サンローラン」を創出し、その後、一貫して時代や環境ごとに「フランスのエレガンス文化」を魅せ続けた。

サンローランは「イブ・サンローラン」のブランド名に、必ずと自らの立場を誇示するかのように別ラインには「リヴ・ゴーシュ」を付記していた。

こんなサンローランの姿勢に共鳴したのか、利用しようとしたのか、勝ち馬に乗ろうとしたのか、よく分からないが、「西武百貨店」は日本市場への導入に成功した。

勿論、文化人としての多大な造詣を持つ「堤清二」(当時)代表の姿勢があったのだろう。渋谷と池袋に、それなりに洗練された「イブ・サンローラン」のショップが出現した。
別に、堤清二氏がファッションにまで大きな造詣を持っていたワケではない。実妹でパリに在住する堤邦子さんの存在が、「西武百貨店」による「イブ・サンローラン」の日本市場導入を実現させたのである。
70年代に飛躍を目指す「西武百貨店」には、手垢の付いていない、しかもエレガンスをベースにしたオートクチュールのイメージ商材が不可欠だった。
「イブ・サンローラン(リヴ・ゴーシュ)」を「西武百貨店」が展開する事は、経営政策や事業戦略の上から考えても実に大きな役割を果たした。
いかに「渋谷へ出てきても、所詮は、池袋の駅前デパートに過ぎない」と揶揄され続けた「西武百貨店」が、堤清二流の「文化路線」を掲げても「顔」になる商材、いや何よりもイメージの構築ができなかったのだから渡りに舟だった。

堤邦子さんも、このビジネスを成功させ、パリの社交界を始めビジネス界でも、その存在感を大いに高められた事だろう。今の立場を拝見し、そのように思う。

一方、導入に成功した「西武百貨店」は今も健在の和田繁明氏が頭角を顕し、エネルギッシュに担当店だけではなく、全社へ号令しようかという勢いの頃だった。
あの頃の「西武百貨店」には、イロイロ、様々な人達が腐臭を放ちつつウヨウヨいたなぁ~!
どちらかと言えば「語り」だけで、すぐに剥げ落ちる「文化人気取り」の人物が多かった。
これは当時トップの堤清二氏が、経営以上に「文化」を語りすぎたからだろう。
新宿で粘る「伊勢丹」は「文化」よりも「経営効率」を語る傾向が強かった。
現社長の武藤さんはその典型だった。直下に位置した川中某も同じく「ファッション商品と経営効率」第一主義だった。
「西武百貨店」は「文化創造(提供)」第一主義だった。
ついでに言えば、「三越」は「伝統」が全てを規定すると「オカダ」流だった。

その後、「イブ・サンローラン」を得た「西武百貨店」は「PISA」を開業し、啀み合っていてもプリンスホテルの中に「PISA」を展開してみたり、ヨーロッパで猛烈な「ファッションブランド」の買い漁りを開始する。この点では先代が郷里を同じくする某商社と同じ構図で、ロクでもないブランドの提携やらバイイングで、競い合い張り合っていた。
国内では、様々な新進コピーライターが動員され、一定の評価を得たのか、「西武百貨店」お決まりの「スローガンコピー(普通はコンセプトを顕すコピーと考える)」の連発を競い合うお粗末な始末と相なった。
やがて、中身を伴わない行き過ぎた「西武百貨店」の「文化」第一主義は、「有楽町西武の」開店をピークにバブル経済の崩壊もあり敢えなく崩壊した。
その骨を拾うのも、また和田繁明氏だったから皮肉なモノである。
堤清二氏は引退。基本的には隠遁し詩人・作家「辻井喬」として余生を過ごしておられる。

サンローランの追悼話から、脱線が過ぎたようで・・・・・・・

様々なコトを創出されたイブサンローラン氏の死を悼み、その業績に対し深く感謝の意を示すため、ささやかなオマージュを贈りたい。

引用開始→ イブ・サンローラン氏死去 71歳  (産経MSN)
2008.6.2 08:34

Erp0806020834000n1sankei2002年1月にパリのポンピドーセンターで開かれた引退ファッションショーでモデルらに囲まれるサンローラン氏(写真中央) 
【パリ支局】20世紀を代表する世界的ファッションデザイナーで、「モードの帝王」と呼ばれたイブ・サンローラン氏が1日午後、パリの自宅で死去した。AP通信などによると、同氏の友人が明らかにした。71歳。病気のため、長い間、療養中だった。日本のファッション界にも多大な影響を与えた。

1936年8月1日、当時フランスの植民地だったアルジェリアのオラン生まれ。17歳で国際羊毛事務局主催のコンクールで1位を受賞、パリに出てクリスチャン・ディオールのメゾン(店)に採用され、弟子入りした。57年、ディオールの突然の死に伴って21歳の若さで後継者に指名され、翌年の初コレクションでトラペーズ(台形)ラインが大評判となった。

62年に独立し、美術とファッションを融合した「モンドリアン・ルック」や「サファリ・ルック」「パンタロン」など次々に話題作を発表。いち早くプレタポルテ(高級既製服)の分野に進出したが、伝統的なオートクチュール(高級注文服)の技術を守り続け“最後のクチュリエ”といわれていた。(共同)

約40年にわたりモード界を率いたが、2002年に引退していた。
Copyright 2008 The Sankei Shimbun & Sankei Digital  ←引用終わり

パリの想い出にも懸かるこの掲出は、昨日(900本目)の「JALの鶴」と図らずも密接不可分に連携してしまった。写真は、いずれも産経MSNよりの引用紹介。

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