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2015/03/02

IDC大塚家具の経営環境を巡る評価! 非常に冷静な市場環境と経営課題を報じた記事

東洋経済の記事(長文)をMSNが紹介、東洋経済にしては良い分析です。

市場環境の変化を、どう捉え、経営戦略にどう反映させるか、
この問題はいずれの企業も避けられないのです。
創業家の骨肉の争いに過ぎないなどと、笑っておられる方は少々残念な。

「IDC大塚家具」について幾つかの批判や評論を読みましたが、いずれもいずれでした。
このネタ元は「東洋経済」のようですが、「東洋経済」にしては鋭く把握し能くまとめられています。
いずれの事業にも共通すると考え紹介してみました。

引用開始→ 大塚家具、「お家騒動」で見落とされた本質 家具業界への2つの革命と3つの減速要因
(東洋経済オンライン 坂口 孝則/MSN2015.03.01)

大塚家具をめぐるお家騒動が連日、メディアを賑わせている。経営方針をめぐる主張の違いが、父・勝久会長と娘の久美子社長による争いの一端にある。お家騒動ばかりに目がとらわれがちだが、そもそも大塚家具とは、どんな企業でこれまでどんな道を歩んできたのか。その創業物語や流通業界にもたらした功績、そしてつまずきの背景などをここで冷静に見てみよう。

勝久会長は埼玉県春日部市に生まれた。父親は箪笥(たんす)職人だった。箪笥を販売する家業を手伝うなか、勝久氏は消費者の行動をつぶさに観察した。お客はただちに買ってくれるわけではない。複数の店を吟味したうえでやっと購買にいたる。何よりも商品の品質こそが大切で、品質がよければお客はわかってくれる――。この原体験こそが大塚家具の理念となり、大塚流販売手法の礎となった。

勝久氏は1969年に独立し、春日部駅の西口近くに店を構えた。「株式会社大塚家具センター」と名づけた。それが25歳のときだった。勝久氏は営業マンに自転車を与え、飛び込み営業を開始した。婚礼家具を求める家を探しては春日部の店舗に誘導し、朝6時から夜12時まで働くなど、努力を重ねていった。勝久会長の口から、この「努力」がキーワードとしてよく出るようになる。

そこから同社は成長を続けた。象徴的な出来事をピックアップしていこう。

1978年に東京進出を果たす。板橋の店舗は、ボーリング場の跡地を改装したものだった。勝久社長(当時)は雑誌のインタビューで「家賃はタダなんです」と語っている(『経済界』1978年10月号)。これはレトリックで、すなわち<それくらいの大きな敷地があれば、家賃をペイできるほどの利益が見込める>の意味だった。

実際、当時の物価でも月1500万円の家賃だったものの、大幅に上回る利益を実現した。百貨店で販売している高級家具が2~3割引で買えます、というものだった。当時、この販売スタイルは大当たりし、同社の業績は伸びた。とともに、この「莫大な敷地に家具を並べ、販売して利益を稼ぐスタイル」が定着していった。

1993年ごろには業績が悪化。これは既存店をまとめて閉店したのが理由だった。面白いことに、利益が出ていた店舗も閉店した。老朽化していたのも理由だったが、それよりも、より条件の良い広大な不動産を求めた資金確保のための、計画的な閉店だった。大塚家具は既存店を大型店に切り替えていくスタイルを続けた。

それから5年。1998年に大塚家具は再び業界に震撼をもたらす。「三越が新宿南館をたたみ、それを大塚家具に賃貸する」と報じられたからだ。小さな店からスタートした大塚家具が巨人と逆転劇を演じたあざやかな瞬間だった。

ただそこから10年を経て、2008年12月期決算では純損失を計上。2010年12月期まで純損失計上が続いた。その後、回復の傾向はあったものの、売上高はたとえば2003年の730億円にくらべて、2013年には562億円へと減少を続けた。

大塚家具の芳しくない状況を分析する前に、まず大塚家具が成した偉業について見ていこう。現状は苦戦しているように見えるが、少なくとも30年以上にわたって快進撃を続けた企業だ。流通の観点からすると、大塚家具は極めて興味深い取り組みを行った。

勝久氏は家具小売業で2つの発明をした。1つ目は、家具メーカーからの直接仕入れだった。考えれば当然のように、メーカーから直接仕入れれば中間マージンをなくせるため安価になる。さらに大量の製品を仕入れれば価格交渉にも有利になる。国内メーカーなら2~5割ほど安価になるし、輸入品なら半額になるケースも多い。実際に、当時、輸入品は現地価格の2~2.5倍が当たり前だったのに対し、大塚家具はそれを4割ほど削減できた。

メーカー直接取引は、家具業界の非常識だった。取引をそもそも始めるのに苦労したし、同業の圧力、ならびにメーカーからの門前払いもあった。地域にはさまざまなメーカーがおり、それを卸が強力な力で管理していた。当時としては、メーカーから直接仕入れて販売するのは革命的なことだった。

さらに通常の家具販売では、「売れ残ったものは返品する」という委託販売方式がメインだった。もちろん小売店のリスクは軽減する。代わりに、高価になる。勝久氏は、みずからの仕入れ眼を信じた。よいものを選別し、それを必ず販売できるとの自負から買い取りを選択したのだった。

直にメーカーの工場を視察し、相手を口説き、契約を締結して歩いた。当初は” OTSUKA”を知らない外国メーカーも、その販売実力を認め集まるようになってきた。

2つ目の発明は販売スタイルだ。通常、それは大塚家具の会員制ビジネスモデルと考えられている。それは半分正しく、半分は間違っている。その発明の本質とは、価格表示を実売価格にあわせた”大塚販売方式”だからだ。

説明が必要だろう。というのも、大塚家具がこの”大塚販売方式”をとる前は、家具小売店では、あくまでメーカー希望小売価格を表示するのが慣例だった。値崩れを異常なほど嫌っていた家具メーカーや家具卸業者は、小売店に対して希望小売価格の表示を求め、小売店は実際そこから大幅な値引きによって販売していた。

その常識に異を唱えたのが勝久氏。値札価格イコールそれ以上値引きなしの販売価格、とした。これは販売時の効率化を狙う目的もあった。販売時に交渉を重ねるよりも、当初からギリギリの価格を提示するほうが真摯な態度だと勝久氏は考えたのだ。加えて、同一品の業界最安値をアピールできるメリットもあった。

家具業界からの反発はあまりに大きかった。そのため勝久社長はお客の会員制度を作った。「会員限定で価格を示す」。その苦肉の策が、広く知られる大塚家具の会員制ビジネスモデルであり、同社の快進撃のキッカケともなった。当時はそれでも業界からの反発はおさまらず、納入拒否されたケースもあったため、社長みずからいくつかのメーカーとは総代理店契約までを結んでいる。

ただ、この会員制度によって、お客に店員が一人つくスタイルがより進化するものとなった。なお一部に誤解されているが、このスタイルは1969年の創業から変わらない。会員制が導入されたのは1993年のIDC大塚家具からにすぎない。

会員制度によって社員はお客の個人情報を把握したうえで、商品ではなくライフスタイルの提案へと舵を切った。提案力を磨く好機になったのは間違いなく、接客サービスレベルが向上したのも間違いない。実際、同社はレベル向上に努め、その様子はたびたび雑誌などにも取り上げられていたほどだ。接客は競合他店との差別化ではあきたらず、小売業他社にも学んだ。社員の接客サービス研修では、名門ゴルフコースで学んだり、最高級の老舗料亭で学んだりした。

そんな大塚家具が減速し、今回のお家騒動に発展した理由は何か。3つ挙げたい。
1つめは、まとめ買い需要の減少にある。平均接客時間が2時間を超え、さらに平均客単価が30万円を超えるとされていたビジネスモデルだった。しかし、1990年台中盤のピークに年間約160万戸もあった住宅着工戸数は、近年100万戸を大きく割り込んでいる。この落ち込みは尋常ではない。家具市場は<住宅という箱の「備品」としてのインテリア>から<衣食とともに、「ライフスタイル」を構成する要素としてのインテリア>かつ<より自分らしいライフスタイルに向けて、少しずつ買い足すもの>に変遷(大塚家具資料より)。大塚家具は、まさにその変化への追従が遅れた。

2点目は、なんといっても商品のアピール力だ。高級品購買層にはまだ大塚家具は強みを発揮している。問題は、中間層だ。筆者のような「良い家具にこしたことはないけれど、ニトリでじゅうぶん」という正直な感想をもつ購買層は、他社に逃げていった。実際に、イケアやニトリ、そしてカッシーナといった同業他社が好調の中、大塚家具は低迷にあえいだ。

もちろん異論をお持ちの方もいようが、筆者の周りに聞いてみると大塚家具に優位性を感じているひとは少なく、「高そう」「店員さんがくっついてくるのがイヤだった」「いつもすぐ引っ越すから安くていい」「いまいち良い家具かわからなかった」という本音が出てきた。もちろん高尚な議論もできるだろうが、なによりもマスイメージとして競合他社に後塵を拝したのが大きいように思う。

たとえば、大塚家具の過去5年分の決算書を見てみると、意外にも粗利益率は変化しておらず50%台で推移している。厳密ではないが、この粗利益率は売上高から仕入価格を引いたものだから、販売価格が劣るようになったとはいえまい。それよりも、販売数それ自体の落ち込みと、新規顧客を獲得できていないことに問題がある。

3つ目は、お家騒動のことだが、勝久会長と久美子社長ではおそらく会社経営の考え方に大きな違いがある。大塚勝久会長は家具が好きで、家具に合わせて家を替えるといい、さらに誰も勝てないほど家具バイヤーとして一流だった。すなわち、その卓越さゆえに、ワンマンにならざるを得ない側面があった。

一方の大塚久美子社長からすると、上場企業である以上は、個人技ではなく組織として広く外部から声を聞ける体制づくりが急務だった。勘よりもデータ。創業一族よりも専門家。取締役に弁護士やマーケティングのプロや、金融機関出身者などを揃えたのは、その意図のあらわれだろう。実際に、大塚家具は勝久会長と邁進してきた「60代が多く、50代の社員は数えられるくらいしかおりません」という(雑誌「企業会計」2013年Vol 65号)。

市場環境の変化によって中間消費者層を競合他社に奪われ、創業者個人で引っ張ってきた組織のゆがみが露呈した。こう考えると、まるで大塚家具だけではなく、いくつもの日本企業で共通している内容だ。大塚家具を舞台にしたお家騒動は、日本のあちこちで起きていることを象徴しているように思えてならない。←引用終わり
(東洋経済オンライン)

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