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2021/11/26

東京の植民地にされた大阪・関西を始めとする日本のローカル地域は、東京の社会経済を支配する資本に収奪され従属支配され続け疲弊し続けている

大阪・関西は、経済面で弱いのは何故ですか?

東京で何度となく素人評論屋が基礎的な知見も持たず、半ば同情するかのように上から目線で下らぬ質問を繰り返す屑がいる。
社会経済について基礎的な学習をしたなら、イチイチ下らぬ事を訊くなと言いたいのを抑えて相手をしてやると、己の無知を棚上げし、何処かでヘタレメディアに出る身勝手な呆気野朗の主張を吹きこまれ噴飯物の知識を仕入れてきて、よく理解もせず更に吹くから聞かされる方は苦痛だが、一応は敬意を保ち付き合ってやっている。

大阪・関西の社会経済が活気を喪ったのは、
1970年代を前に、日本国政府が、経済の基幹とも言える「金融・証券・保険・海運・商社」の本社機能を、大阪から東京へ移転誘導させたことによるのが1番だ。

次に、当時はまだ基幹産業であった繊維(紡績・化合銭)の本社機能も東京への移転を誘導した。
これは「行政」との一体化を進める上(例えば、民間金融上でも傾斜配分を徹底する)ためには不可欠との条件だと強力に本社機能の移転を推進した。
結果、大阪・関西は有力な事業会社も名目本社だけで蛻の殻に成り果てた。
代わって、1970年の「日本万国博覧会(EXPO70)」を大阪で開催させてやるとした「海老で鯛を釣る」に出たワケだ。
それもあるが、国の政策展開で政治と経済の中枢を東京へ一極集中させ進めるための、国の開発投資は一気に進み、東京の利便性が向上するのは当然だった。

1960年代後半から1980年代に至る日本の経済は、米国市場依存であり大量生産・大量消費を支える事で経済成長とその果実としての資金を得た。
それは日米間での巨大な貿易摩擦を引き起こすまでになった。
米国は、何度か米ドルを切り下げ(日本には円高)る事までして、貿易の不均衡を抑えようとした。
(丁度、現代の中国と米国の貿易関係だ)

1980年代は、真っ向から日米は貿易を巡り相争う関係にあった。
この間、大阪・関西の社会経済は、繊維製品、白物家電、半導体、自動車部品、これらの下請け製造で大いに力を得たし、果実としての資金も蓄積し、製品を支えるサプライチェーンは、大阪・関西から日本全国へと製造拠点を設け、より競争力を増した。
(しかし、これは付加価値生産ではなく、労働集約生産で価格の競争に終始した)

1990年代に入り、東西社会の壁が崩壊し、西欧は東欧へ投資を行い進出し結果的に生産拠点を移転させた。
それにより、東西に壁があった時は、社会主義国同士の市場で完結していた製造価格が、西欧というか西側に波及する事で、一気に製品製造価格の崩壊とも云うべき現象が生じた。
それは、アジアでも中国で生産する事を選択対象にした事業者には果実として与えられた。
中国生産は、儲かるらしいとの情報は、日本を駆け巡る事になり、目敏い大阪・関西の中小事業者は、商社の手引きで我先に中国へ生産製造拠点を移し合った。
残されたのは、都市域で製品の製造に従事した単純労働の人達であり、救われる事もなく打ち棄てられた。

大阪・関西は、「金融・証券・保険・海運・商社」という付加価値生産の高い分野を60年代後半から70年代前半に喪い、ロアーが従事する製造現場を喪い、残された産業は衰退するばかりで完全に「ラストベルト地域」に成り果てた。
これが現状の実際の姿である。

ゆえに、社会保障費が伸び税収を脅かす状態になるのは当然で、それを「大阪維新の会」如きが、行政の無駄を省けば税収との均衡は採れるなどと呆気た事を言ってみても、根源的にはナンの解決にもならないのだが、呆気に乗せられるのは呆気を上回る呆気で、その日暮らしの切り捨てられた被害者の大阪市民であるという。
真に珍奇な姿がそこにある。

最近、「維新」は、ベーシックインカムを制度化し、最低の生活保障をしてやる事が正しいのだと言い出した。阿呆もここまでくるかと!?
すると、上の事情から阿呆が相対的に多い大阪では、維新に釣られる阿呆が増えるので往生させられますね。
いま、大阪・関西で求められる事は、
「分配」できる「生産力」であり、高い「生産性」の追求であり、それを成し得ない分野の切り捨てと置き換えという社会経済の「構造改革」なのであり、それぞれ一人ひとりの「付加価値生産力」を最低でも10%アップさせる事なのだ。

それをどう創出するかが問われているのであって、行政の無駄を削除するのは当然だろうが、行政は国と地域を合わせて30%は地域経済の使い手なのだという事を忘れちゃダメなのだ。
自分の手元にカネが来なければ「ムダ」な出費だとヒステリックに主張するのが多いけれど、やがて持ち金を使い切れば終わりじゃないか。国債を刷り増ししても、結局は生産力が無ければ終わるのだよ。
なぜこれが分からないのだろう。

呆気の高橋洋一や竹中平蔵などのゴミ楽観論に乗せられて平気な汚馬鹿を相手にするのもなぁと考える今日この頃かと。

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