メイドインジャパンは誰の手で維持されているか?
日本製とされる国産品の多くは誰の手で生産されているか。
先日、国勢調査が実施された。五年ごとに政府が、国民の生活を掌握する目標を掲げ、「今後の政策を考える上からも国民生活の実態を捉える上で最も大切な基礎統計に不可欠です」と説明を受け、ほとんどの家庭では別に難しく考えることもなく、調査票と向き合い淡々と記述されたものと思います。
国勢調査とは別に、あるいは先日の衆議院議員選挙とも別に、日本の景気は回復基調だとの強気の話は多いようですが、実際には、成長産業(いわゆる勝ち組)と衰退産業(いわゆる負け組)の関係性が明らかになってしまい、成長産業(勝ち組)は意気盛んで、それはもう十数年前に経験したあの悪名高い「バブル景気」の頃を超える勢いです。一方の衰退産業(負け組)は、産業としては、もう徹底的に虐められ、とりわけ金融機関からは相手にもされず、この国から叩き出されようとしているのが実際の姿です。
興味深いことは、成長産業(勝ち組)も衰退産業(負け組)も共通して、現場の労働力は必要数を充足できないほどの状況を抱えています。若年労働層全体が人口構造上の問題から人手不足であることに加え、何よりも、昨今は「ニート現象」が闊歩し、「ニート」はいまやファッショントレンドであるかのような勢いに見えます。団塊世代が一斉に「定年退職」する2007年は、一定のスキルを所持する日本の労働人口は急減し、「一体、誰がこの穴を埋めるのか?」。危機的な事態を静かに迎えようとしています。一過性のテーマとしては「定年を延長するとか、退職者を再雇用するなど」の便法も大まじめに考えられているようですが、実際、急激で圧倒的な人口構造の変化というか移動の前では為す術もない事態となることは冷静に考えれば誰の目にも明らかで理解できることですが、付け焼き刃的なことでも、それに対し果たしてどれだけ真剣に取り組めるのでしょうか。
日本の製造業は、既に、外国人労働力を導入しないと維持できない事態を迎えています。日本は「移民受け入れ政策」を基本的に認めていません。しかし何らかの目的で入国した外国人が、許容された滞在期間を超え不法に滞在し、不法に就労している事実を一方で抱えています。例えば、「愛・地球博」で閉幕前に来日した某国の音楽関係者やダンサーが、集団で閉幕後に姿を消したことは、「愛・地球博」事務局を始めとする関係者に大きな衝撃を与えました。忽然と姿を消した人たちは、日本で働くことを想定し綿密に準備した上で、当事国の審査を受け博覧会要員として来日したものと考えるのが妥当です。しかし、彼らは、現実に「日本」を見たとき、同じアジアでありながら母国との違い(噂には聞いていたものの)に、天地の開きとでもいうべきでしょうか、あまりの違いに驚愕したはずです。日本に滞在して働くことは不法行為と非難されても、何ものにも代え難い条件にも見えます。「それなら帰国せず、ここで働こう、そして資金を得よう」と考え不法滞在の途を選んでしまうのです。
外国籍の労働者は、最初「日系ブラジル人」を突破口に導入を図りました。その後、日系社会出身者を積極登用してきましたが、周辺国からの強い要望を受け入れざるを得なくなり、現在は「外国人技能研修生」という制度(短期滞在に限定した労働力確保)を創設しました。日本の生産現場は、実際に、彼らを導入しないと生産を維持できないばかりか「生産基盤としての技術の維持すら覚束ない事情」に追い込まれています。日本で生産されたとされる「国産品」の多くが、「メイドインジャパン・バイ・チャイナハンド」だったりというのが隠された現実です。日本人は、高度な教育を享受しながら、それを充分に活用できないで、あるいは高度な教育システムそのものからも逃避し、高度に発達した国として生じさせた「ニート」なる現象を仕方なく抱え込んでいます。消費することに多くの人は喜びを持ち、消費と生産の均衡がいつの間にか崩れかけているように見えます。
かつて、カンボジアは、あの「アンコールワット」を建設する技術力とそれを支える文化力を持っていました。しかし、カンボジアは「アンコールワット」を創り上げた頃が歴史的には最高の時期で、後は衰退を繰り返し、やがて現在の歴史を受け入れざるを得ない事情を抱えました。カンボジア衰退の理由はいくつもの観点から検証があり議論されていますが、「アンコールワット」を創り出した頃のカンボジアは最高の時期であり、その頃には、隣国であるタイを始めラオスなどインドシナ半島の大部分の地域を支配し、それらの地域から人と消費財の供給を受け、常に消費する側に位置する「我が世の春」を謳歌していたものと考えられます。生産を伴わない消費は衰退の始まりを招く、あるいは衰退への入口だったわけです。美しいカンボジアは露と消え去り、近代といわれる頃には地域と人は残されましたが、「アンコールワット」に表徴される輝くまでの文化は消去されていました。
「工業生産」と「輸出」により今日の成果を得た日本は、師匠のアメリカに倣い、今後は「国際金融国家」を目指しているようにも見受けますが、一億三千万人の人口を「国際金融の上がり」で「現在の生産性を確保し現在の消費を維持できる」と考えるのでしょうか。果たしてそれで国民を養い喰わせ続けることはできるのでしょうか大きな疑問が残ります。生産と消費の均衡を欠いたまま、日本は、本当にどのような姿を示そうとしているのでしょうか。
ほとんど、すべての生産財を外国人労働力に依拠しなければ、国も市場も維持できない事態に直面しようとしています。
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