サイゴン陥落から31年、ベトナムが苦闘を強いられた31年でもあった。
4月30日は「サイゴン」解放記念日。あれから31年の歳月が経過しました。
昨年の4月30日は、30周年記念でもあり、実に盛大な祝典が連続的に開催された。31年目の今年は、14日から25日までハノイで開催された、第10回ベトナム共産党定期大会と重なったこともあり、昨年ほどの祝典にはならなかった。(写真は1975年4月30日昼、旧南政府の大統領官邸へ突撃進撃する解放戦線旗を掲げた解放軍戦車:Nhan Dan提供)
ベトナムは、1975年4月30日に南部解放の偉業をなし得たが、その後は、米国が主導する「経済制裁」のために、筆舌に尽くしがたい苦難の道を歩まされた。1976年に悲願の南北統一国家「ベトナム社会主義共和国」を誕生させたが、米国の憎悪は日増しに高まり「経済制裁」による締め付けは、ベトナムのあらゆる階層で日常生活を圧迫し破綻させた。生活破綻を嫌い、舟で「国外逃亡」を企てる者を続出させることにもなった。いわゆる大量のボートピープルである。ボートピープルの初期は、消去された南の政府関係者やそれに繋がる者が大半だった。その後は、自らの生活低下を嫌った者たちの集団が続いた。
隣国カンボジアで政権を握っていた、あのポル・ポトは、この機を見逃さず、メコンデルタ地域へ宣戦布告なしに侵攻した。再三にわたる越境侵犯と攻撃占領に業を煮やしたベトナムは、すかさず反撃を加え、折からベトナムへ亡命していたカンボジアのヘンサムリンを打ち立て、圧政非道のポル・ポトからカンボジアを解放するための闘いを組織し、10日ほどでプノンペンへ進撃し、ポル・ポト追い払いに成功(その結果、ポル・ポトによる非人道的な悪業の限りが世界へ暴露されることになった)する。
ところが、圧政非道のポル・ポトを支持していた中国は怒りを爆発させ、ベトナムへ怒濤の侵攻作戦をとりベトナム北部を制圧する行動に出た。ベトナムは南西地域(カンボジア)と北部地域(中国)相手の二正面戦争を不本意にも強いられることになった。
北部戦線でベトナム人民軍はねばり強く闘い、侵攻した中国軍を国境の外へ追い返し面目を保った。(写真は、フランス、米国、中国との闘いをいずれも勝利に導いた、ボー・グェン・ザップ将軍:Nhan Dan提供)
当時、北部地域の前線で戦闘を指揮したベトナム人民軍の指揮官は「中国軍は、人(兵隊)を楯にして進撃してくる。ベトナムの側から撃っても撃っても、次々に兵隊が屍を乗り越えて進撃してくる。倒れた兵士の武器を拾い自分の武器にして進撃してくる。それでも、ベトナム側から撃ち返す。また、中国軍の兵士が倒れる。すると後ろの兵士が倒れた兵士の武器を拾い進撃してくる。ベトナム側は銃身が焼けつき、撃つ弾薬も尽きてしまう。仕方がないから、我々も逃げた。逃げなければ殺されてしまうから、ひたすら逃げた。中国軍は、我々が逃げた街や村を片っ端から破壊した。中国との戦争は、武器も持たされないまま現れる無数の人(兵士)による圧迫との闘いだ。こちらは武器で闘うが、中国軍は人の数で押してくる。人(兵士)の命を軽く扱い疎かにする国の軍隊は恐ろしい。あれほど恐ろしい光景を目にしたことは初めてだった」と語った。
つまり、中国は、カンボジアのポル・ポト政権にしても、ベトナム侵攻戦争にしても「人の命を軽視し、尊ばない思考の国」であることを明らかにした。
中国は、常に、自らの周辺国を威圧し従える戦略を得意とする。カンボジアでポル・ポトによる悲劇は、まさしく中国の未熟な対外政策の結果である。現在(いま)も懲りずに「ミャンマー(ビルマ)の軍事政権を手なずけ支援している。北朝鮮にはご承知のとおりである」。
ベトナムの側から中国をみると、中国は悪徳銀行みたいなもので、生きていくには銀行は不可欠な存在だ。「晴れた日には傘を使えと親切の押し売りをし、雨の日には傘を返せと迫る」同じことだ。しかし生きていくには無視できない厄介な存在だ。ベトナムが、必死で米国と最後の決戦をしている時に、毛沢東は平然とベトナムを見捨て、ニクソン(米国)と握手し外交を確立した。それだけならまだしも、今度は、米国(ニクソン)の主張に沿った「和平提案」を持ち出し、ベトナム側に呑むよう高圧的な態度で押しつけてきた。ベトナムが拒否すると援助を停止すると恫喝を加えた。中国とはそういう国である。そのくせ、カンボジアで米国傀儡のロン・ノル政権が誕生すると、ベトナムをけしかけロン・ノル政権打倒に向かわせ、その結果、ポル・ポトが政権を奪取すると平然とベトナムを牽制し切り捨てる。
挙げ句の果てには、中国はカンボジアと共謀し、米国との戦争で疲弊しきったベトナムへ侵攻するという世界史に残る蛮行を平然と行う国である。中国には正義も仁義も何も存在しないのである。
ベトナムは、米国との戦争に勝ちはしたものの、一方で、国力は疲弊しどん底であった。金融と流通の殆どを、南部に盤踞した何もしない在住中国人(華人)が握り、南部全体の経済を勝手放題にことごとく支配していた。社会主義を掲げる側が無制限にこの状態を容認し続けることはできない。この状態を放置すれば、米国は追い出しても、国の経済を外国人に抑えられたままである。必要な経済政策も機能させることができない。当然、不労所得者に制裁を科しその資産を接収することは不可避となった。元来、ベトナムの富を狡猾な仕組みで詐取して積み上げた(いわば強奪した)資産なのだから、当たり前のこととして人民の政府は返還を求めたわけである。これを拒否した在住中国人(華人)は夜陰に乗じて舟でベトナムを離れ逃亡を企てたわけである。これらを含めベトナムの海岸を離れるボートピープルが続出し、ベトナムは国際社会から激しい非難を浴びた。これは誕生したばかりの統一政権には、米国主導の経済制裁に次いで大きな痛手となった。
ベトナムは、苦難と貧困から脱出を図るため、工業化に乗り出し農業からの構造転換を試み懸命に取り組んだが、資本蓄積、生産手段、人的(ノウハウ)蓄積のいずれの面も充分ではなかったために、より大きな経済の混迷を招き、さらに国力を低下させてしまった。国家統一からの10年は苦悩と苦闘の年月であった。
1986年、ベトナムは歴史的な政策転換へ踏み切った。現在に続く「刷新政策(ドイモイ)」の採用である。ベトナム共産党は第6回定期党大会で「社会主義市場経済」へ転換することを機関決定し、今日への途へ舵を切り直した。以降、当初5年ほどの間は、全国にいきわたった社会主義政策を部分的小出しで市場主義へ転換したため、想定する成果を得ることが充分できずに苦闘を余儀なくさせられた。
1994年に米国はクリントン大統領が「ベトナムへの経済制裁停止」へ踏み切ったことで、ようやく、資本主義的な市場経済への途が見えた。その後は、本邦を始めとする各国からの積極的な投資が功を奏し年率8%程度の経済成長を重ねる国になった。ベトナムは、本来、努力により改良を重ねることを好む人達の国である。この31年、ベトナムは世界史の中で押しつけられたあらゆる困難を一手に引き受け、ある時期は不本意にも「悪者(=ヒール)役」も演じさせられた。ベトナムは解放戦争の熱い分野では1975年まで米国相手に直接の戦闘を強いられ、その後は経済面での冷たい戦争を1994年まで米国から約20年にわたり強いられたのである。
いま2006年、ベトナム共産党は第10回定期党大会を開催し、「社会主義市場経済」の維持展開を確認し、よりダイナミックに推進することを機関決定した。そのための強力な人事も敷いた。次の5年、10年を遠望した政策を展開する体制を整備し終えたのである。何よりも、ベトナム共産党の定期党大会中にハノイを訪問した世界最大の大物ゲストは、何を隠そう、マイクロソフトの会長ビル・ゲイツその人であった。ビル・ゲイツはハノイで下へも置かない最大の歓迎を受けた。インテルは、ベトナムへ巨大投資を行うことを決定している。ベトナムは「努力して、改良を重ねる」人達の国である。少し前まで、破綻した政策として世界でうち捨てられた「社会主義政策」でも、「社会政策」に不可欠な部分は必要な維持を図り、経済発展に重要な「市場経済」は「ベトナムに適した仕組みに改良」し維持するだろう。(イラストはベトナム共産党第10回定期党大会アピール:Nhan Dan提供)
インドシナ半島の偉大な農業国家は農業と軽工業を巧みに組み合わせ、必要な化学工業を組み入れることで適切な範囲で重工業も育成し、第三次産業との調和を生み出すことでバランスを保つものと考える。製造業ではIT産業が一定の役割を果たし、そして掲げたGDP平均8%の成長を目指すと思量する。(写真は、今年の南部解放31周年記念パレード/ホーチミン市:Nhan Dan提供)
苦闘の31年は、未来の世紀への序章として、全てのベトナムの人々が認識を共有されることを祈るばかりである。
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