ウィークリー・ベトナム・ニュース
■ 平成18年11月25日 土曜日 第90号
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■ こんにちは!!
いつもお世話になっておりますベトナムからニャットアインです。
今日もここ一週間のベトナムの主なニュースをご笑覧下さい。
翻訳は直訳とせず、日本語に馴染む意訳としておりますので、ご注意下さい(笑)また、訳者の独断と偏見を交えた辛口寸評を入れてみました。内容が片寄り、言葉が多少過ぎる箇所も多々あろうかと存じますが、これもベトナムを愛するゆえの諫言とお許し下さい。
誤字・脱字はご愛敬ってことでお願いします<(_ _)>
尚、記事の転送は営利目的以外なら原則自由ですが、自己責任において行い、その中で被った被害・損害に対し筆者は責任を負えませんのでご了解下さい。
ベトナム・ニュース その90 今週のヘッドライン
* 11月20日(月) IMFアウトルック こんにちは
* 11月21日(火) 米越通商正常化法案 一休さん
* 11月22日(水) ベトナム新婚さん住宅事情
* 11月23日(木) 教師の日 Ang博士と教育論
* 11月24日(金) 安倍首相 越南公式訪問
* 11月25日(土) もうひとつの日越友好関係発展促進
11月20日(月) IMFアウトルック こんにちは
* IMF執行役員たちは、印象的に安定した経済成長と急速な貧困層減少に邁進するベトナムを褒め称える談話を発表した。それに因れば、持続的な市場経済操作の向上効果はベトナムを外国投資の魅力的な投資国へ変貌させたという。IMFは短期の前向きな展望を語りそれに因ると今年のGDPは7.8%に到達し、来年は7.6%と試算されるという。2005年のGDPは強い国内需要と外部要因によって拍車が掛かったため8.4%を記録した。ベトナムのWTO加盟後の更なる経済成長は、行政改革と一体となった時、初めて効果が現れ認識されるだろうとのこと。
IMFは中期展望についてはベトナムのインフレ率の高さが貿易パートナーの国々より高く推移している点を指摘し、持続的な成長は公共投資(但し、その質は未定)に依頼する部分が大きいと警告する。昨年一年間のインフレ率は8.75%から、今年8月時点では7.5%に引き下がった。加えてIMFより指摘を受けたポイントは、ベトナム行政当局がより思慮深い財政政策を採用するよう促した。
また公式予算収支バランスは、2004年のGDPの1%プラスから、2005年は1%マイナスに減少したとのこと。IMFは、2006年にベトナムの油補助金の本格的な縮小に取り組んだベトナム国立銀行を賞賛する一方で、しかし、さらに賃金が上昇を抑え、新しく投資計画の審査方法が改善される必要があると指摘した。
「政府の余分な予算上のオペレーション及び全ての公的資金が提供されたプロジェクトのより透明性の高い会計、報告義務、そしてモニタリング機能整備は投資者の信頼を得るために必要である」とIMF担当官の一人は強調した。IMFによれば、ベトナムは輸出品の活発なペースを維持しており、その為、政府の開発援助及び海外直接投資と一緒に、国際収支は黒字として残った。2006年6月末日時点で、ほぼUS11b$の外貨準備高を記録し、2004年末時点US6.3b$で約2倍を達成したことになる。IMFは、貿易と投資の持続的な拡大が民間部門主導の成長の鍵になるだろうと言って、2010年までに大多数の国有企業民営化に舵取りをしたベトナム政府の計画を歓迎を表していると結んだ。
(辛口寸評)
ここ1~2ヶ月の間 週二回は日本から来られたミッションの食事会に呼ばれている。それまでは一月に一度あるかどうかだっただが、やはりそれだけ投資先候補国としてベトナムに熱い視線が注がれるようになったからなのだろう。ミッションに参加されている方々の多くは中小企業のオーナーさんたちだ。今から12~3年前も、このようなベトナム投資ブームがあった。当時は、「ベトナムは最後の投資の楽園」などとマスコミ辺りが煽っていたもので、やはり多くのミッションが訪れていた。しかし、当時と今と決定的に異なるものはといえば、以前、法律などと云うものが未整備で、まともに機能せずベトナムへ直接投資をした多くの外資系企業が煮え湯を飲まされ、苦労を強いられ、あるものは志半ばにして撤収を余儀なくされ、あるものはベトナム人パートナーに会社を乗っ取られたりして、ベトナムを去っていった。
ところが、今日、法整備、特に外国投資に関わるそれは急速に推し進められ、完璧とはいえないまでも当時の無法地帯だった頃に比べれば遥かに外国人投資家が安心して、この国に投資出来る環境が整ってきたと言えよう。これから進出しようと言う企業にとってまさにベトナムは旬だといえる。また、過去、ベトナムで挑戦し何らかの事情で撤収を余儀なくされた企業にとっても再チャレンジが十分可能になったと思う。現に、以前、撤退した企業と同じ業種、つまりそのライバル会社等が、ここベトナムにこれから進出しようと目論むケースをよく耳にするようになった。いずれにしてもベトナムは今等しく外国企業にチャンスと言う名の門戸を開け始めているのである。
11月21日(火) 通商正常化法案 一休さん
* アメリカ下院は先週の月曜日 ベトナムとの通商正常化を確立する法案を否決したと、立法委員は語った。この法案の賛成票は228票で惜しくも全体の3分の2に当たる可決数に32票不足していた。161の反対票がベトナムとの恒久通商正常化に投じられた。ブッシュ陣営の担当官が語ったところに因れば、政府は今週中にも再度、承認に向け下院で図る意向だといい、この法案可決の為、下院の3分の2の賛成票を得られるよう全力を尽くすとのこと。ブッシュ政権としては、大統領が来週ハノイでベトナムの指導者たちと会うまでに何とか議会の承認を取り付けられるよう希望している。
ベトナム通商正常化法案は、アジアで中国に次ぐ経済成長を興しているベトナムの利権獲得に血道を上げるアメリカ経済界によって支持されており、8400万人の人口を誇り、元ノンWTO加盟国内ではロシアに次ぎ第二の人口を要している。WTOは11月7日、正式にベトナムを12年の交渉の末、その加盟国に迎え入れた。WTO加盟承認が決まると直ちに米国通商代表のSusan Schwab氏はベトナムとの貿易関係を速く承認するよう立法府に要求した。「アメリカ合衆国は、本日のジュネーブの決定及びベトナムの世界貿易コミュニティーの仲間入りを心より歓迎し、世界各国は、急速に成長しダイナミックな規則に基づいた貿易システムのから利益を得るだろう。そして一方で今回の法案はアメリカビジネス・ワーカー、そして消費者の皆さんへベトナムWTO加盟の利益を与えることを可能にし、米越両国間の経済的結びつきを更に深く強くしてゆくものとなるとSchwab氏は結んだ。
(辛口寸評)
ブッシュ大統領にとって、今回の中間選挙の敗北が、意外なところで影響を与えたと言うことなのだろう。民主党としても今更、ベトナム戦争やベトナム共産党に拘ることもなく、どのみちベトナムとは経済的にも安全保障の観点からも巧くやって行かねばならないのは充分、理解している。ただ、あくまでも間が悪かったのだと言えよう。ベトナムで開催されるAPECでわざわざ死に体となったブッシュ大統領に花を持たせるようなことをせず、上院・下院とも民主党で占めた今、その現実を共和党に見せ付けるにこれほどの機会は無いと言うことだ。ベトナムにはとんだお鉢が回って来てしまったが、焦る必要はない。待てば良いのだから。寧ろ急ぎたいのはベトナムではなくアメリカなのだから、、、、。
11月22日(水) ベトナム新婚さんの住宅事情
* 都市部の若いカップルたちは彼らが住むための借家を借りたりマイホームを購入するのもどちらも難しくなりつつあるという。伝統的にベトナムでは結婚前、最初の準備としてマイホームを用意するのが何よりも重要なのだが、しかし、今日の若者に都市でそれをしろというのは無理がある。運良く両親や親戚から資金的援助を得られる少数のカップルは都市で住宅を持つことも可能だろうが、それ以外は自分たちで道を切り開いて行かねばならない。故に短期的な打開策として借家を借りることになるわけだ。マイホームを我が手に出来るかどうかは彼らの将来のオプションとして当座は考えるしかない。
北部Phu Tho小出身のLoanさんと彼氏は付き合い始めて既に5年になるという。お互いの両親も二人が一刻も早く身を固めることを願って止まないのだが、二人は結婚前にマイホームを持つことに固執しており、未だ所帯を持たずにいる。マイホーム購入のため伝を辿って二人は物件を探し回ったものの、条件に叶うものはついに見つからず、止む終えず今年末に先に結婚をし、取り合えず借家を探すことにしたのだが、借家を借りることさえも想像以上に困難な状況であることを初めて知ったのだった。
Loanさんとは逆に北部Ha Nam省出身のKieuさんとその彼氏の場合を見てみると、二人は結婚前にマイホームと言った感覚はなく、マイホームを購入するより簡単な借家を借りることにしたという。尤も、子供が生まれ大きく成長するまでには何とか夢のマイホームを持ちたいものだとKieuさんは付け加えた。どちらにせよ借家住まいを受け入れる事が、人生を楽しくさせるものではない。LoanさんやKieuさんのような状況に置かれた人々は、借家を借りるために数々の障害を乗り越えなければならないのだ。
一般的に結婚を考えているカップルの多くはしばしば家探しに数ヶ月場合によっては数年掛けてでも自分たちにフィットした物件を探そうとするものだが、掛けたその努力と時間をかけ満足の行く住宅を探し出すことは必ずしも良い行動とはいえないものなのだ。更に言えば、仮にマイホームを所有できた幸運な一組のカップルが居たとしても、所有した瞬間から修繕を自ら行わなければならない。
過去3年出稼ぎでハノイで生活しているQuynh Anhは、ハノイ在住の男性と恋をしている。彼の自宅は二人が住むには手狭で、しかも彼の家族の手前、二人は別に借家を借りて同棲することにしたのだという。一ヶ月以上掛けて借家を探したものの、適当な家が見つからず、結婚の日取りが迫っていたのでやむなく小さな下宿に住まうことにした。残念なことに、下宿に引越しが終わってから直ぐに大家は二人が未婚である事を理由に賃料の値上げを行ってしまったのだ。Anhさんは彼氏を宥め、お金に余裕が出来たら一刻も早くこの下宿を引き払いましょうと約束したという。
Anhさんと同様のケースはHaさんとそのご主人の身にも起こったという。結婚前にHaさんのご主人は一軒の家を高値で借りて結婚式半年前に引越しをしたという。引越しが住むと彼らは早速、自費で家の修繕を行い自分たちに住みやすいように住居を整えたという。三ヶ月経ったある日、大家が急に契約を破棄する旨伝えてきた。大家の説明では彼女の息子に家が必要になったということだったがこれは全くの嘘で、実は他に高値でこの家を借りたいという人が見つかったからだった。
ハノイでの家族向き住居の賃貸市場は、現在も著しく劣る。
市場に出るほとんどの住居はいくつかの小さな部屋を備え、下水設備はお粗末そのものどころか、そのトイレすらないようなこともあるのだ。しかも、水道光熱費もとても高い。故に素敵なキッチンと下水道システムを整えた借家をカップルが見つけ出すのは常に困難が伴うというわけなのだ。それにも拘わらず、今も多くの若いカップルが家を借りる為に市場に溢れ出てきているのである。
行政当局の試算に因ると、ここ5年の内にハノイ市の借家需要は凡そ700万平米を迎えると言われている。これはアパートの数にして12万戸にも及ぶ。しかし、市のこれに掛ける予算は150~300bドンで、低所得者向け住宅を500~1000軒供給可能に過ぎないのだ。つまり今後も借家の需要と供給のアンバランスは続くということなのである。
(辛口寸評)
今から4年前のこと筆者のベトナム人の妹の結婚を2年前にして僅か120平米余りの土地付の家を12区に購入した。この当時、ベトナム土地バブルは12区のような郊外にも波及しており、一平米あたりUS150$ほどになっていた。兎に角、土地の価格はこれ以後も上昇機運を見せていたものだから、当人同士の蓄えはほとんど無かった、「先ずは買っておけ!」という筆者の一言で、我が家を含むベトナムの親戚筋中から、お金を掻き集めその土地と家を入手したのだった。
あの時、購入しておいて正解だったと確信したのは、取得から半年過ぎた頃で、平米単価があれよあれよというまに350ドルまで上昇したことを知ったとき。その後、土地投機を防ぐための土地法の改正が進められ、更なるこれ以降の価格の上昇は収まっているが、我が妹やその婿殿のような地方出身者の若いカップルが、徒手空拳でベトナムの都市部にマイホームを購うのはかなり厳しくなってしまったといえるのだ。
11月23日(木) 教師の日 Ang博士と教育論
* Dang Dinh Angさんは、ある時は数学者、またある時は技術者、そしてまたある時は学生に数学の楽しみを植え付ける教師でもある。本日の“教師の日”を記念して、忙しく日々を送るAngさんの日常を取材してみた。
グーグルでDang Dinh Angさんの名を検索すると、彼がこれまでに発表した数学論文を含め24ページにも及ぶ専門的なウェブサイトがヒットする。Ang博士の最も引用される論文は、“熱伝導の仮説と瞬間理論及び幾つかの逆説”で、これは博士が76歳の時、ドイツ人の学者と共に著したものだ。これらの検索結果は主に、機械・航空工学の分野で使われる。有名なドイツのSpringer出版社に拠って出版されたこの論文は、アメリカ・ドイツ・フランス・ベルギー・日本などの国々の大学・大学院で必須のテキストとして広く使用されている。一般的にベトナム国内での博士の名声はそれほど高く評価がなされていないものの、しかし数学者や工学専門家の間ではその道の権威として崇められているのだ。
「Ang博士はベトナム数学界に50年に渡り貢献し続けてきました。」と語るのは、元Ang博士の教え子に当たるNguyen Xuan Xanh教授で、「博士はこれまで130以上の数学論文を国際数学ジャーナルや書籍などを書き表したことで大変有名なのです。」とXanh教授は続けた。
北部Ha Tay省Chuong My区で産まれハノイで育った博士は、後に1951年に妻を伴いサイゴンに移り住んだ。ハノイで誉れ高いBuoi高校で、フランス語を身につけ、博士は独学で英語を覚え、驚くことに生活費は英語教師として稼ぐようになったという。1953年にアメリカ政府のフルブライト特待生を勝ち取ると、カンザス大学で航空工学を学び始めた。
3月に博士の80歳の誕生日を記念しホーチミンテレビ局で行ったトークショーで、博士は謙遜しながらこれまでのキャリアは全て幸運に拠るものと応えたが、見学者としてトークショーを見に来ていた多くの元教え子たちは、声を揃えて博士の日々の努力・学問に対する姿勢、それらが皆ベトナムに多大な貢献をもたらしたと述べた。
カンザス大学で博士は通常4年で学士を取るところを僅か2年で終わらせ、その上、2年掛かる修士号を1年で取得したのだった。その後、2年間、航空工学と数学の博士課程をカリフォルニア工科研究所(カルテック)にて修めた。1955年春、学士号を得る前に、テキサス・フォートワース航空科学工学研究所はAng博士が書き著した飛行技術分野での圧縮可能な粘着性のフローについての論文に賞を贈った。この頃、Ang博士はアメリカに留まり、キャリアを磨く事を勧められたが、1960年、彼は当時アメリカ傀儡政権下の南ベトナムに妻と二人の子を連れて帰還した。博士が帰還した当時の歳は若干34、直ぐにサイゴン大学(現在のベトナム国立大学)の数学科主任教授に就任した。
「この頃の数学教育システムは数学を最も難しい科目に押し上げていたばかりかシステムに挑戦する学生を怯えさせたものでした」と、Ang博士は振り返る。元教え子で現在、ホーチミン市国立自然科学大学で教鞭をとるDuong Minh Duc教授曰く、1970年始め彼が大学に上がる前、学生500人中、僅か12人が一般数学コースの試験をパス出来たに過ぎなかったのだ。「2年後、Ang教授はシステムとプログラムを全面的に変更し、それが功を奏し、コースの合格者は100名まで拡大させるのに成功したのです。しかし、最も重要なのは、彼が学生たちを数学好きにさせたことに尽きるのです。我々がAng教授から学んだ事は、教育者として“教えることは減点主義でなく学生を励まし数学の勉強を楽しくすること”を後進の私たちに示してくれたのです。」とDuc教授。
今日、大学の数学の講義で利用される博士が過去に著した教科書の内容は今も充分、精彩を失わず広く使われている。
1980年に、博士の学術的貢献が認識されると、ベトナムで初の学士院としてタイトルを政府から与えられた。Ang博士は客員教授として世界の有名大学(カリフォルニア大学・ユタ大学を含む)から迎え入れられ、イギリスのケンブリッジ大学・ローマ大学・パリ北エコール工科短期大学・ベルギーの自由大学・東京大学などで講義をして来た。今年3月80歳になった博士を祝う為、パリ北エコール工科短期大学とホーチミン市応用力学研究所は共同で、非線形の分析及び運用力学国際学会を来月ホーチミン市で開催する事にしている。この学会には多くの若き有能な数学者がアメリカ・ドイツ・フランス・中国・カナダ・日本・オーストラリア・香港などから訪れる予定だ。
騒がしいホーチミン市Dien Bien Phu通りを一本中に入った小さな家がAng教授の住まいだ。敷地には竹や観葉植物が植えられ、小さな池がある。室内には古い籐の椅子、ソファー、そしてコーヒーテーブル、ぎっしりと本で詰まった沢山の本棚、小型テレビ、DVDプレーヤー、それに古いピアノが置かれている。壁には博士が取得した学位や賞状の他、彼や同僚たちとの古い写真がところせましと貼り付けられている。ところで博士は、数学者として名を馳せているばかりか、実はフルートの奏者としても人気が高いのだ。
博士は、彼自身何故、これほどまで楽器を好むのか良く判らないのだという。しかし、彼は子供の頃から竹笛を吹き、初めてモーツアルトを聴いた途端、クラシックに目覚めたのは確かだと応えてくれた。恐らく、彼の音楽の才能は血のなせる業なのかも知れない。博士の甥に当たるDang Thai Son氏は1980年、ワルシャワで開催された第10回国際ショパン・ピアノコンテストでアジアのピアニストとして初の金メダルを獲得した。
アメリカに到着して直ぐ、Ang博士は銀のフルートを手に入れた。
それ以来、このフルートは博士の手許にいつもあるという。
Ang博士にしてみれば、音楽は彼の数学のキャリアを磨くのに欠かせないのだ。音楽は元気の源で特に博士は、モーツアルト・ハイドン、それに彼の親友たちに当たるベトナム人作曲家のVan CaoとCong Sonの作品が好きだと語る。今年78歳になる奥さんのBui Thi Minh Thiさんは、5人の子供を育て上げた。
Ang博士がカルテックで博士号を手に入れた時、妻にそれまでの苦労を感謝してPHT“内助の功”ディグリーを奥さんに贈ったという。それに感激したThiさんは、ここに至る道のりを思い出しながら涙が止まらなかったそうだ。
二人の5人の子供の内、3人は博士の道をアメリカで歩んでいるという。博士の次男は既に博士号をニュージャージーのプリンストン大学で取得し、長女と三男はそれぞれフロリダとミシシッピイで教壇に立っている。四番目の娘は、ベルギーの病院に勤め、末っ子はホーチミン市のベトナム・アメリカソサエティーイングリシュランゲージセンターで英語を教えている。最近、Ang博士は毎朝4時に起床すると小一時間程、フルートの練習をこなし、1966年製の自転車を自ら乗り回し、市内を散策するそうだ。また来年早々、ドイツのバロック作曲家Telemannが作曲した音楽をCDにする為、練習に余念が無いとのこと。レコーディングにはベトナムの有名なフルート奏者とピアニストも一緒に参加する事になっている。
(辛口寸評)
本日11月20日は、ベトナムの“教師の日にあたり、日頃、世話なっている教師や以前、世話になった教師にプレゼントをしなければならないのである。それをきちんとして(保護者が担任に付け届けを)おかないと、子供の成績に影響があると言うくらい重要ポイントなのだ。優良校ほど、贈り物に掛ける金額の高も上がって来るし、場合に拠っては現金を教師に渡す事も、ままあるそうな。事実、筆者の近所の娘さんが現在、とある市内の高校教師をしているが、教師の日には放課後、自宅には父兄が列を成すと言うし、入学の口利きをして裏口入学の手伝いをすれば、纏まったお金が手に入るというのだ。
彼女は未だ26歳で、教師となり若干4年目に過ぎないが、9000米ドルを超えるバイクを乗り回し、休みにはシンガポールやバンコクヘ教員仲間と出掛け、そして化粧品と洋服に一月1000ドルは遣うのだという。記事のAng博士は立派な学者であり、教育者であり教師の日のテーマとして彼の生き様を採り上げたのは、それはそれで読者の一瞬の感心効果を得られる事が出来るだろうが、ベトナムの一般的な教師は、集りを半ば公然としている姿を何とか是正するのが急務であろう。
11月24日(金) 安倍首相 越南公式訪問
* ベトナムは首尾一貫して日本との多角的な協力関係と友好促進を最優先の政策として行くだろうと、Nguyen Tan Dung首相は改めて一昨日ハノイで主張した。この主張はベトナムを公式訪問中の日本の安倍首相の歓迎懇親会の席上なされたものである。今回の公式訪問は重要なランドマークとなるばかりか、日本国政府がベトンムとの関係発展強化と利益を反映した越日友好と協力の新しい道筋となるだろう。懇親会の席上 二人の首相はDung首相の日本公式訪問時に締結した数々の同意案件の実行方法を固める為の話し合いを持った。
Dung首相はベトナムの刷新と経済・金融、特にODA支援を与えてくれた日本国政府並びに国民に対し謝意を述べた。安倍首相は、ベトナムの近代的産業国家への脱却を図るためにの支援を提供し、二カ国間及び多国間関係の中での首尾一貫した日越関係に重きをなして行く事を確認した。両者は、国防・安全保障・外交・経済・政策などの定期的な高級事務レベル協議を双方で継続して行くことに同意した。この他に、彼らは越日経済協力合意を促進し署名する事に合意し、日越共同イニシチアブ第二章や両国の外務大臣を頭に据えた、越日協力委員会の設置にも合意した。
二人の首相は鉄道・南北高速道路建設プロジェクト、それにHoa Lacハイテクゾーンについても話し合った。他に地域・国際関係問題については、両首相は二国はアジア大洋洲及び世界の平和と安定・発展を願い、国連・ASEAN・ARF・ASEM・APECを通じて貢献して行きたいと主張した。その後、彼らは、ベトナム企業の指導者や御手洗富士夫氏に率いられた経団連と面談した。席上、御手洗氏はベトナムの鉄道事業・南北高速道路網・Hoa Lacハイテクゾーンへの協力を惜しまないと訴える、一方、ベトナム政府に対し、外国企業へのベトナムでの投資環境をより一層整えるよう注文をつけた。
(辛口寸評)
先月、日本はベトナムの首相Nguyen Tan Dung氏を公式訪問として迎え入れた。その余韻も冷めぬ内に今回のAPECに続く安倍首相の返礼ともいえるベトナム訪問は、今後の日越関係強化を高める上においてまさに絶妙のタイミングでなされたといえる。
これからも互いに信頼関係を基本に置いた50対50の付合いを願うばかりである。なぜ、このような事を持ち出すかといえば、経団連、奥田前会長はベトナムに来て大きな失敗をした前例があるからだ。詳細は書けないが、奥田氏はベトナム指導部の取組みにクレームをつけた事があり、それに対し、Nong Duc Manh書記長が謝罪した旨の発表が新聞紙上でなされたことがあった。
これに対し、ベトナム側は非常に腹を立て、外交チャンネルを通じ強い抗議を申し入れたのだ。
如何にベトナムの国家予算が、トヨタの利益程に過ぎないといえ、如何に経団連とはいえ一民間企業の集まりの会長風情が、相手国の国家を代表する者を冒涜することが許されて良いわけではない。もちろん、意見としてアドバイスをするには何ら損傷は無いだろうが、調子に乗って「ああしろこうしろ」とは言うべきでは無い。国と国との関係はあくまで50対50であるべきだが、国家と民間の関係はその生い立ちから対等のレベルは存在しないのだから、民間企業に交戦権が無いのと同様で一歩、控えるべきだと思う。御手洗さんにはその辺り巧く立ち回って欲しいものである。
11月25日(土) もうひとつの日越友好発展促進
* Nong Duc Manh共産党書記長は、党と国家、そしてベトナム国民は日本の越南に対する多方面での協力と友好関係を深く感謝するとともに、今後もこの関係を発展に努めるて行くだろうと述べた。このコメントは一昨日開催された日本の安倍首相との会見の席上、Manh書記長が語ったものだ。両国の友好関係及び協力関係は双方の人民に受益をもたらしたばかりか、地域と世界の平和と安定・協力と発展に寄与するものであると書記長。
Manh書記長は、安倍首相のベトナムへの公式訪問を歓迎するとともに、今回の安倍首相の訪越が越日両国の協力関係を更に加速させる重要なイベントになるだろうと話した。加えて、書記長は近年の両国関係の促進がスムーズに進んでいる事を大変嬉しく見ているとも述べた。安倍首相から返礼として、ベトナムの地位がアセアン地域のみならず国際的にも急速に重要性を増したこと、そしてWTO正式メンバーへの加盟並びにAPEC2006会合のホストの大任を成功裏に終えられたことに対しお祝いの言葉を贈った。
安倍首相は続けて過去から現在に至る日越関係の友好と多面的協力関係の発展を見守ることが叶い幸せに思うと述べ、アジアと世界の平和と繁栄の為、両国が戦略的パートナーとして連携することに合意するものだと語った。その為に日本はベトナムとの友好と協力関係を今後とも発展的維持に努め、ベトナムの人々もドイモイの中で多くの新しい事業を達成して行くことを希望すると安倍首相。
Nguyen Minh Triet大統領は一昨日、安倍首相を迎え、日本政府がベトナムのWTO加盟の後押しをし続けて来た事に対し感謝を述べた。加えてTriet大統領は、日本政府のODAの拠出及びベトナムのAPECホスト国に対し支持をしてきたことに謝意を述べた。大統領は、越日関係がこれまで以上に進展していることに満足しており、先月、ベトナムのNguyen Tan Dung首相の日本公式訪問は両国の関係を更に高める上に於いて意義深いイベントであったと語った。Triet大統領はベトナムへの投資を高め、ベトナムのインフラ整備を助けてきた安倍首相・日本国政府及び企業家たちに謝意を述べ、これらの援助は今後のベトナム発展に欠かせない礎となると語った。
一方、安倍首相はTriet大統領にAPEC会合の成功を讃え、ベトナムのWTO加盟に祝意を送り、大統領に日本への公式訪問を要請し、Triet大統領はこれを受託した。安倍首相公式訪問最終日にハノイで開催された記者会見の席上、安倍首相は日本は常にベトナムの投資環境が向上される事に強い意欲を持っているとし、日越両国は日越共同イニシアチブ第二章の実施に邁進しなければならない。日本は、今後南北高速道路網を含む投資事業の調査をする為、調査隊を送ると述べた。この南北道路網事業は両国で定めたプロジェクトの中で最もベトナム側から望まれている3つの中のひとつにあたる。最後に安倍首相はベトナム政府と人々に対し今回のベトナム公式訪問に送られた配慮に感謝すると語った。
(辛口寸評)
ベトナムと日本の交流が、活発化して喜んでいるのは何もビジネスマンだけではない。ベトナム人を親戚に持つ筆者のような日本人もそうだし、それ以上に、人知れず自分たちの事を“日本人”として生きてきた日系ベトナム人たちもこの両国の関係が向上し、自己の血の中に流れる日本人の誇りと祖国ベトナムの未来に対する希望の炎を燃え上がらせているのだ。
この知られざる日系ベトナム人とは、実は筆者が敬愛する通称ハノイの姐御がこれまで封印をされ続けてきた歴史に一筋の光を当てて、最近、その存在が浮き上がらせたものである。第二次大戦を戦った日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏を受け入れて昭和20年8月20日、敗戦を迎えた。終戦をベトナムの戦地で知らされた日本兵の一部には、日本へ帰還せずそのままベトナムに踏み止まる男たちがいた。彼らはフランスに抑圧されていたベトナム人を救うため、ベトミンに義勇兵として参加した。ベトミンに組織的な戦術を教えたのは、これらの元日本兵であったといわれている。
そんな元日本兵も、ベトミンと戦いに明け暮れながら、束の間の安らぎをベトナムの家族に求めていた。しかし、そんな幸せな日々も長くは続かず、ベトナムの政策転換によって家族が離れ離れにならなくてはならなくなった。ベトナムがフランスからの独立を勝ち取ると、社会主義国家建設の道をソビエトを師と仰ぎ歩むことになる。ベトナムの独立に貢献した元日本兵たちではあったが、当時、ソ連は敗戦国の元日本兵たちがベトナムの英雄であることに差し障りがあるとして、時のベトナム政府に働き掛け、彼らをベトナムの家族と無理やり引き離し、日本へ送還させる事にしたのだった。
泣きの涙で愛する家族をベトナムに残し、故国の土を踏みしめた元日本兵に取って祖国日本の風はあくまでも冷たいものでしか無かった。その当時、アメリカの下院を席巻したマッカーシー旋風が議会を吹き荒れ、レッドパージの余波が日本も包み込んで下り、ベトナム帰りの元日本兵は、スパイ容疑で常に付けまわされただけでなく、徹底的な就職差別にあったそうだ。その一方で、ベトナムの家族たちにも不幸は付きまとった。日本人の血を引くものとして、見つかれば差別に遭い、できうるかぎり事実をひたかくしに隠し、つい数年前まで生きなければならず、おおぴらに日系である事を白日の下に語れるようになったのはそれこそハノイの姐御の地道な取材の功績が大きいのだ。
残念なことに日本へ帰還した多くの元日本兵はそのほとんどが、ベトナムに戻ることは無かったという。ハノイの姐御は言う「決してベトナムの家族を捨てた元日本兵を責めるものでは無いと、、、なぜならば彼らも日本で謂れの無い差別に遭いながら生きなければならなかったのだから。誰が悪いわけでなく当時の世界情勢と日越関係に奔弄されたベトナムで生きた家族も元日本兵も被害者なのだから、、、。」と。今日の寸評はそんな姐御の言葉を思いだしながら、長くなったが新しい日越友好関係の幕開けを記念して書くことにした。
参考サイト
http://www.vinapark.com/blog/mt/archives/000672.html
http://www.vietnam-go.com/message-1-38991
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1127207826/l50
以上