ウィークリー・ベトナム・ニュース
■ 平成19年1月27日 土曜日 第99号
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■ こんにちは!!
いつもお世話になっておりますベトナムから、ニャットアインです。
今日もここ一週間のベトナムの主なニュースをご笑覧下さい。
翻訳は直訳とせず、日本語に馴染む意訳としておりますので、ご注意下さい(笑)また、訳者の独断と偏見を交えた辛口寸評を入れてみました。内容が片寄り、言葉が多少過ぎる箇所も多々あろうかと存じますが、これもベトナムを愛するゆえの諫言とお許し下さい。
誤字・脱字はご愛敬ってことでお願いします<(_ _)>
尚、記事の転送は営利目的以外なら原則自由ですが、自己責任において行い、その中で被った被害・損害に対し筆者は責任を負えませんのでご了解下さい。
ベトナム・ニュース その99 今週のヘッドライン
* 1月22日(月) 吸血鬼の娘
* 1月23日(火) 今年のインフレ率 なんぼ?
* 1月24日(水) 旧正月用小額紙幣 緊急発行
* 1月25日(木) ベトナム交通戦争の行方
* 1月26日 (金) ベトナム 株長者量産中!!
* 1月27日 (土) 就職 外資系か安定か、、、。
1月22日(月) 吸血鬼の娘
* 今から20年前のこと。私は省の師範大学を卒業すると直ぐにNa Bon村に赴任することになった。この村は黒タイ族が住む僻地山間部にある村で、私はここの子供たちが通う小学校で教鞭を執ることになったのだ。児童数は全部で約30名で、その殆どが11~13歳の間の男の子たちで占められていた。赴任して数週間、私の授業は好奇心旺盛な村人たちによって、彼らの子供たちが私からどんなことを習うのか静かに観察していたことを除けば、私のここでの生活は順風満帆だった。
次第に授業を観察しに来る村人の数は少なくなって行ったのだが、たった一人8~9歳くらいの小さな女の子が残っていた。薄汚れた服を着て顔はすすけたままのその少女は、辛抱強く窓の外に立ち、来る日も来る日も授業を眺めていたのだった。ある日の事、休憩の時間に私は少女の元へ行き、私の授業に出てみないかと尋ねた。すると彼女は、その言葉に反応するかのように首を縦に振ったものの、直ぐに拒絶した。「なぜ?いいでしょう」と少女に手を差し伸べ、教室に招きいれた。驚く表情を隠せずにいる少女に、一番前の席を与え 名前を尋ねた。ソンと答えた彼女に、明日から教科書を準備すると告げて、その日は別れた。
翌朝からクラスに出てきたソンが、私が読書の指名をすると自信を持ち堂々と読み上げる姿にクラスメイトは騒然とした。加えて、彼女の綺麗な筆跡に私は驚きを禁じえなかった。恐らく、彼女は私の授業を覗きながら自然に覚えたのだろうと考えた。一週間後、ソンの隣の机の女の子がクラスから消えてしまった。それに続くように多くの児童がしっかりとした理由もなく、学校へ出てこなくなってしまった。そして終に誰も居なくなってしまったのである。訝っていると、村の村長さんが我が家へ訪ねてきた。そして彼は私に何故、吸血鬼の娘をクラスに入れたのだと非難したのだった。
「ちょっと待ってください!誰が吸血鬼の娘なんですか!?」村長さんは絶望的な眼差しを私に向けながら、吸血鬼の娘がソンであること。クラスの中の児童二人が既に、ソンの魔法で病気になってしまったこと。仮にこの二人の命に何かあれば村人たちはきっと私の罪を呪い、村から追い出してしまうことだろうと話してくれた。私は頭の中が混乱しながらも、他のクラスの子供たち同様、ソンは可愛く素敵な少女なのに、ソンのどこに危険性を秘めているのかさっぱり解らない。何が吸血鬼なのか村長さんに逆に詰め寄り再度尋ねてみた。
村長さんは声を詰まらせながら、ソンの母親は多くの人々の死に関与した吸血鬼なのだといい、そしてソンをクラスから追い出さなければ、私を解雇するだろうと警告して去って行った。その夜、村長のLoさんとその仲間の村人たちが、誰が吸血鬼で、彼女がこれまでどんな酷いことを村人にしてきたか教えようとやって来た。Lo村長は、吸血鬼は普通、その魔法を彼女の娘たちに使わせるだという。私は幽霊とか、お化けの類は信じない方なのだが、少し心配になってきた。そのとき私はソンの自宅を家庭訪問した時を思い出していた。小さな掘立小屋で、入り口に階段を上がる度に小屋全体が揺れるほど粗末な作りのものだ。
ソンの母親は凡そ40歳前後。悲しげな表情の彼女はこれまでの辛い人生で美しさが完全に閉ざされてしまったかのようだった。ソンが二歳のときに亡くした父親の死亡理由は、妻が彼の生血を吸ったからだという噂が村中に流れると、この母娘を村から森へ追い出そうという村人たちの機運が高まったのだが、母親の懇願に負けた村人たちは最終的にこの母娘を村はずれの森の入り口に住むことを許したのだった。私はこの母親にソンが如何に学業優秀かを伝えたが、彼女から戻ってきた言葉は、娘には学問は要らない。それよりいずれまた村人たちから追い出しを掛けられるようになったらどうすれば良いかと私に尋ねてきたのだ。
その晩、Lo村長が我が家を去ると、私は村はずれまで出掛け、遠くの霧の中に立つソンの小屋に目を凝らした。草の中の昆虫の鳴き声や鳥のさえずり、小川のせせらぎ、空中の幻想的なホタルの乱舞・遠く離れたところから聞こえてくる鹿の呼び声以外、私には何も聞くことができず、亦。何も見ることができなかった。私は翌朝、ソンに何と言って話を切り出して良いのか判らず悩んだ。彼女の賢そうな顔を思い浮かべると、私の心は辛く張り裂けそうになった。クラスから彼女を追い出すべきか否か、、、。彼女に落第を奨め母親の手助けをするように諭すか、、、。しかし仮にそうしたとしてもソンはきっと以前のようにクラスの窓辺に戻って勉強をするだろう。そんな彼女の姿は私をより悲しくさせるだけだ。悶々とした気持ちを胸に眠れぬ夜は過ぎて行った。
次の朝、私はソンにもっと勉強をしたいか尋ねてみた。彼女は、元気よく肯いた。そこで私は彼女に町の小学校で勉強してみる気はないか問い質したところ、彼女は目を輝かせたのだった。この日の夕刻、私はソンの自宅を訪ねることにした。母親は遅くならぬうちに帰宅していた。私は母親にソンを町の小学校と中学校に進学させないかと話を持ちかけた。もちろん授業料は免除されることも添えて、、。
ところが母親はこの話を聴き終えるや否や、彼女の美しい顔をより一層青白くして憂いを湛え始めてしまった。
そして暫くして彼女は、その胸の内を語った。娘とは離れて暮らしたくない。しかし、それで娘の幸せを奪いたくないのだと、、、出来れば町の学校へ娘をやり彼女の運命を帰させたいと本音を語ったのだった。その年の11月、私は村人にソンが伝染病に罹ったので感染を防ぐため町の病院へ暫くつれて行くと告げ、町の学校に転校させ、その学校の校長や教職員にソンのことを依頼して村に戻ったのだった。
Na Bon村で二年間、教鞭を執った後、十数年、私はあちこちの学校で教壇にたった。ある日、ふとソンのことを思い出した。彼女が通う町の学校は、私が勤務するところから僅か6キロしか離れていない。ある昼下がり、私はクラスで明日の授業の準備をしていると10代後半の可愛い少女が入ってきた。ソンだった。彼女は私の前に涙を流しながら跪いた。再会を喜び合うと、ソンはゆっくりと私と別れてから今日までに彼女の身の回りで起こった出来事を話してくれた。それによれば、ソンが村を離れてから直ぐに、10人もの村人がマラリアに感染し命を落としたという。村人はソンの母親に原因があるとして、彼女を村はずれからも追い出そうとしたが、彼女は自ら森の中へ入って行き小屋を構え生活を始めた。そして日も経たぬうちに母親は悲しみの中で一人寂しく死んでしまった。母親が死で、一旦、村に戻ったソンを知る村人はもはや誰もいなかったという。
涙に泣き濡れて、身の上話を終えたソンに私はこれからどうするのか尋ねた。すると彼女は省立医科大学への進学を希望しており、将来、医者になって母親が受けてきた村人からの誤解を解くのだと決意を滲ませて語ってくれた。そして「グットラック!」と一言贈る言葉を添えて再会したソンと別れた。この再会が彼女を見た最後だった。後年、ソンは大学を卒業すると開業医となるべく、彼女は生まれ故郷の村に診療所を構えた。そこで彼女は多くの村人の命を救い、村人も徐々に迷信を捨て教育の重要性を悟って行った。無知と無教養であることが社会悪と気がついたのだ。
その年の雨季、早朝、ソンはいつものように往診から自宅に戻る途中、増水した川からの鉄砲水に襲われ溺れて命を落としてしまった。
村人の嘆きはその後、数年途絶えることが無かったという。その後、私は教員を辞めジャーナリストの道に進むことにした。そして我が国のこと我が国の人々を深く探求するため、国中をくまなく飛び回ることにしたのである。昨年末、私はNa Bon村を再度訪れた。多くの教え子は私のことは既に忘れているようだった。ソンの運命を変えようと私がもがいた際、当時の教え子の一人は私にソンについての悲しい身の上や誹謗中傷を交えて話したことを思い出す。もちろんそんな話を信じるわけはない。しかし、今、ひとつだけはっきりしているのは、ソンがこの村に戻ってから村人に尽くしてきた日々が村人の心の中に伝説として刻み付けられていることだ。
(辛口寸評)
ベトナム人が迷信にとらわれ易い人たちであることは以前も、このニュースで取り上げたのは記憶に新しいところだが、今日はベトナムで日陰に曝されている人々について取り上げてみる。こんなことを云うと、俄かに信じて貰えないだろうが、ベトナムの中にも差別はある。
尤も、日本と違うのは部落や在日朝鮮人問題のような感情的な流れの中にあるのではなく、ベトナムの場合は多分に政治色を帯びた差別なのだ。もちろん公にベトナムには差別が無い事になっている。が、しかし人間社会である以上、本音と建前は常につきものだ。
この国で、政治的に不利な状況下に置かれる人々の代表的なものは、共産党に楯突く反体制派、次に体制に迎合しない、或いは教義の独自色の強過ぎる宗教団体が挙げられる。反体制派については、未だ結社の自由も認められていない事からも明らかなように国内では公安当局が常に目を光らせて下り、差別以前の問題として国内に生息すること自体厳しい環境下に置かれている為、ここでは除外する。
残るのは宗教団体ということだが、社会主義の父、マルクスが宗教は麻薬だと嘗て比喩したように、そもそも宗教と社会主義思想とは相容れない関係にある。ベトナム共産党も反宗教色一掃の旗印を掲げて設立されたが、ベトナムが抗仏・抗米を戦い抜く為には、国内の宗教界(仏教・カトリック)を取込まなくてはならぬ事情があり、当初の立場を軟化せざるおえなくなったわけだ。それほど宗教勢力が庶民の信仰に根ざして強固なものになっていたというわけだ。
ところが、ベトナムにも仏教・キリスト教から分派した宗派がある。
これらは仏教界並びにキリスト教の本流からは異端として扱われているばかりか、政府からの差別を受けて窮めて経済的にも不利益な状況に置かれているのだ。もちろん、このような話が表に出ることはない。
しかし、ドイモイを強力に推し進めている今だからこそ、国民が一丸となって国家建設が求められる時であることを、ベトナム政府は認識する必要があるだろう。自分たちと毛色が異なるから避けるのでは無く、そんな人々を懐柔し、仲間に迎え入れることにより、ベトナム政府は押しも押されぬ立派な正当政権としての器を認められるのだろうと思う。
1月23日(火) 今年のインフレ率 なんぼ?
* 先月下旬に消費者価格分析研究所によって開催されたセミナーにおいて、参加各専門家たちから2007年の我が国消費者価格指標(CPI)に対する様々な意見が取りざたされた。2006年のインフレ率は対前年比で6.6%の上昇を見たものの、今年は外的圧力のよる影響でCPIは、7~7.5%になるだろうと、価格分析研究所副所長Ngo Tri Long氏は“2006年市場発展と2007年CPI予測”と題されたセミナーの席上、発表した。2007年第一四半期のCPIは、旧正月商戦時期に重なるため消費は3~3.5%の拡大が見込まれているという。
商務省の下部機関貿易調査研究所Nguyen Van Lich所長は、世界の石油・ガソリン価格は今後も引き続き上昇するだろうと前置いた上で、石油価格は1バレル当たりUS60$台を、化学肥料はトン当たりUS250$台 製鉄はトン当たりUS420$台周辺を行き着くのではないかと語った。国内エネルギー市場は政府系機関主導で推し進められている電気・石炭・ガソリン・石油減産計画により2007年のインフレ率はアップすると考えられるという。ベトナム政府は既に2006~2010年の間での電気代高値推移を承認しており、ベトナム国家石炭・鉱業グループ(Vinacomin社)は、電力・セメント・化学肥料・製紙各業界に対し、2007年1月より20%の値上げを提案しているという。
この一方、別の専門家は2007年のCPIは2006年度より低くなり、6%台で推移するのではないかとの見方を示している。セミナーの参加者の中には、ベトナムがWTOに加盟した結果、輸入税が下がり、これが原因で輸入価格の値下げに繋がるのではという立場を取る人たちもいた。「輸入商材が国内市場へ競争力のある価格で参入して来ると、国内ビジネスはそれへの対抗措置を講じなければならなくなり、外国勢の競争力に打ち勝つには商品の質を高め、価格の見直しを図る必要に迫られるだろう。」とNguyen Thi Hien博士はいう。
先の12月CPIは11月より0.5%上げ、年間のそれを6.6%に押し上げる事となった。この数字は昨年、統計局が予想していた数値7%より低いものであった。2006年を遡る二年間インフレ率は8%台をマークしたが、それ以降指標は安定に向かっている。食品価格が最も上昇し、対前年比で14.1%の伸びを記録した。次いで家電製品が6.5%で、第三位に家庭用品の6.2%でランクインしている。その一方で、逓信関連は全体で2.9%の値下げを敢行し、消費者を喜ばせた。
ある参加者の話では、CPIを保つ為 政府は石油の世界価格の推移をモニターし、そして商品価格と税額の調整を決め、その戦略を立てることが重要だと語った。2006年度の全てのサービス産業と小売業の売上は、580tドン(US36b$)に至ったと試算され、2005年度の20.9%の上昇を見た。ベトナム下院では2007年度のCPIの上昇率目標を目標経済成長率8.2%を下回るように定めている。
(辛口寸評)
インフレとは関係ないが、今年 ベトナムの旧正月(テト)元旦は2月17日(土)である。例年、この国ではテトを迎える三ヶ月前からテト商戦に入り、先ず原料代がジワジワと値上がりし、その影響を受け二ヶ月前になると小売価格が末端で上昇するようになる。筆者の会社は、この時期の値上げは毎度の事なので、予め仕入を事前に済ませておき、極力、値上げをしない方向に持って行くのだが、ベトナムのローカル企業の多くは、このようなことをせず、他の価格が上がれば季節に関わり無く、消費者に値上げ分を被せてくるし、ひどいところになると便乗値上げを平気で行ってきたりする。
予め判っていることなのに何故、事前に準備しないのかいつも不思議に思えて仕方がない。少し話はずれるが、ベトナムで駐在員をした経験のある方は覚えがあると思うが、通常、こちらにいると運転手付のドライバーを雇うことになる。初めて日系の会社で働くような運転手は、事前にガソリンを入れ、仕事に入ることをしないのだ。
決まって、雇用者を乗せてから、その途中でガソリンスタンドに寄るのだけど、話題は異なるが同じような思考法から来るものだと思われる。今日は本当に全く関係のない話題を提供してしまいましたね。
それではまた、、、。
1月24日(水) 旧正月用小額紙幣 緊急発行
* ベトナム中央銀行(SBV)のLe Duc Thuy総裁は、今年もベトナム通貨ドンは安定を続けインフレ懸念は抑えられ、ドン対米ドルと交換比率の幅も1%未満になるだろうと予測した。亦、国際通貨市場がベトナムドンに与える今年の影響は2005年や2006年度より低いものになるとThuy総裁は付け加えた。SBVの予測では、クレジットの今年の伸び率は20~21%で、ドンの価値は国内の好景気に支えられるお陰で下がることは無いとする。予想に沿って、SBVは今後とも注意深く市場の動向を見守り、インフレを経済成長の水準以下に抑えるるため臨機応変な下院で定められた金融政策を執って行くという。
Thuy総裁は、この4月からベトナムのWTOとの約束に従い外国系銀行がベトナムでの支店開設を許可されるようになると、ベトナムの金融・銀行市場はより活性化されるだろうと述べた。既にSBVは海外の大手金融グループから10件にも及ぶ支店開設依頼・代表事務書開設・100%外資銀行開設申請書を受理したという。現行の法律では、外国系銀行がベトナムに支店開設をする為にUS15m$の最低資本金を用意しなければならないのだが、その一方で仮に外国系金融機関が資本金US70m$そして合計株式がUS10b$以上あれば、子会社が設立可能となっている。
SBVは、旧正月に向け小額紙幣の需要が高まりを見せる中、それらの発行を開始した。紙幣への回帰は昨今の硬貨を製造コストが紙幣の三倍にも上昇した為と、市場で小額硬貨に対する人気の低迷があるからだとThuy総裁は説明した。Nguyen Tan Dung首相は、当初SBVの硬貨発行要求枚数1b$(US62300$)に対し、最終的に2bドン(US124600$)分の硬貨発行を承認した。しかし、最初の発行が完了した時点で、1000ドンと2000ドン硬貨の品質に市場の不評を買ってしまった。
そこでSBVでは半年前に硬貨の別の材質を探し求めて研究していたが、製造コスト・硬貨の耐久性・市場の人気度を踏まえ再検討した結果、小額紙幣の発行をする事に決定した。因みに小額紙幣に使われている素材は綿で、市場での流通寿命は凡そ14ヶ月である。
(辛口寸評)
一昨年から、200・500・1000・2000・5000ドンは紙幣から硬貨に順次切り替えられていったのだが、当初からコインはベトナム人にとって使い慣れないものであり、不評が多かったが、ここへ来て昨年中ほどより、慣れも進んでか余り聞かれなくなった。ところが、折角、硬貨に切り替えたのに世界的な金属高の煽りを受けて原料が値上がりした為、以前の紙幣に戻さなくてはならなくなったとは何とも皮肉なものだ。
これで亦、暫くはコインに戻したとしても市場からの不満は続くのだろう。
さて、今回の記事を読むまで筆者も小額紙幣の原料が“綿”だった事を初めて知った。てっきり特殊な紙を使用しているとばかり思い込んでいたのだが、これでひとつなぞが解けた。誤ってこれら紙幣を洗濯物と一緒に洗ってしまう事が何度かあったが、その度毎に紙幣は破れることは無く、寧ろ綺麗に汚れが落ちたその理由が素材だったとは、、。
10000ドン以上の紙幣は今でこそプラスチック製になったが、それ以前のものもコットンだったということが、、、、。
1月25日(木) ベトナム交通戦争の行方
* 交通事故はベトナム社会の大きなジレンマとなりつつある。交通事故による死者数は、自然災害の犠牲者数の30倍も多く、統計によれば、年間14500件の交通事故で12600名が命を落とし、11253名の負傷者が出ている。2005年の事故数は400件増加すると共に、それに比例し死者数も1400名の増加を記録した。特に働き盛りの交通事故死者数は全体の7割に及び社会に多大な損失を与えている。交通警察のアンケート調査によると、事故原因の全体の7割以上がバイクが絡んでおり、2割が自動車に因るもので、残りが歩行者及び道路・バイク・自動車などの整備不良が起因しているとする。
更に調査結果から、スピードの出し過ぎ・不注意・信号無視・交通違反が事故の主だった原因である事が判る。免許不携帯と基礎的な道交法の理解力不足も事故を招く原因だと分析する。「多くの人々の運転技術は未熟なので、咄嗟の時の判断がつかず事故に巻き込まれてしまったり、その当事者になってしまうのです。」と、ハノイ市警察署交通課Mguyen Tam Truong部長刑事はいう。外国からベトナムへやって来る観光客はしばしば、この国の交通事情を“混乱”と指摘する。加えて国民の公共交通道徳マナーと交通安全の認識が、交通事故の犠牲者数の増大に繋がっているのである。ライダーは未だヘルメット着用を忌み、自分自身ばかりか他の人々も危険の淵に陥れているのだ。
ベトナムの交通事故増大の別の要因は、国の経済が向上し、国民所得が増え、安価な中国製バイクがベトナムヘ流れ込み、ライダーの増加と共に事故数は比例して来ているのである。高校教師のNguyen Kim Trungさんは、最近の学生たちが保護者にバイクを買い与えるよう求め、学校がバイク通学を禁じているにも拘わらず、それをする事に問題があるという。実際、若者のライダーたちが我が国で最も危険な運転をする世代であり、しばしば信号無視や賭け公道レーシングなどを繰り返しているのだ。学校としても、交通道徳教育の徹底を目指しているという。
先月末、警察により開始された交通安全キャンペーンは人々に交通マナーの重要性を訴えてはいるが、これで十分なのだろうか?警察の高官は最近になって、信号無視をしたライダーのバイクも取り上げるべきだと提案した。個人的な意見だが、当局は交通違反者により厳しい態度で臨み罰金を課すべきだと思う。特に、地方から市内へやって来る人々は交通安全の知識に乏しく、きちんとした交通教育がなされるべきだ。今後の警察の対策が期待されるところだ。
(辛口寸評)
一日、ホーチミン市内を移動していると、決まって街中で黒山の人だかりに出くわす。交通事故だ。当事者同士が大声を張り上げ、それぞれに相手の過失を責め、その一方で自分の正当性を主張する。騒ぎに釣られて大勢の人たちが集まり、双方の主張に耳を傾ける。やがて、集った人の中から審判のような人がいつのまにかしゃしゃり出てきて、当事者以上にその場を仕切り出すのである。審判には世論という名のギャラリーがバックに控えているために、当事者であってもその発言には一目置かなくてはならなくなるのだ。
尤も、毎回、こんな風に収まるわけではない。中には、話し合いの前に当事者間で殴る蹴るのケンカから始める場合もあるが、こういう場合は大概警察のお世話になり、最終的に当事者が不利益を蒙るのは目に見えているため、普通は上述したとおり、事故後は当事者双方のギャラリーに対するアピール(自己主張合戦)が、重要な戦略となるわけなのだ。まあ、しかしアピール出来るのも命あってのことなので、一番大切なのは先ず事故を未然に防ぎ起こさぬよう注意することが大切だろう。
1月26日(金) ベトナム 株長者量産中!!
* ベトナム株式総額が国民総生産(GDP)の30%を占める見込みであると、国家証券委員会Vu Bang委員長はいう。Bang委員長が最近ハノイで開催された会合の席上、ベトナム株式市場は次の4年にかけて上場株の取引高は2010年でUS30b$からUS40b$となり、現在の2~3倍のレベルになるだろうと語った。各証券会社の資本金額は極端に増加し、一社平均500bドン(US31m$)、しかも、ベトナム株の投資家数は現状の25万人から30万人の3~4倍になると見込んでいるという。その一方でBang委員長は、証券取扱いのインフラの脆弱性と管理未徹底がベトナムの証券市場の欠点でもあると指摘した。これらの欠点をカバーし目標を達成させるには、関係省庁が力を合わせ対応して行かねばならないとBang委員長。
ベトナム投資開発銀行代表Tran Bac Ha氏は、財務省に対し、証券法を実行と周知徹底化させるためのガイドラインを策定するよう要求した。新たに証券会社が急速に設立される昨今、国際規格に準じた従業員の専門職業訓練は、これら証券会社で働くスタッフの専門的な管理能力のスキルを向上させるもので、加えて関連諸省庁は、国内の金融機関に対し好条件を与え、我が国の金融業界に活力を与えて行くべきだとサイゴン証券CEO Nguyen Duy Hung氏は語った。
サイゴン通信ケーブル会社代表取締役Do Van Trac氏は、上場企業を中心とした経済団体の設立を促し、共に将来発展可能な受け皿とするだけでなく、経済発展のための資本調達が出来るようにしたいと希望を述べた。会合に参加した人々の多くは、投資家の利益の保護の透明性を高め、証券会社の操業時の見落としを管理実行してゆくよう政府に対応を求め、外国株式市場から上場企業が資金調達するためのフレーム作りが必要であるとの立場を示した。
2006年末で、ホーチミン市及びハノイ証券取引所で上場している企業数は193社にのぼり、(因みに2005年末時点では僅か41社のみ)資本金合計額は実に221tドン(US14b$)。加えて、約400件の国債・地方債・社債の合計は70tドン(US3.58b$)で、ベトナム・ファンドとプルデンシャル・ファンドの額面総額は1tドン(US62.5m$)に膨れ上がっている。
国家証券委員会は公式にそれまで委員会の掌中にあった上場申請承認の権限をホーチミン市及びハノイ証券取引所に委譲した。この権限の移譲は1月1日に施行された証券法に沿って行われたもので、今後 二つの証券取引所で上場申請・申請の承認を証券法に従い実施されてゆくこととなった。
(辛口寸評)
このところ、ベトナム株が熱い。特にベトナムが昨年WTO加盟正式承認をなされた頃から、一挙に海外からベトナム株式市場に注目度が上がり、これまでに無いほど取引が活発化してきている。変に煽るつもりは無いが、兎に角、買えば騰がる。もちろん値動きは日々する訳で建値より値が落ちることもあるのだが、それでも少しじっとしていれば、直ぐに値を戻し、そこからグングン高値を着けてゆくといった感じで、それだけベトナムの今の株価はむしろ挙ってベトナム株に集まった外国人投資家がまるでバブルのように釣り上げてくれていると言っても言い過ぎでは無い。事実、上場企業とは言え、既に実力以上の株価が、軒並み優良株にはつけられているし、この先どこまで行くのか見通しは立たないものの、ここ2~3年は好景気の後ろ盾に支えられ、暫くこの流れは続くと思われる。
昨年下旬より、ベトナムでひとつの流行語が使われるようになった。
それは“株ビリオネアー”だ。ベトナムで100万ドンは日本円にして7400円余りに過ぎないので、ミリオネアーと言ってもたかが知れたものだ。ところが、10億ドンと言えば7400000円、押しも押されぬ億万長者と言うわけで、昨年は株ビリオネアーが量産されたので、人々の話題にもその分のぼるようになったのである。尤も、その一方で株ビリオネアーを目指し、田地田畑を担保にありったけの金を集め株に投下したが、意に反し投資した株が下がり続け結果的に全てを喪った投資家も続出した2006年だった。
1月27日(土) 就職 外資系か安定か、、、。
* 生きるために働くのか、働くために生きるのか?これが大学卒業を控えた現代ベトナム人学生が自身に問いかける質問なのだ。今年26歳のPham Le Hongさんは外資系企業で働くOLだが、そこで働けるということは彼女をより活動的にさせ、創造力を高めるのみならず、流行や独創的な仕事作りの可能性を磨くのに役立っているのだという。「全ての就業時間をきっちり使いこなさなければならなの。私が以前勤めていた国営企業みたいにのんびりとおしゃべりしている時間なんて無いわ!もちろん仕事から来るプレッシャーやストレスを感じない日は無いけど、それでも仕事の達成感が心地好いの」とHongさん。彼女が今の外資系不動産会社ヘ勤務する前は、国営企業の社員だった。「今の会社では、多くの様々な人々と知り合う機会があるの。世界中からやって来るビジネスマン・投資家、その他諸々の人達から沢山の事を学べるのよ。」と語る。
ここにもうひとつの事例がある。国立経済大学を卒業したMinh Giangさんは外資系企業に就職した。「私が外資系を選んだのは、先ず月給がローカル企業に比べて良い事、それにここではより専門的な業務能力を高められるだけでなく、言語習得と向上に役立ちます。たまに上司と一緒に海外出張なんかもありますから役得ですよ。その中でも特に私にとって外資系企業で働く重要なポイントは業務遂行能力が磨け、出世の機会に溢れている事です。」とGiangさんは断言した。この頃の多くの大卒学生は、競争が激しく、縁故採用はなく、給料は完全に本人の業務遂行能力で決まる外資系企業への就職に興味を示している。
ILAベトナム語学学校の経営者Tran Xuan Dzu氏は、従業員と上司、或いは同僚との人間関係が良ければ職場環境としては理想的だと言い、多くの外資系企業はこの点、一般的にローカル企業よりも秀でており頭脳労働者の確保と維持に役立てていると指摘する。しかし、全ての外資系企業が理想的な職場かと云えばそうでもないらしい。「毎日毎日残業残業で全くやんなりますよ。」と云うのは韓国系印刷会社勤務歴3年のLuong Hoang Giangさん29歳。「外資系にも条件の良いところと悪いところがありますが、うちのは後の方ですよ。」と苦笑いしながらGiangさんは答えてくれた。
ただ外資系でも有名な企業になると、就職は狭き門となる。高い外国語能力をはじめ、管理能力・共同推進能力(チームワーク?)、厳しい条件下での実務遂行能力は、過去の職歴から証明されることになるのだ。Giangさんは現在、今の職場を辞め長期間で国営企業かローカル民間企業への転職を企画中だという。理由は個人の時間がこのままでは束縛され身動きが取れないからだと語ってくれた。Giangさんと同様、Phan Thi Suongさんもまた、給料が安く出世の機会も低い公務員か国営企業への就職を考える一人だ。「私の友人たちは転職を繰り返しキャリアを上げて行こうとつとめるのが多いけど、私は転職が好きじゃない。だから、安定した公務員か国営企業への就職を探しているんです。」と外交研究所を卒業したSuongさんは、外交官 公務員の道を目指しているのだ。
(辛口寸評)
外資系企業といってもピンからキリまである。世界に名だたる大企業から、うちのようなまるで潜りのようなのまで千差万別だ。ただ、うちの会社の名誉の為に少し付け加えさせてもらうとすれば、これでも仕入先や客筋から弊社は外資系ととってくれているようで、その点、他社競合製品より3割ほど小売値が高くても、外資系(しかも日系)であることが評価され、お陰様で商売を続けさせて頂いている訳なのだ。あと、弊社の名前はNhat Anhだが、Nhatは日本の日 Anhは英国の英を指す。会社の名を命名するさい、筆者が日本人である事を意識したのでNhatを採用し、Anhはイギリスに関係があるように思われるかも知れないが、そうでなく、かみさんの名前の一文字を借用し、Nhat Anhとした訳だ。
イージーな名付けではあったが、意図した積もりは無いのだが、この社名も一般的なベトナム人にとっては、外資系である事をイメージ付けするには打って付けらしく、勝手に相手側で勘違いしてくれるので、敢えて否定すること無くそのままにしている。とは言え、名前で多少のごまかしは効くにせよ、会社規模や業務内容は中小零細そのものなので、優秀な人材確保は難儀している。何とかここ10年で、学生に人気のある就職先としてベトナムで伸し上がりたいものだ。記事内容とまた懸け離れた寸評を書いてしまって、失礼 失礼、、、(笑)
以上