ナマのベトナムが分かる、週刊ベトナムニュース第115号
ウィークリー・ベトナム・ニュース
■ 平成19年5月19日 土曜日 第115号
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■ こんにちは!!
いつもお世話になっておりますベトナムから、ニャットアインです。
今日もここ一週間のベトナムの主なニュースをご笑覧下さい。
翻訳は直訳とせず、日本語に馴染む意訳としておりますので、ご注意下さい(笑)また、訳者の独断と偏見を交えた辛口寸評を入れてみました。内容が片寄り、言葉が多少過ぎる箇所も多々あろうかと存じますが、これもベトナムを愛するゆえの諫言とお許し下さい。
誤字・脱字はご愛敬ってことでお願いします<(_ _)>
尚、記事の転送は営利目的以外なら原則自由ですが、自己責任において行い、その中で被った被害・損害に対し筆者は責任を負えませんのでご了解下さい。
ベトナム・ニュース その115 今週のヘッドライン
* 5月14日(月) 地価の高騰と虚構
* 5月15日(火) もっと働け!逓信省!!
* 5月16日(水) やっぱり明日の寿司より今日のラーメンかぁ?
* 5月17日(木) 不撓不屈の我が人生
* 5月18日 (金) 常に創造 明日への進化
* 5月19日 (土) 着々と布石打つスクリヴェン
5月14日(月) 地価の高騰と虚構
* 一昨日ハノイで開催された今年第一四半期の首都不動産市場の現状を考えるセミナーの席上、「ハノイ不動産市場は現在とても高騰しています。」と論評したのは、CB Richard Ellis(CBRE)社社長マーク・タウンゼント氏。同氏に拠ると、第一四半期にオペラビジネスセンター・パシフィックパレス・VITタワー・ヴィグラセラタワーなどのグレードAやBに属す建設オフィススペースは、25万平米に到達し28%が空き地と残っているに過ぎないという。ハノイ市での事務所用地の需要は引き続き増加してきているものの、今後5年間のその供給量は僅か40万平米しかないと続けた。そして、仮に事務所を確保したいと考えているのなら、1~2年前に確保の為のアクションを起こすべきだと示唆した。
これらの地域にある賃貸料は高額になり、グレードAは月当たり一平米US35$近く、グレードBであれば約US22$見当が相場となる。
亦、賃料は今後数ヶ月で引き続き上昇傾向にあり、タウンゼント氏はUS40~46$あたりに推移するだろうと予想している。ハノイ市のサービスアパートメント市場も、オフィス需要と同様な傾向にあり、貸部屋数は限られており、賃料は一平米辺り月額約US19~50$の高額になっている。増え続ける需要とハノイに流入し働く外国人労働者が、賃貸住宅市場に大きなプレッシャーをかけ始めているのだ。
市内のホテルやその他宿泊関係市場もベトナムを訪れる海外からの旅行客の増加と格安航空券を提供しているアジアエアー・ジェットスター・タイガーエアラインの乗り入れ等で動きに拍車がかかっている。しかし、過去数年、新しいホテルの建設は進んでおらず、5つ星ホテルの平均的ルームチャージはUS115$、月辺りのルーム占有率は第一四半期末時点で84%を維持して状態が続いている。
エスプリ・マンゴ・エスティーラウダーなどのブランドショップが参入したお陰で、ハノイの小売店市場も賑わいを見せ始めている。これら国際的有名ブランド小売店は、WTOでの約定の下、来年1月1日からビジネスチャンスを求めて、新規参入準備をしている。と同時に地元小売店も、外資が入る前に少しでも足下の基礎固めをしようと躍起となっている。
コンドミニアム市場に着いては、現在、韓国のデベロッパーが主要プレイヤーになりつつあり、日本の投資家もこの分野に触手を伸ばし始めている。前出のタウンゼント氏は、最高級不動産物件需要は今後とも限られた供給に支えられ、価格は今年も増加傾向にあり、その機会を求め国内外の不動産関連事業者が市場に押し寄せてくるだろうと結んだ。
(辛口寸評)
ベトナムに古くから居る筆者のような外国人には、WTO加盟を境にして、まるでベトナムは完全にBefore・Afterと分かれてしまった感がある。それ以前の出来事を全てリセットでもしてしまった。そんな気がしてならないのだ。確かに街を眺めれば、物は溢れ、多くの外国人客で賑わい、歴史的な建物は夜ともなればライトアップされ、花を添えているのだが、本当にこの国が生まれ変わり経済的に自信をつけ、それなりの実力をつけたのかをよくよく考えれば考えるほど、筆者は逆にネガティブな立場をとらざる負えなくなるのだ。この国の経済はまだまだ弱く、独り立ち出来るまでに育っていないのだ。
今目に見えるこの国の発展の全てが虚構と言っても言い過ぎではない。問題は、外国からの資金の流入がこの国の人々の目を眩ませてしまっており、刹那的な豊かさに踊らされるに至っていることなのだ。ベトナムの不動産の高騰、本来インフラもままならぬ国の首都の地価が東京山の手の住宅街より高いなんて有り得るわけがない。この国の指導者たちは、外国勢から意図的に踊らされていることを築き、それに対する明確な防衛策を立て、国民を守って行かねばならないのだが、どうも最近、それすら危なっかしく見え始めている。
5月15日(火) もっと働け!逓信省!!
* グエン・タン・ズン首相は逓信省に対し、ベトナムのIT産業並びに通信分野の発展を強化して行くよう申し入れをした。このコメントは一昨日開催された2007年の課題と2010年度の計画策定作業部会の席上なされた。国家と共産党は、これまで真摯な姿勢で党中央と政治局及び政府に拠るこの分野の急速且つ包括的な発展の為の環境作りに沿った決議事項を目に見える形で実践してきたと首相は述べた。強化項目は、約8千の集落に新たに19000軒の郵便局の設置を図ると共に、2740万人の電話利用者と400万人のインターネットユーザーの確保という。
通信開発に於ける情報技術分野での年間進捗速度は25~30%で、毎年US3b$の稼ぎを見込むとし、その一方で国家業界関連機関は、国際ルールを遵守し、この分野の人材創出に力を入れて行くとしながらも、現状、ベトナムのこの分野の発展の可能性は、ベトナムが望む近代化や工業化の基準にマッチしていないとズン首相は指摘した。そこで、首相は各閣僚に対し、国内郵政事業者の競争力の弱さと高経費体質を早急に是正する為の見直しと産業の拡張をするためにあらゆる社会的資源を動員・活用し、競争力の強化に繋げるよう求めた。加えて、逓信省はコンピュータプログラマーの養成と先進技術の適用を積極的に行う為の注意を払うよう首相は要求した。
2007~10年の課題については、首相は逓信省が、ベトナムの持続可能な発展と開発戦略を固めることに積極的な貢献を果たし、これら戦略にはインターネット・電話システム・生産現場や日常の中での情報技術の活用(特に国家管理)の開発発展が含まれている。亦、首相は各閣僚に来る年の通信技術の伸び率を10%以上として、100世帯当たりの電話利用者を60世帯、インターネットユーザーを15世帯にする目標を掲げ、ベトナム人総インターネットユーザーを40世帯まで引き上げるよう発破をかけた。更に首相は逓信省に教育訓練省と連携し、高校生に対する次世代の訓練プログラムを策定するよう指示した。
(辛口寸評)
全然話は記事と関係ないのだが、最近、仕入れたニュースでベトナム最南端のカマウ沖にタイへと繋がる海底ケーブルが凡そ、11キロに渡り切断され、盗まれたという。被害総額は日本円で約6億近くになるという。以前から、ベトナムでは電線が盗まれる事件はしばしば起こり別段、珍しくも無いが、今回の海底ケーブル盗難事件はさすがのベトナム人も驚いていた。それにしても、本当に盗難なのだろうか、、、ひょっとすると事件なのかもと考えるのは筆者だけであろうか、、、。海底ケーブルのパイがどれほどのものだったのか詳しく知らないけれど、海底に埋設されているケーブルは、その自重もさることながら、高圧が掛かっているはずであり、11キロのそれを引き上げるに少人数で出来るものでは無い。
組織ぐるみの大掛かりな犯行と考えるのが妥当だ。引き上げる為に海上ならクレーン船、陸上からでも大きな重機を利用しなければこれだけの作業は捗らないだろう。が、その一方で目立つ筈である。特に、カマウ省は、海上でカンボジアと国境を接しており、国境警備隊の目も常時光っている筈で、その網の目をかいくぐっての大胆は盗難事件は一般的には考えにくい。恐らく、カマウ及びその自治体関係者が今回の事件に大きく関与していると見てよい、きっとケーブルの送り先はカンボジア経由で中国。そんなところだろう。
5月16日(水) やっぱり明日の寿司より今日のラーメンかぁ?
* ベトナム観光協会のファム・トウ副会長に拠るとベトナムへの外国人観光客の急増により、ホテルの部屋は不足しがちとなり、結果的に宿泊料金の値上げに繋がっているという。これが長引けばベトナムにとって大変、大きな問題に発展するだろうと懸念を示した。
2007年第一四半期には、150万人の外国人観光客がベトナムに訪れ、対前年同期の伸び率は12.5%に達した。4月だけの数字でも、その数は35万人に上り、対前月比で96.8%増となったと同協会。始め、このニュースは歓迎すべきもの捉えられ、ハノイのメリアホテルなどはハイシーズンの10月から2月までの平均部屋稼働率は約95%台を推移した。ところが、オフシーズンの雨季に入った5月・6月も、稼働率は70%以上を維持しているというのだ。
観光客の増加は各ホテルの値上げに結びつくことになった。ホーチミン市内の多くのホテルの宿泊料金が3割増しとしたものの、部屋不足は未だ解消には至っていない。この問題は、現在、多くの旅行業者に波紋を投げかけており、お客を逃すリスクに立たされているのである。ベンタンツーリスト社ツアーセンター所長レ・ホアン・イエンさんは、ホーチミン市内の高額ホテル代金のせいで彼女の会社が受けていた300名の外国人観光客団体が最近、取り消しになったという。その団体はある5つ星ホテルに予約を入れていたのだが、急に一部屋あたり100米ドルの値上げを通告してきた。何度か交渉を試みたものの、結局ホテル側は10%の割引に応じたのみだった。
その価格を外国側旅行会社へ通知したものの、この金額では客の理解を得られないと拒否してきたとイエン所長。
アジアトレイル社でもベンタンツーリスト社と同じような境遇に身を置かされた。予約しておいたハノイのホテルが契約をしたにも拘わらず二倍の部屋代を提示してきたからである。契約部屋代は年間のもので、既にそれは外国の提携先旅行会社へも通知済みのものだ。
このままではどうして良いのか判らないと同社社長ブイ・ヴィエト・トウイ・テイエンさんは頭を抱えている。最近、ビザ・インターナショナル・アジア・パシフィックとパシフィックアジア観光協会が合同で行ったアンケート調査では、外国人がベトナムを旅行目的地に選ぶ要素は“割安”だからとの結果を見せている。
しかし、現状、ホーチミン市内の部屋代の平均がUS65~100$の間で推移している一方で、タイやインドではUS70~100$なのですと言うのは、フォーカス・アジア・グループ社のパトリック・ガベア市場調査課長。「ベトナムは、この分野で競争力を失いつつあります。仮に今後もホテルの宿泊料金が上がり続けるようになれば、外国人観光客にとってベトナムは魅力的な観光地でなくなるでしょう。」と課長は添えた。早急に、大都市部でのホテル建設を行い、価格の是正に寄与する事が、今、ベトナムに突きつけられた大きな課題なのである。
(辛口寸評)
以前から、しばしばベトナムの話を伺いたいと日本人の方から面会の申し入れがあり、その都度、時間がうまく合えば会ってお話を伺うようにしている。ただ、初対面で相手の事が良く分からないものだから、会うときは相手の宿泊先のホテルに足を運ぶようにしているのだ。これはベトナムで起業したローカル会社として身に付いた癖であり、要するに企業の中身を他人に知られる事を防ぐ為にその分、警戒の度合いが強くなったのである。(尤も、散らかっている社内を余所様に見られたくないという意味合いの方が大きいが、、、。)その反面、筆者個人は人が好きなので、相反しながらも取り敢えず、来る者拒まず去る者追わずのスタンスでいる。それはさて置き、ここ半年ほどの間に訪問先のホテルに変化が現れ始めた話をしよう。
これまでは、訪問先のホテルといえば大体、耳にしたことがあるところばかりだったが、最近は、聞き返さなければならないようなホテル名が多くなってきた。しかも、その所在地は繁華街から相当離れた場所ばかりで以前なら台湾や華僑系の人々しか利用しなかった中華街のホテルとかそんなところにも最近は日本人が泊まるようになって来ているのだ。つまりそれだけ部屋が中心部で取りづらくなって来ているのだろう。部屋代も決して安くはない、以前なら30ドルもあれば泊まれただろう、それらホテルが今では一泊50ドル以上になっている。どうでも好いけど、ここでもベトナム人の合理主義とご都合主義が遺憾なく発揮され始めている。
儲かるとなると、後先を考えずに相手から絞れるだけ絞ろうと考えるのが一般的なベトナム人の思考法ではあるが、もう少し冷静に考えないと亦、ベトナム戦争後、アメリカに勝った後遺症に自惚れ国の運営を誤ったように、同じことを繰り返すことになるだろう。ベトナム株しかりだ。プラクティカルな思考が悪いとは言わないが、競争は国内だけでないことをグローバル化の中、ベトナムは気がつかねばならぬ。困ったものだ。。。
5月17日(木) 不撓不屈の我が人生
* 幾つかの激しい戦争を生き延びて数十年、退役軍人たちはその後、それぞれの人生を築いて今に至る。しかし、彼らの多くは現在も、戦争被害での精神的後遺症や精神疾患に悩まされる毎日を送っているのだ。グエン・ヴァン・チョオンさんは戦争で片足を失ったものの、リポーターのラム・クアン・フイが彼から見つけたものは、チョオンさんの戦争の呪縛からの肉体的自立だった。
カンボジア戦線での重傷を負ったグエン・ヴァン・チョオンさんは、意識が回復する中、死ぬまで家族の世話に頼らなければならないと思った。しかし、片足を地雷で失った50歳の元傷病兵は、現在、中部クアンチ省のドンハ町で、大工の棟梁として独立して仕事を切り盛りしているのだ。
1975年4月の南ベトナム解放後、間もなく1977年にチョオンさんはベトナム初の志願兵として故郷の街を離れ軍の任務に就いた。
チョオンさんは今も戦地へ赴き日の泣き叫んで別れを惜しんだ母の姿を忘れられないという。「私の母は彼女の全ての人生をベトナム戦争で大きなダメージを受けたクアンチ省で過ごしたからでしょうか、従軍する私に降りかかるであろう総ての災難が見えていたのでしょうね。」とチョオンさん。
陸軍に入隊したチョオンさんは虐殺者ポルポトの圧政に苦しむカンボジアを解放する為、カンボジア戦線に配属された。その地で地雷により彼は吹き飛ばされ、足下から溢れ出る血を止めようと、そばにいた戦友がロープで傷周りをきつく縛り、すぐさま森の中の野戦病院に担ぎ込まれた。直ぐに片足除去手術が行われ、1983年まで治療とリハビリを兼ね、ブンタウ省とゲーアン省の病院に入院させられることとなった。無事、退院と共に除隊したチョオンさんは、生まれ故郷のドックドック区ヴィンリン村に戻ったが、出迎えた彼の母親は松葉杖をつき帰ってきた息子の姿を見て大いに泣きはらした。
故郷に帰ってきたチュオンさんは彼の状況を気の毒に思った隣り村の女性と結婚をした。しかし、その幸福な結婚生活も連れ合いの病死で敢えなく終止符を打つことになってしまったのである。「あの当時、全ての希望の光が消え失せてしまい、私自身、生き甲斐を無くし自殺すら考えたものです。」とチョオンさんは当時を振り返る。極度に落ち込んだチュオンさんは、虚ろな日々を鋸・金槌などを入れた道具箱を持ち歩き地雷の不発弾を探し回り、それらを破裂させ死に至らしめようとしたという。しかし、文盲の幼馴染みと再開したお陰で、件の退役軍人はその落ち込みから這い上がった。
ある日、いつものように不発地雷を求めて彷徨っていると幼馴染みが、“危険”って何て書いてあるのかと尋ねてきた。そこで、チョオンさんは、地雷未除去地域に立てかけられていた看板の文字“危険・立入禁止”を改めて読んでみた。すると、何故かしら、今までの自暴自棄がばからしく思えてきて、多分、文盲の幼馴染みの方が彼よりも危険について理解していることに気づいたのだった。性根を入れ替えたチョオンさんは、生きる自信を取り戻し、心配を掛けた彼の両親や友人たちへの感謝に報いる為、何かをしようと考えた。
チュオンさんが、人生の再構築に選んだ仕事は故郷で大工になることだった。町の工房で大工見習いから始めた彼は、やがて直ぐに腕の良い評判の大工になった。そして三年後、故郷に戻った彼は早速、一国一城の主として大工の旗揚げをした。ドックドックの村人たちは彼を帰郷を歓迎し、そして地元で再婚し二人目の妻を得たチョオンさんと喜びを分かち合った。彼の新妻チャン・ティ・ミンさんは、障害を持つ男と一生を共にしようとする娘を心配する両親をかき口説きチョオンさんと夫婦になった。二人の間に強い愛情さえあれば何でもできるとの例えの通り、二人は結婚しやがて息子が授かった。
旧東欧市場の大工仕事や指物業などの需要が急速に落ち込んだ時、多くのベトナム人大工や職人は業界から足を洗った。チョオンさんもこのとき、次は何をして食べて行こうかと長く眠れない夜が続いたという。心機一転、彼は木材に溢れるラオスへ旅行してみることにした。そこで暫く、ビジネスの経験を積むために働いたのだ。1995年、なけなしのお金をありったけ集め、チョオンさんは故郷に戻ると直ぐに家族と共に荷物を纏め、ダンダ町で指物屋を開いた。彼の技術は多くの顧客を呼び込むようになり、業務は成長し今では12人もの家具職人を抱えるほどの身代になった。そして糟糠の妻と結婚した当時には夢にも思えないような生活が営めるようになったのである。
「私はとても幸せです。今日の私の人生は家族に支えられたお陰です。」とチョオンさん。妻と男女二人の子供に恵まれた幸福な人生を自ら勝ち得たチョオンさん。人生どんな時も諦めること無く頑張り続ける尊さをチョオンさんは我々に自らの体験を元に教えてくれた。
(辛口寸評)
筆者のようにベトナム人配偶者を持つ者にとって、しばしばベトナム人の芯の強さ粘り強さに驚嘆させられる。彼らベトナム人にしてみれば私が驚くような出来事は、茶飯事程度にしか感じておらず、そのことが余計に深い感銘と畏敬の念を持つに至る。筆者の年回りは日本で云えば、団塊の世代と団塊ジュニアの丁度、真ん中の高度成長期中盤に当たる。この年代の多くのご同輩がそうであるようにこの世代は、基本的に餓えを知らず、着るものや玩具に至るまで、凡そ子供生活に必要な物資が身の周りに不自由なくあった。この為、一般的に物を修理して使うとか自ら何かを創造する事が苦手でもあるのがこの世代の共通の特徴となっている。尤も、消費が美徳と推奨された頃でもあったのだが、、、。
翻ってベトナム人。外国勢力に侵略された時間が膨大で、如何に“生きる”“生き延びる”かが、日々の重大な関心事であることを余儀なくされてきた人々。近しい者同士のベトナム語で、An Com Chua?「飯食ったか?」という挨拶言葉があるのだが、日本語に意訳すれば「こんにちは」と同じである。何故、「飯食ったか?」が挨拶言葉かと云えば、昔は今日のこの一食を食べられるいう事実が、ベトナム人にとって如何に重要なイベント(関心事)で、この言葉を投げかける相手に対しする最大の気遣いを表したのである。因みに、第二次大戦前の中国の挨拶言葉もベトナムと同様だったらしいが、戦後、毛沢東が挨拶にしては格好が良くないと今日の「胃好暑怐H」に人工的に変えたそうである。
話が逸れたが、そんなベトナム人たちは、限られた時間の中で知恵を絞り、自ら必要なものを作り出す能力に長けている。自宅の電気の配線工事・水道の修理はもとより、大概のDIYが絡む家事仕事は家人でこなしてしまうのだ。勿論、素人作業ゆえ見栄えの点では、劣るものの実用面では“ただ”と言うことを考慮すれば上出来だ。故に他所は知らないが高度成長期中盤に成長した日本人の私とベトナム戦争中に生を受け貧しい中に育ったベト嫁とでは、最初から勝負がついているようなもので、実は嫁さんに頭が上がらないという事をここで書きたかったのである。。。。
5月18日(金) 常に創造 明日への進化
*「昨日 久しぶりにサーカスに出掛け、それを見て僕は泣いてしまいました。」と話してくれたのはハノイ大学学生グエン・ヴァン・ミンくん。
彼を悲しくさせた理由は、客席に数えるほどの観客しかいなかったことに加え、総てのパフォーマンスが前回彼が10年前にサーカスに訪れた時に観たそれと全く変わり映えしていなかったことにあったという。トウェンクアン湖隣りのレーニン広場北側で常設されているサーカスでミンくんが感じたサーカスへの思いは他にも多くの人々が感じていることなのだ。ザンボ高校に通うハ・マイ・フォンさんはサーカスの開演を街ながら、「サーカスに目新しい催し物はないし、何も期待していないわ。それでもここへやってきたのは無料招待券を貰ったから。。。。お金を払ってまで観に来よう何て考えないわ。」と興味無さげに答えてくれた。
フォンさんの同級生もまた、サーカスに興味を示さない。その中の10名に質問をしたところ、9名迄が前回いつサーカスを観に行ったのかを覚えておらず、ヴ・カン・リンさん1名のみが姪を連れ添って最近出掛けたと語ってくれたに過ぎなかった。「私の姪はフランスから戻ったばかりで、私にサーカスへ連れて行くようせがんだのです。姪にサーカスで何が一番好きか尋ねたところ、彼女は愉快なピエロと答えました。サーカスが終わってそこを出て直ぐに私はその内容を忘れてしまいました。
サーカスなんて子供だけのものなのでしょうね。」とフォンさん。
子供たちは長い間、サーカスの最も熱狂的で忠実な観客だったが、しかし、今日ではそれも遠い昔の夢物語になりつつある。2005年6月に小さな従姉妹にねだられてサーカスへ行ったものの、退屈になった彼女は途中で自宅へ帰るかウォーターパークに行こうと駄々をこねだした。
従姉妹は、「前回3年前にサーカスに来て、今度が2回目。二人のピエロがステージをところ狭しと走り回り面白いパフォーマンスを行うの。そうねピエロの相方はいつも太っちょ。それと犬のクラス。。」と退屈そうに言ったのだ。そう言えば彼女の説明は私が16年前、一年生の頃に観たサーカスの出し物と全く同じであることに気がついた。
現在、サーカスの下火は特にその栄光の日を知る人々にとって哀しい思いにさせる。「サーカスの現状を聞くにつけ、本当に悲しくなりますよ。」と言うのは今年72歳のグエン・タンさん。「昔はサーカスが来ると言うと多くの人々が競って入場券を買い求め、団体になってサーカスに人々は詰めかけたものです。」とタンさんは当時を振り返る。サーカスファンでその熱烈な信者であるタンさん1950・60年代の華やかりし頃のサーカスが如何に大衆を魅了し、また70・80年に掛けては多くのサーカス一座が、東欧や旧ソ連にパフォーマンスの武者修行に出掛け、ベトナムサーカスの黄金期を築き、それらは総てベトナム人にとって新鮮で珍しかったのですと語ってくれた。
現在、サーカスには総ての出し物が揃っている。しかし、ベトナムの経済力が少しずつ好転して行くに連れ、人々は様々な娯楽を追求するようになる。サーカスもその競争にうち勝つには、より規模を大きくし、そして印象的なパフォーマンスで観客を魅了する事が必要なのだ。サーカスが観客を惹き付けるには、団員一人一人の才能の高さもさることながら、常に新しい演目をこなす為の技量を磨き続けなければならないのだ。危険な演目に身を曝すリスクを一番良く知る者は、団員本人に帰結するものの、労働災害に対する補償が低く、高いリスクを冒してまで難度の高い技を体得しようとする意識が生じて来ないのである。
ホーチミン市のサーカス一座のある団員は、乏しい給料では生活を立てて行けないと訴える。一座は興業を週に一度か二度行っているが、その入場料は大人4万ドン(US2.50$)、子供2万ドン(US1.25$)で他の興業娯楽と比べると著しく安く押さえられているのだ。公演時に集まる観客は1300名収容のところにせいぜい300~400名程度であり、一座は慢性的な赤字に苦しめられているのだという。ベトナムのサーカスの歴史は50年ほどしかないものの、既にその役目を終えつつあるように見える。実際、観客の多くは映画や演劇・コンサートといった違った娯楽に足を運ぶようになり、このまま行けばついには人々の古き良き想い出の中に埋没し絶滅の道を辿ることになるだろう。
(辛口寸評)
サーカス、、、そういえば最後にサーカスを観に行ったのはいつだったろう。多分、三十有余年前で、僕は未だ小学生だった。サーカスの名前は確か、木下大サーカス。空中ブランコ・綱渡り・猛獣使い・球体の籠の中を猛烈な音と勢いで走り飛ばすバイクの技、数々の妙技に魅了された。しかし、僕の人生に於いてサーカスは後にも先にもこの一度でしかない。テレビをつければ、簡単に世界の有名なサーカスをお茶の間で目の当たりにすることが出来たし、記事でも指摘されていたように、概ね演目はどこのサーカスも似たり寄ったりで、一度観ればそれで事足りてしまうものばかりで構成されている。これでは観客離れは致し方がないというものだ。
他に新しい形態の娯楽が生まれ、その為にサーカスの観客が失われたと考えるのは早計だ。確かに新しい形態の娯楽が生まれたのは事実だろうが、コンサートにしろ、演劇にしろ、映画にしても、観客を少しでも多く動員させる為に常に新しい演目を生み出そうと日頃から生産活動に努力しているのである。だからこそ、客は倦むことなくそれらを観に足を運ぶわけなのだ。ところが、サーカスの場合、総てでは無いにしろ多くは、旧態依然の演目をやりつづけ、それだけで終始してきた感は否めない。進化をするための努力を怠って来たと言われても仕方がない。
実際、団員に新しい危険なパフォーマンスを次から次と習得させるには時間が掛かるのは否定しない。が、顧客を喜ばせるということは、サーカスにとって、パフォーマンスの種類を殖やす事だけでもあるまい。サーカスがサーカスに固執することなく必要に応じて様々な特技を持ったタレントを集め、常に進化させることも可能では無いのだろうか?それをせずに責任転嫁ばかりでは、先すぼみになるのは必定。この事は、サーカスに限らずあらゆる業種にも同じ事が当てはまるものだ。
5月19日(土) 着々と布石打つスクリヴェン
* ロンドンに拠点を置くヴィナキャピタル社は火曜日、同社がベトナム不動産市場への投資の足がかりとしてホーチミン市のオムニサイゴンホテルの70%に当たる株式を2100万米ドルで手に入れた事を公式に発表した。ヴィナキャピタルのウェブサイトに因れば、ロンドン証券市場上場のヴィナランド社とベトナム機会ファンド社の二つのファンドは順次、同ホテルの株式の内52.5%と17.5%を取得したという。残りに株式については今もホーチミン市在住ベトナムユース社が所有しているものの、一体、誰が7割もの同ホテル株式をヴィナキャピタルに売却したのかは不明。
オムニサイゴンホテルの操業開始は1992年で、タンソンニャット国際空港と市中心部を結ぶグエンヴァンチョイ通りに面し、248部屋とアパートを有する同ホテルは最近のベトナム旅行ブームから高い客室稼働率を維持し経営内容は悪くない。昨年8月に、先の二つのファンドは4300万米ドルを掛けて、首都で最も高い利益率を誇るヒルトン・オペラ・ハノイの株式70%を取得して周囲を驚かせた。加えて、ヴィナキャピタル社は、創業100有余年の歴史を持つ、ベトナム最高ランクに君臨するソフテル・メトロポール・ハノイの株式29%を保有している。
ヴィナキャピタルのファンドマネージャーは、この他に現在成長著しいベトナムのインフラ事業への投資を立ち上げ、今月、それに対応した初回ファンドの募集で2億米ドル集めようとしている。また、ベトナム社会資本有限会社(VIL社)は、ロンドン証券取引所のアールタナティブ投資市場(AIM)での資金調達を目論んでいるという。
同社は、重要な経済地方の基盤資産のポートフォリオを通じベトナム社会資本投資事業の枠組み作りに力を入れ、成長目覚ましい資産運営事業への投資に特化したベトナム初の基金となるだろう。VIL社が目指す主要産業項目は、エネルギー・運輸・水道・通信への4つの投資事業だという。これらの投資への運用率を同社では2割を見込んでおり、既にある程度の目星はつけているとのことだ。
最近、ヴィナキャピタルの子会社オンシャイン投資有限会社はサイタン国際投資観光合資会社と共に、中部クワンナム省での160万米ドルを掛けた高級リゾート開発に専念している。世界で牽引的なホテル運営管理を行うエーサーグループの5つ星ホテルのブランド“ソフィテル”がホイアン・ロイヤル・ベイリゾートの経営委託を引き受ける事になっている。この事業は間もなく始まり、工期は30ヶ月で完成予定としている。2003年に設立されたヴィナキャピタル社は現在3つのファンドを管理下に置き、ロンドン証券取引所に上場しているベトナム機会ファンド社の8億米ドル、ヴィナランド社の6億米ドル。併せて総額14億米ドルを運用中で、この他にドラゴン・ファンド・ヴィナキャピタル社が5000万米ドルを情報通信技術分野への投資を行っている。
(辛口寸評)
ヴィナキャピタルの若き総帥スクリヴェンは、ベトナム証券投資において立志伝中の人物で在住外国人の中で最も有名で影響力のある男であるのは誰もが評価するところだ。彼が初めてベトナムに足を踏み入れたとき、この国は65%のインフレと僅か50億米ドルの外国輸出額しかなかった。しかし、2002年以来2010年に至るまで毎年経済成長率は8%台前後と驚異的な伸びを予測されるほどになっている。彼は保険・建設・保険・天然資源・耐久消費財関連企業に興味を持っており、彼は当時2000万米ドルの企業資産価値しかなかったREE株の24%を1997年に買収したが、同社が2000年7月に上場を果たしてから今日では7倍強の1億5000万米ドルにまで資産価値を高めているまでに至った。
2億6000万米ドルを運用するベトナム成長ファンド有限会社と1億米ドルを運用するベトナム・ドラゴン・ファンドを管理するドラゴン・キャピタル曰く、現行、同社関連ファンドだけでベトナム株式全体の12%をコントロールしているとのこと。
1985年 スクリヴェンはイギリス西南部のエクセター大学を卒業すると、香港のサン・フン・カイ社とシティーコープ投資銀行ロンドン支店と香港支店にそれぞれファンドマネージャーとして18年に渡り勤務した。その後、ハノイで2年間、ベトナム語を習得して、ベトナム商業都市ホーチミン市に拠点を構えた。1994年に友人のジョン・シュリンプトンと共にドラゴン・キャピタルを設立。
現在、同社は60名のスタッフを雇用し、その内の多くが企業分析を担っている。1997年、ベトナムを襲ったアジア通貨危機を同業者が撤退して行くのを後目によく耐え、ベトナムでの強固な基盤を築き上げた。
徒手空拳でベトナムにやってきて、常に将来を見据えた戦略を立案し、そして実行に移してきたスクリヴェン。その手法はまるで、将棋の名人が点す詰め将棋の如く、一手一手ブレが無く狂いもない。証券投資で富と名声を得た彼は、今度はその二つを武器にして新たな投資機会としてインフラを主軸とした不動産関連に照準を合わせたようだ。
いよいよ手の届かぬところへ駈けあがってしまうな~。差は益々開くばかりなり。。。
以上
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