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2007/09/30

「巨星」逝く!鬼塚喜八郎氏のご冥福を心からお祈り申し上げます!

また、人生の大先輩が逝かれた。この訃報を受け自らの家族の訃報と同じように悲しく、はからずも涙が溢れ出た。
自らを取りまいた世代が、とりわけ自らには巨星のような先達が一人またひとり召されていく。歳月がそれだけ経ったのだ。
初めて、神戸で、鬼塚喜八郎氏にお目にかかってから、思えば既に30年を超える時間が経過していた。まさに青二才に対しても「実に、気さくに、優しく」接して頂けた。

大親父の世代だった。酒席で興が乗ると、流行し始めたカラオケで得意の「正調・武田節」を大きな声で力強く唄われた。
とりわけ、「何よりも『人は石垣、人は城』が大事なんだ」と、いつも歌の後に必ず口にされた。お陰で、部外者の多くが「正調・武田節」のファンになった。いや、鬼塚喜八郎氏が口にされる「正調・武田節」のファンになった。
三社合併で「アシックス」を創業された際、社名は「健康な精神は健康な身体に宿る」という言葉に由来すると、部外者にも分かるよう丁寧に説明下さった。
この頃、三社合併で得たエネルギーを一つにまとめる上で、まさに「人は石垣、人は城」だったのではないかと思量申し上げておりました。

時には、「私は、アベベに靴を履かせたんだ」と、さり気なく話をされた。
「そうですか!」スポーツシューズ(とりわけマラソンシューズ)の開発で身体動態科学の視点を展開される上からも大きな要素だったろうと、改めて思い致す次第です。

ある時、どうしても面談しなければならない事情が生じ、ご連絡申し上げたところ、ヨーロッパ出張中だとのこと、仕方がないか!?と諦めかけていた。
夜中に携帯電話が鳴り「鬼塚ですが、お目にかかるのは、いつがよろしいかな?」といういつもの張りのある声が響いたものだった。早速日時を調整し面談日を確定できた。
その時は、オリンピックに懸かる件で、当時のサラマンチ会長とスイスで話会う必要があったとのことで、鬼塚喜八郎氏は「私の事を、所詮は靴屋のオヤジだとしか見ない人も多い、それでもいい。人は靴がなければ生きて行けない。何よりもスポーツで今日のような成績を記録できるわけがない」と、よく口にされた。
オリンピックに挑戦する世界のアスリートを下支えされる挑戦者であり庇護者であるともいえた。サラマンチ会長とも、世界のスポーツ用品界の重鎮としての立場、あるいは一人の人間鬼塚喜八郎として、よい交流を重ねておられた。常日頃から「人に国境はない」と「世界市場を視野に」入れた、スケールの大きな国際ビジネスマンでもあった。

部外者である青二才の若造は、目をかけ心配りを頂戴し、人生観を始め、ビジネスの要諦など、実に数多くの事を学ばせて頂くことができた。
過日も、フィンランド滞在中に寸暇を惜しんで毛筆で認められたお便りを頂戴しました。このお手紙が、鬼塚喜八郎氏から最後に頂戴した文書と言葉になりました。大切にさせて頂きます。

様々な思いと感謝を込め、心から、ご冥福をお祈り申し上げます。
「安らかにお眠り下さい」。

引用開始→ アベベに靴をはかせたアシックス会長・鬼塚喜八郎氏死去  (讀賣On Line)

国内最大手のスポーツ用品メーカーを一代で築き上げたアシックス会長、鬼塚喜八郎氏(おにつか・きはちろう)が29日、心不全で死去した。89歳だった。告別式は近親者で済ます。後日、社葬を開く。

旧制鳥取一中(現鳥取県立鳥取西高校)を卒業し、1949年にスポーツ靴製造の鬼塚商会(後のオニツカ)を神戸市で創業。タコの吸盤にヒントを得て靴底を吸盤状にした国産初のバスケットシューズを商品化したのを始め、マラソン、体操、バレーボールなど世界の一流選手に製品を提供し、「オニツカタイガー」を国際ブランドに育てた。

61年、「はだしの王者」と呼ばれたマラソンのアベベ選手にシューズを履かせたことで知られる。毎日マラソンで来日したアベベ選手を「道路にガラス片が落ちているかも」と説得し、アベベ選手は鬼塚氏が提供した靴で見事優勝した。

77年にオニツカが同業2社と合併してアシックスが誕生すると初代社長に就き、92年から会長。2005年3月期から売上高でミズノを抜き、国内首位となっている。
(2007年9月30日3時3分  読売新聞)
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引用開始→ 鬼塚喜八郎氏が死去 アシックスを創業 89歳  (神戸新聞WEB NEWS)
2007/09/30

大手スポーツ用品メーカー・アシックス(神戸市中央区)の創業者で、神戸経済の発展やスポーツ振興に尽力した鬼塚喜八郎(おにつか・きはちろう)氏が二十九日午前十一時五十三分、多臓器不全のため神戸市内の病院で死去した。八十九歳。鳥取市出身。葬儀・告別式は親族のみで行う。アシックスが社葬を計画しているが、日時、場所などは未定。

旧制鳥取第一中学校(現鳥取県立鳥取西高校)を卒業後、兵役を経て一九四九年、神戸に靴メーカーの「鬼塚商会(後のオニツカ)」を設立。トップ選手に商品を提供しPRと技術力向上を両立する手法で、「オニツカタイガー」を世界有数のスポーツ靴ブランドに育て上げた。

七四年には東証一部上場。七七年にスポーツ衣料メーカー二社と合併してアシックスを設立し、初代社長に就任。九二年に代表取締役会長に就き、九五年から代表権のない取締役会長を務めた。

本業の傍らスポーツ振興などにも貢献。兵庫県体育協会副会長や県バスケットボール協会名誉会長などスポーツ関連団体の役員を数多く務めた。

地元財界では八五年から九四年まで神戸商工会議所副会頭として、財団法人神戸ファッション協会の設立に尽力した。二〇〇二年十月から〇三年四月まで神戸新聞文化面に「わが心の自叙伝」を連載した。
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引用開始→ 町工場を世界企業に 起業家草分け、鬼塚喜八郎氏死去  (神戸新聞WEB NEWS)
2007/09/30

00665963神戸・元町のJR高架下を歩く鬼塚喜八郎さん(中央)。ともに神戸経済の発展を支えた田崎俊作・田崎真珠社長(右)、太田俊郎ノーリツ名誉会長(左)と=2007年2月、神戸市中央区元町高架通

二十九日亡くなったアシックス会長の鬼塚喜八郎さんは、戦後日本の起業家の草分け的存在だった。社会貢献にも汗を流した生涯は、良き経済人のモデルでもあった。

鳥取出身。終戦後、戦友の恩人を支えるため神戸に転居し、靴作りを始めた。技術的に難しく大手が扱わないバスケットボール用靴の開発が「オニツカタイガー」の原点。一つの目標に経営資源のすべてを注ぎ込む「キリモミ経営」を旗印に、町工場を世界有数のスポーツ用品メーカーに育て上げた。

地元経済界では神戸商工会議所副会頭を九年間務めた後、神戸ファッション協会会長に就任。阪神・淡路大震災で影響を受けたファッション産業の再建に尽くした。

神戸経済界の発展を一緒に支えた田崎俊作・田崎真珠社長、太田敏郎・ノーリツ名誉会長(元神戸商工会議所副会頭)とは創業者仲間。太田名誉会長は「鬼塚さんは完全燃焼の人生を全うした。会社の苦しいときも明るく、元気いっぱいの姿勢で乗り切られた。来年はオリンピックイヤーだが、天国からもアスリートたちを応援しているはず」と冥福を祈った。

また、元神戸商議所副会頭で柏井紙業名誉会長の柏井健一氏は「一代でこれほどのスポーツ企業をつくった業績は誰にもまねができない。見事な一生だった」と悼んだ。

鬼塚さんは自他ともに認める世話好きで、社会貢献にも尽力。晩年は代表権を持たない創業者会長となり、スポーツ関連団体などの役職に就いた。九月中旬、イチロー選手ら著名スポーツ人の靴などを集めた企業博物館構想を発表したばかり。

鬼塚さんは二十八日夜まで「北京五輪に行きたい」と話していたが、二十九日朝に容態が急変したという。

井戸敏三兵庫県知事は「昨年の兵庫国体で開会のあいさつをしていただいた。その鬼塚さんが、秋田国体の開会式の日に逝去されたのは残念だが、鬼塚さんらしいなという感がある」と話した。
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今年は、政界でお世話になった、(故)宮沢喜一元首相が逝かれた。そして、ビジネスの面で、様々なお世話を頂戴した鬼塚喜八郎氏が逝かれることになった。お二方とも確か同年の士であった。共通して軽妙洒脱な点をお持ちだったが、こと政治やご自身の事業についての見識知見は見事に達観された重鎮であった。加齢によるものとはいえ、日本は、本当に惜しい余人を以て代え難い貴重な人材を失っている。

<<追加引用紹介:2007/09/30/17:10>>

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引用開始→ 鬼塚さん死去 兵庫国体開催に貢献  (神戸新聞WEB NEWS)
2007/09/30

00666446自社製のスポーツシューズを持って元気に話すアシックスの鬼塚喜八郎会長=2007年2月14日、神戸市中央区港島中町7、アシックス本社(撮影・宮路博志)
29日、死去したアシックスの鬼塚喜八郎会長は、スポーツ用品メーカーの創業者として兵庫のスポーツ界発展に大きな足跡を残した。1988年から兵庫県体育協会の副会長を務め、昨年の「のじぎく兵庫国体」では副団長として選手団の士気を鼓舞した。また、県バスケットボール協会会長として競技の普及、振興にも尽力。県スポーツ界の功労者の悲報に、県内関係者から惜別の声が相次いだ。

県体協副会長だった鬼塚氏は昨年の国体開会式で選手団とともに入場行進。閉会式では閉会宣言の大役を担い、力強く大会を締めくくった。

県体協の武田政義元副会長は「兵庫国体の(開催)内定通知も決定通知も(日本体協に)一緒にもらいにいった。秋田国体も一緒に行きたいと言っていたが…」と無念そう。吉井和明専務理事は「2週間前にお会いし『秋田国体はよう行かんが頑張ってくれよ』と言われたばかり」と肩を落とした。

また、バスケットボールでは2005年、日本協会会長に就任。昨年8月の世界選手権では組織委員会会長を務め、国際大会開催に貢献した。県協会前会長の小西彬夫さんは「思い出は尽きない。世界選手権で無理されたんじゃないか。世界選手権が終わって喜んでおられた姿が印象深い」と故人をしのんだ。

鬼塚氏と同じ鳥取県出身で、甲子園高バスケットボール部前監督の霜村武彦さんは「30年連続インターハイ出場で県協会から表彰されたとき、鬼塚会長(当時)自ら表彰してくださって感激した」と思い出を語った。

アシックスのグランドマイスターでマラソンシューズなどを製造する三村仁司さんは8月中旬、病床の鬼塚氏から電話を受けた。「『君はアシックスの誇り。永久社員だから頑張ってくれ』と言われていたんだが…」と声を詰まらせた。
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コメント

@niftyトップページ「旬の話題ブログ」コーナーにて、
9/30に本ページの記事を紹介させて頂きました。
紹介記事については、「旬の話題ブログ」バックナンバーで
半年間、ご覧いただけます。

鬼塚喜八郎さんのこと、このブログで初めて知りました。
会社の合併など大変な時期を経て、1代で会社をここまで大きくされた、すばらしい方ですね。
心から御冥福をお祈り申し上げたいと思います。

「人は石垣、人は城」
とても素敵な言葉ですね!多くの気づきをありがとうございます。

今後も素敵な記事を楽しみにしておりますので、
引き続き@niftyをご愛顧の程、よろしくお願い致します。
ありがとうございました。

        @nifty「旬の話題ブログ」スタッフ

投稿: 「旬の話題ブログ」スタッフ | 2007/10/01 14:57

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