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2007/10/31

牧田清君(故人)を偲ぶ!「50ミリ標準レンズ」1本で、対象の極限に迫るのが写真観だった!

故・牧田清君は、大切な友人だった。
初めて出会ったときに感じた一廉のエネルギーを、彼は生涯捨てる事がなかった。
非妥協、対象に極限まで迫る突撃精神」。
それは何よりも、故・牧田清を支える基盤であった。

とりわけ、被差別者への視線には強く熱いモノがあった。故・牧田清君は純粋だった。
本当にイイ歳になっても、とても純粋でたいへん無垢な青年(のまま)だった。

長い時間をかけて大学まで辿り着き、ボックスに居座り授業に出る事は、ほとんどなかった。
字は巧くないと言い、アジビラのガリ(版)切りよりも、ハンドマイクでアジりに出かけるのが何よりも得意だった。
巨大サイズのタテカン作りには一家言持っていた。
それらの点では心底というか実に頑固者だった。
学舎(建物)の封鎖には、芸術性が必要だと、いつの間にかアジテーション演説とタテカン作りの職人技が芸術家の表現に変じもした。味わい深い不思議な人物だった。
よく、酒を飲んだ。酒飲みでもあった。
(故)牧田清君は、酒を飲むと徐々に呂律が回らなくなるのが特徴だった。
それを狭い学内で、(決定的に対立し合う近親憎悪の)強烈な他セクト信奉者から揶揄され真似され、からかわれていた。
それでも、(故)牧田清君は、挫けず、大きく寛い意味での統一戦線を保持しようと、感情を爆発させることなく自らを抑制していた。最終的には、我々とも合致しなかった。
当時、他大学では決定的な対立に至っていたが、既に全国的には、峠を越えた運動を担い組織できる学生数が圧倒的に少数のキャンパス内の環境では、セクト対立している余裕もヒマもなかった。

遅れてきた運動論による学費値上げ阻止闘争は、決定的な展開局面で敗北し、その後に目標を失い、(故)牧田清君はキャンパスを去った(と聞いた)。

長い年月が過ぎ、本当に長い年月だった。20年は越えていたように思う。
この間に、(故)牧田清君は、宗旨替えをしたのか「写真家」を目指し、専門学校で学び直し、少しは高名な報道写真家に転じていたらしい。
またぞろ「コラコラコラム」の一派に身を寄せる者達と少しは近い、報道という商売へ転換していたらしい。

ある時、ある日、共通の友人から、(故)牧田清君が「写真展」を開くと報せが届き、その日に会場へ駆けつけた。
そこには、いつもの(故)牧田清君が、変らぬ笑顔で「久しぶりでんなぁ~、元気にしたはりましたぁ~」と声をかけてきた。
「オォ、オマエ変わらへんのぉ~、どないやねん」と言葉を返した記憶がある。
「いやぁ、まぁ、ボチボチですわ。まぁ、ゆっくり見てやぁ」と(故)牧田清君は商売人(アキンド)みたいな返事をよこした。
その時の写真展の作品は、「韓国の労働運動・学生運動で囚人となった労働者や学生の母親」の日々の姿を捉えたモノだった。
韓国の労働・学生運動が燃え広がったのは、全斗煥大統領の時代である。南部の光州市で繰り広げられた激しい街頭闘争を50ミリ標準レンズで捉えていた。
ソウルで、釜山で押さえた写真もたくさん並べられていた。
そのいずれもが、逮捕拘禁された息子達を嘆く母親達の表情と姿を見事に捉えきっていた。
(故)牧田清君の真骨頂ともいうべく時代の現実を切り取り見せた貴重な作品だった。

その日、その会場で、「在日コリアン」の知人とも出会えた。
お互い仕事上の取引もありよく知っていたのに、その人物が「在日コリアン」だったことは全く知らなかった。
「ありゃぁ~、どうして此処へ?」。「いやぁ、(故)牧田は弟分みたいでなぁ友達なんや!」。「へぇ~、そうですか?」。「アンタは、なんで?」。「ボクは、(故)牧田さんと長い友人なんです。彼の韓国行きも応援してます」。「へぇ~、そうかいな、ほんならアンタ『在日コリアン』やったんかぁ、そうかいな、まぁ、よろしゅう頼むワ」。こんな調子だった。
だから、(故)牧田清君と共通の知り合いであることも知らなかった。不思議な出会いだった。改めて「世の中は広いが狭い」の見本のような経験だった。
(故)牧田清君は、「まぁ、仲良ぉ、しましょうなぁ」と、横でヘラヘラ笑っていた。

(故)牧田清君に、「これだけ激しい写真撮っとたら、韓国への入国制限されるやろぉ?」と尋ねた。
「そうですねん、入っても強烈なマークされるんですわ」と答えが戻ってきた。
「それより、オマエが(日本の)旅券とって、よう巧いこと韓国の入国査証(VISA)もろて出入りできるなぁ、ナンゾこれまでの事(身分)誤魔化してんのんかぁ?」と遠慮会釈もなく聞き込んだところ、
(故)牧田清君は「ワシ、ビビリやったさかい、(日本の学生運動で)捕まってませんやろ、そやさかい関係オマセンね」との答えは自信に満ちていた。
「そうか、オマエはパクられてブチ込まれた事なかったなぁ~!救対のリストには載らんかったなぁ」で、この会話は幕にした。

(故)牧田清君は、日本で、街頭闘争の先頭に立つ事はなかったが、街頭闘争の現場は踏んできた、街頭闘争は何度も経験を踏み鍛えられている。
従って、韓国で激しい街頭闘争(もう殆ど市街戦)を50ミリ標準レンズ1本で、自ら飛び込み対象に迫る行動勘を持つから、現場を切り取り冴えわたる写真を撮ることができるのだろう。
写真展で見せたドキュメントは、そのいずれもが「激しさ」「暴力」「厳しさ」「悲しみ」「嗚咽」「苦しさ」「抵抗」「人」「横顔」「優しさ」など様々な表情を切り取り、底に流れる「情」を描き見せていた。

その時、(故)牧田清君は「ワシなぁ、ソウルの梨花女子大へ『語学留学』してますね」とトボケタことを実にサラっと言い抜けていた。
「オマエ、梨花女子大は、名前のとおり女子大やろが!」と言い返すと、
「そうですねん、間違いオマヘン、正真正銘の女子大です。ホンデも、『語学留学』は男でも受け入れてくれますねん」と平気な顔でシャアシャアと言い返してきた。
大学時代の(故)牧田清君なら、恥ずかしそうな顔をして俯いてしまうのが、それを聞いて、
そうか、コイツ、本物(ホンマモン)になろとしとるんやなぁ!」と改めて強いインパクトを受けた記憶がある。

対象に迫るには、自らが対象の言葉(言語)で迫らなければ、迫りきれない。
いつもいつも、ベトナムで感じてきた事、今も感じ続けることだった。

そう言えば、故・橋田信介さんは、ベトナム語は全く出来なかったのに、ハノイに長期滞在し取材していたし、タイ語など、ほとんどできなかったのにバンコクで過ごしていたなぁ。もっと言えば、アラビア語など「ちんぷんかんぷん」だったくせに、イラクを所狭しと駆け回り、凶弾に倒されてしまった。

しかし、その時、(故)牧田清君は、違った。
自ら、ハングルを学び、自らの「目と口と耳で、手と足で」対象に迫り、対象との対話を狙っていたようだ。
そういえば「梨花女子大へ『語学留学』してますねん」と言った時、それなりに自信を持っていた。

そんな、故・牧田清君だった。
2006年11月1日に逝去したらしい。
その報せを耳にしたのは、大学の頃、狭いボックスでアジビラのガリ(版)切りをしたり、巨大タテカン作りに忙しかった一人の仲間との電話であった。
しかし、それは、牧田清君が故人となって既に7ヶ月が経過していた。

九州に住む、友人に電話したとき、「ところで、牧田君が亡くなった事、知ってますか」ときた。「知らんでぇ~、そんな話。いつのこっちゃ?」。「ボクも、よぉ、ワカランのですけど、去年の年末に、築紫哲也さんのニュースで、『今年亡くなった人たち』とかで、牧田君の名前と彼の顔写真が画面に出たから、覚えているんですけど」。「ナンデ、今まで言わんかったんや!ヒドイやないかぇ」。「えっぇっ~!?、でも、牧田君が暮らしてた場所は大阪でしょう。連絡なかったんですか?」。「無かった!しゃぁないなぁ、Yさんに電話して確認するワ」。

数年前まで、学生の頃のまま付き合いを重ねていた、大切な仲間のYさんにも確認の意味で報せたが「知らなかった」。この点が、心残りでならない。

それから "てんやわんや" の大騒ぎになった。結局は「インターネット」で確認する羽目になった。確認した時は、本当にショックだった。残念だった、(故)牧田清君の名誉について、一時代を共にした友人として讃えてやることができなかった。いまも悔しい思いで一杯だ。

故・牧田清君が、その人生の中で大切な大切な「先輩」と慕い続けたYさんの手元には、彼が使い続けたのと同じ、故・牧田清君がプレゼントした「50ミリ標準レンズをつけたミノルタ」が今も置いてある。

受信メール:始まり→ 彼が使っていたカメラと同じものを持っています。アクセサリーは50ミリの標準レンズだけ。彼が私にと持ってきたものです。彼は最後までモノクロ、50ミリで表現をしました。
一人で追悼をして、(妻も涙を流して思い出を語りました)久しぶりに飲みすぎました。

数年前に、妻と娘2人を同伴して玉造で会ったのが最後です。
忘れていた事をいろいろと思い出しました。
2006年4月に脳梗塞で倒れ、闘病していたが11月1日肺炎で死亡との事です。

住之江に住んでいたと思っていましたが、郷里の町となっています。ここ数年の間の生活は不明です。私は脳梗塞から生還しましたが、脳梗塞で倒れた場合には連絡が不十分なことが多いようです。彼は私の弟と馬があいました。もういちど追悼飲み会をしておきます。

心寂しい思いですが、生き残っている自分に感謝です。
また学生を楽しくやっているようですね。前向きの人生うらやましく思っています。
Nさんにもよろしくとお伝えください。今年はバッハのカンタータなど5回のコンサートをしました。 ←終わり:受信メール

改めて、6月にそれを手にして、互いにしんみりしてしまった。なぜかとても悲しかった。

2006年11月1日牧田清君逝去。
また、酒飲み過ぎたんやろぉ!しゃぁないヤッちゃのぉ、ホンマに

元の友人たちに呼び掛け、改めて、故・牧田清君を偲びたいと考えている。

牧田清よ、「天国では、笑えよなぁ~!」。「天国では、底抜けに、笑ろてくれよなぁ!」。
これが、(故)牧田清を送る言葉やでぇ~

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