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2008/03/30

ベトナムの空、ハノイは曇っているか、晴れているか!?

ハノイは、経済発展した成果を確認し体験しようという人たちで沸いている。
土曜の夜、旧市街を構成する中心のHang Dao通りは「夜市」が設えられ、格別の賑わいぶりである。
晴れやかな表情で、家族を満載したバイクで押し寄せ、豊かになったベトナムを自ら確認しようと「夜市」での買い物を楽しむ姿が微笑ましくもある。

少なくとも15年前、1993年の頃に「現在の繁華なハノイ」はなかった。ハッキリ言い切る事ができる。
人の表情にベトナム特有の「微笑み」はあっても、「(心からの自信に溢れた)微笑み」はなかった。これも断言できる。

旧市街のミニホテルというかブティックホテルというか、そこかしこに開業した家族経営の小振りなホテル(はやく言えば旅館)には、ヨーロッパとりわけフランスからやって来た観光客で溢れている。
彼らは、決して団体行動をとらないから、家族経営のミニホテルでゆっくり過ごすのだ。
滞在中のホテルも、日本人は自分一人だけだ。
フランス語が飛び交っている。
部屋の造りも、ほぼ、パリの同種のホテルと同じ構造だ。

ベトナムは、ここまで来るのに大きな回り道を連続して通過した。
様々なテーマについて、暇な時間を持て余すくらいなら、少し振り返っておきたい。

ベトナムが1986年にドイモイ(刷新)政策へ転換して、既に20年が経過した。
最初の10年はヴォ・バン・キエット首相が担当し、次の10年はファン・バン・カイ首相が担当した。それぞれ10年担当した事になる。
その流れから言えば、現在のグェン・タン・ズン首相はドイモイの3期目を担当しているワケである。

旧弊な社会主義政策を捨て、新思考による社会主義とでもいうべきかドイモイ(刷新)政策へ転換したベトナムは社会主義への過程という思考を完全に放棄せず、市場経済により国の経済基盤を構築しようと取り組み邁進している。

ドイモイ(刷新)政策により何が大きく変化したのか?
簡単に言えば、ベトナムが自国の経済を国際市場へ位置づけ、国際市場における様々な経済要素を担う政策へ転換した点といえる。
国際市場における様々な経済要素とは、乱暴な言い方をすれば、貿易により各国との協力補完関係を確立し持続性のある自律型の経済体制を確立する事だ。

経済活動の基本要素である「ヒト・モノ・カネ」の三条件を、様々な理由により十分に保持しなかったベトナムは、「外国資本」の導入(投資受入れ)へ舵を切る以外の方法で、自国の経済を国際市場へ位置づける事はおよそ不可能であった。
そのため、ドイモイ(刷新)政策へ転換した1年後の1987年に、外国からの投資受け入れへ転換し「外資」による自国経済の構築を政策目標として明記したのだった。

爾来、20年の歳月が過ぎた。

当初は、シンガポール、台湾、香港からどちらかといえば「幼稚産業」に分類される「ベトナムの軽工業」への投資であった。
次に、二国一地域の資本の多くは、お定まりの方針のように、ホテル(宿泊施設)などへの投資に重点を移した。
1994年以降は、日本、韓国を含め周辺国からの投資が加わり、本格的な「ベトナム投資」ブームが起きる。
中でも、タイとマレーシア(の華人資本)は積極的にベトナムへの投資を推進していた。
彼らの多くは、ベトナムの軽工業への投資を進めていた。
日本の資本は「ベトナムへの投資」に興味を示しながらも、どちらかといえば抑制的で慎重な投資姿勢だった。
1994年、米国がベトナムへの経済制裁を解除した事を受け、1996年には日本も「ベトナムへの投資」を積極姿勢へ転換する。
しかしながら、外資開放(導入)10年後の1997年に、タイで発生した「アジア通貨危機」により、ようやく歩き始めたに近いベトナム経済も甚大な影響を受けた。
何よりも「アジア通貨危機」に巻き込まれた周辺国(タイ、マレーシア、シンガポール、香港、韓国)からの投資が急減したからである。

ここで、ヨチヨチ歩きのベトナム経済は1997年、大きな壁に突き当たる。

この難局を、どちらかと言えば、日本を含めた先進工業国からの「資本投資」を積極的に受け入れる方向(幼稚産業軸から工業軸)へ舵を切る事により切り抜けを志向する。

従来の貧弱な社会資本のままでは、生産活動に支障を来す事が鮮明になり、社会基盤の整備に重点を置いた政策への転換が不可欠となり基盤整備重視型へ政策の軸足が移る。
ハード面を整備するのは当然の事であるが、より重要なテーマは、「制度整備」であり、必要な「制度」支える「政策展開」が求められた。

ベトナムの政策は、「形」の整備を重視する傾向が見える。
しかしより重要な点は、整備した「形」を統合的に効率よく運用する持続能力が大切なのである。
この点では、実に曖昧模糊とした印象を拭いきる事ができない。
個々の現場を預かる人たちは、それぞれ優秀であり懸命な取り組み姿勢を見せる。しかも、平均的には十分な知見と能力を備えている。
しかし、残念な事に、組織化された点で総合的に捉えると、どこかチグハグな事になっているように見受けてしまうのが残念な点である。

外国からの資本投資が、徐々に大型化し巨大な生産を生み出す案件になると、操業が始まるや、あまり時を置く事なく、ベトナムは「政策」の矛盾を噴出させてしまった。

ベトナムは、本質的な意味で「社会主義政策」も「資本主義自由経済政策」もその本質において完全な経験を欠いている事もあり、いま現在もベトナムが固有に抱える社会や制度に派生する基本的な問題を内在させている。
それらを遠因とする「内部の政策矛盾」を、2000年以降に噴出させてしまった。
日本との問題を例にとれば、「オートバイ部品」の現地部品調達率で生じた問題であり、自由な生産と自由な販売により拡大した市場が、当初予想を上回る生産量を招き、そのため「計画生産量」を超える「部品の手当」で割当生産思考に呪縛されたベトナム政府の担当官僚と日本の事業者が激しく議論する事になった。
また、別には「現地部品調達率」を掲げても、「規格」に合う部品を地場で製造できない事も抱えていた点を含め、この件は一気に政治問題の様相を示した。
両国は、粘り強く向き合い、日本側が指摘し助言する必要なポイントを共有し合う事で解決を見た。
この後、「日越投資保護協定」が締結され、この過程で議論され検証された様々な問題点は、「日越共同イニシャティブ」の各フェーズで共有され、相互の協力により解消へ向け努力が積み重ねられている。
その上で、現在までに両国間では「経済連携協定(EPA)」の交渉が進められている。
両国間のEPAが最初に提起されたのは、記憶が間違っていなければ2002年か2003年の年末に東京でベトナム側からの提案だったと思う。
当時は、一方で「オートバイ部品」の扱いをどう解決するかの交渉を行っていた。

この頃、ベトナムは、コメコン体制が華やかなりし頃にロシアや東欧諸国へ留学していた大量の官僚に「政策思考のドイモイ(刷新)」を迫られる経験をした。

日越間に「オートバイ部品」で生じた「形」に拘るベトナム側の政策の克服課題の例に挙げたが、様々な点でまだまだ克服課題を抱えている。

今後も引き続き、整備した「形」を統合的に効率よく運用する持続能力を支える「政策形成能力」の保持育成が大切なのである。

ハノイの空が晴れわたるのか、それとも曇ってしまうのか?
2020年の「工業国」へ向けた政策課題は山積している。
この点については、別に整理し必要な検証を経た上で、やがて掲出したいと考えている。

それでは、朝から続いた停電もようやく復旧しネット環境も回復したので掲出しておこう!

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