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2008/06/18

笠戸丸での「ブラジルへ日本人移民」開始から100年で思うこと

ブラジルへの移民開始から今日が100年という。

笠戸丸神戸港から、最初の日本人移民を乗せ、サントス港へ到着したのが100年前の6月18日で、それを記念したのが「移民の日(6/18)」だという。以後、25万人の日本人が海を越えブラジルを始めとする南米の各国へ移住し、現在の日系人は150万人を数えるらしい。

今日は、ブラジルで盛大な記念行事が開催されると報じられている。

その中の日系人30万人が、現在「日本に滞在中」であり、各地で「日本の生産を支え」ている。もちろん低賃金の労働力としてである。

日本は1970年代半ばにも、少数とはいえ「移民」政策を継続していた記憶がある。現在の日本の豊かさは、いつどのようにもたらされたのか、よくよく考えて見る事が必要なように思う。

不確かながらの記憶では、日本の貿易赤字が黒字に転換するのは確か1964年で、「東京オリンピック」は、その点を頭においた「記念セレモニー」の要素が高いとの説明を得た。この年から、個人の海外旅行は現在に至る「パック旅行」が解禁されている。つまり「貿易赤字」からの脱却が「東京オリンピック」と「個人の海外旅行自由化」を招いた。

次に、第二次世界大戦後に国土復興の目的を含め、各国から借り入れた「資金(借金)」の返済は、貿易が黒字化した6年後の1970年に完全返済したという説明を受けた。それを記念したセレモニーが「日本万国博覧会」であったとも。

つまり戦後20年、走り続け「赤字を黒字」にし、ナンとか餬口を凌げるようになった。そして戦後25年の歳月で「各国からの借り入れを返済した」との事らしい。

ここから急激な「お金持ち」の国へ向かって、「ひた走りに走り」今日に至るのである。だから、1970年代の半ばには、国の政策として「まだ、ブラジルへの移民」は存在したのである。「笠戸丸」ではなく「あるぜんちな丸」がその役割を担い日本とブラジルの航路を結んでいたように記憶している。

日本人の「海外移民」は「昭和のイメージ」の一コマである。「昭和」は長く、19世紀に始まった工業化を象徴する「劇的な展開」が連続した日々だった。「力を誇示」した「戦争」。そして結果としての「国家破綻」も経験し、次は「復興」する上で不屈の闘いを強いられたのが日本の昭和(歴史)でもある。幕を閉じた「昭和」は、その時バブル経済の頂点でもあった。でも、忘れてはならない事実がある。その十数年前まで「日本はブラジルへの移民を奨励していた」事である。

今日の「日本の繁栄」について、謙虚に慎ましく、よくよく考えてみる必要がある。

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