「コピペ」よさらば!「事実の確認」、「問題の所在」に基づく論理的思考力を求めたい
出講先での担当講義も、夏期休暇前の分は、24日を以て全てを終える事ができました。大学院の講義の前期分は既に完了しています。
まぁ、なんと言いますか「暑熱の中で講義をするのは疲れます」。聞いている方の学生はもっと疲れるのかも知れませんが。シンドイ状態で講義をし受講しているのだとすれば、これは「不幸の始まり」とも言えます。困った事だねぇ~。
「論理的思考力」が低下しているとの懸念が、随分、以前から示されていましたが、フルに講義計画を組み担当する側として、学生の反応に対する感想を率直に述べるとすれば、「論理的思考力」よりも「基礎的能力(人としての基本や構想力など)」の低下が先にあるのではないかと考える次第です。文部科学省の後期高等教育についての政策無策により大学の乱立と収容定員の拡大が続いています。人口構成は少子高齢化で「若年者」は低下の一途です。巷間よく囁かれるように「大学の収容定員(50万人)」と「大学進学希望者(50万人)」の数が一致し「大学さえ選ばなければ、誰でも入学できる『大学はユニバーサル化』状態」です。これを受けた形で「専門学校」は位置している事も考えなければなりません。
以前から、多様な「入試制度」という美名の下に、いまも「AO入試」などが幅を利かせています(昨今は、若干の反省もあるようですが)。その結果、一芸に秀でた学生の大学進学への道筋が確保され、キャンパスで異能の人材が見え隠れするようになり、新しい刺激を与えた事では一定の効果を上げたようにも見えます。ただ、いずれの大学も右へ倣えの粗製濫造で深い吟味も加えずに「AO入試」は数多の大学で制度化され強固な市民権を確立したように見受けます。その結果どうなったかといえば、「論理的思考力」の相対的低下を招いたと考えています。「論理的思考力」は「基礎的能力」に支えられていると考えますが、基盤が十分に形成されていない状態で「論理的思考力」を求める事は「砂上の楼閣」を築く事と何ら変わらないのではないかといえます。
論理的に物事を組み立てられない学生の殆どは「事実の確認」を怠る事が多いようです。「事実の確認」を終えた後に「問題の所在」を考え、分析へ移行する必要がありますが、例えば「噂」と「事実」を峻別できない学生が相対的に増加しています。「事実の確認」を怠り「直感に基づき議論を始めよう」とするわけです。こんな状態ですから議論が始まるや否や「事実の壁」にぶつかり「自説の崩壊」に見舞われます。すると「泣く」という現象に走ります。これは、単に「自らと社会」に対する「甘え」でしかありません。しかし残念な事はその「自覚」すらありません。大変悲しい事です。
話は飛びますが、「京王・八王子の書店店頭での殺傷事件」の犯人が供述している内容の報道を見る限りでは「自分自身や社会」への「甘え」以外の何ものでもないのではないか、極めて自分勝手な理屈でしかない点に驚愕させられています。まだ少数とはいえ「日本(人)も、とうとう、ここまで墜ちたか」と暗澹たる気分です。
「社会との紐帯が存在しない」典型だろうと思います。
まぁ、大学のキャンパスにも、この種の思考方法をとる学生は散居しているのだろうと思います。だから気をつけなきゃぁ。
先般、読後感想文を「インターネット」の紹介箇所から「コピーしペースト(盗作)」する小学生や中学生が多数出現している事が話題になりました。いわゆる「コピペ」が小・中学生にも行き渡った事を危惧しての話だったように思います。これは親の世代が既に「コピペ族」として、大学生活を終えた事にも若干の原因があると考えます。特に、小学生が引き起こすのは親の影響が大であると考えるからです。
現在時点で大学の場合は、「コピペ」も単純な段階の学生と「パッチワーク(いくつものコピペを継ぎ接ぎする)」を加える若干高度な学生に分かれます。興味深いですね!?
最近の「コラコラコラム」へのアクセスを注意深く見ると、○○-u.ac.jpやら、u-○○.ac.jpが猛烈に増えています。いくつか「コピペ」しているのだと見ています。しかし「コラコラコラム」の記述は、簡単に「コピペ」できないような表現方法を用いていますから、これをそのままレポートにするのはどうでしょうね。前後を組み替える必要もありますしねぇ。そんな事をすると全体の脈絡が変わってしまう場合もありますし、しかも、それを行う場合には、一定程度、当該案件やテーマについての知見が必要になります。「コラコラコラム」はウソを記述する事はありませんが、ブログの特性を考え「誇張」はいたるところに埋め込んでいます。
従って、「事実の確認」と「問題の所在」に基づく考察力が求められるワケです。
なぜ、それができないか。この設問には「コラコラコラム」は「読書量」の圧倒的な不足が原因だと応えたいと思います。「構想力や洞察力あるいは展開力」は、幅広く辛抱強い「読書」により形成されると考えています。浅く読む、深く読む、幅広いジャンルを読む、限られた分野を読み進む、何でもよいと思います。一定の「書物」には先人の遺した思考方法が示されています。肯定的に受け止める、批判的に受け止める、いずれでもよいのです。
少なくとも「人として自律する」事が必要です。小・中学校で求められた「読書」と「読後感想文」の執筆は、「人を造り、人として立つ」上での通過儀礼として不可欠の要素です。それを「旧弊」であるとか、理由にならない理由で、一時的に批判してみても、それに代わる有効な「人を造る」上での知的刺激を与えるよりよい方法を見出せていない事を指摘しておかなければなりません。
人としての「基礎的能力」の陶冶には「読書」と「読後感想文」の作成は、まだまだ効用が高いと考えています。
「社会との紐帯」を含めバーチャルではなくリアリティーに基づいた「事実の確認」と「問題の所在」を認識した「論理的思考力」を、日本の学生諸君に求めたい。この夏期休暇はそれには丁度良い機会だと考え期待しながらだけれど・・・・・・・
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