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2008/09/21

日本・ベトナム国交樹立35周年記念日に思う事

今日2008年9月21日は、日本がベトナムと国交を樹立してから丁度35年目に当たります。

日本の各地で、それぞれ所縁のある人達の手で35周年を祝う、様々な記念行事が施行されているものと思います。

日本とベトナムの公式行事としては先週16日に、大阪で開催されました「記念行事」に始まり、19日~21日まで、東京は代々木公園での「ベトナム・フェスティバル」が展開されました。東京での交流展は雨にたたられ困難を極めました。以前、日比谷公園で同様の企画を実行した際も台風の直撃を受け散々な目に遭いました。
ベトナム側の関係者は、青空の下で、日本人とベトナム人が、「(それぞれのというか)文化、食材、雑貨、音楽、パフォーマンス、などなど」様々な交流を、誰もが気軽に立ち寄れ参加できる形で行いたいとの強い希望があり野外での展開になっています。

これまで、ホーチミン市でも、同様の展開をしてきたワケですが、記念行事とはいえ9月開催(は雨や台風を覚悟する必要ありで)時期の問題が課題になりました。

フェスティバルをご支援頂きました、日本側、ベトナム側の関係各位に感謝申し上げます。
特に、日越友好議員連盟(衆議院議員・武部 勤会長、松田岩夫参議院議員)を始め、外務省、駐日ベトナム大使館には、格別の感謝を申し上げたく存じます。

日本とベトナムの関係について考えると、
古い時代には「阿倍仲麻呂」が安南都護府へ中国から中国側の支配者(長官)として赴任したとか。
あるいは、安土桃山の頃、多くの日本人が交易を求め海外雄飛を繰り広げた時期がありました。
その頃、ベトナム中部のホイアン(世界文化遺産)に日本人町(現在のチャン・フー通りを中心に)を形成しました。その過程で持ち込んだ日本の食文化を今に伝えています。
隣のダナン市に聳える五行山(ごぎょうざん・マーブル・マウンテン)には自然の鍾乳洞穴があり、洞窟の中に巨大な観音像が刻まれています。ここに「茶屋四郎次郎」の痕跡を窺わせる記述もあるようです(正確な解明が待たれます)。
関ヶ原の合戦を経て、江戸に徳川幕府が成立したのち、「キリスト教禁止令」と共に「鎖国」政策を採った日本へ、帰国の途を閉ざされた日本人はベトナムで土となりました。
この時期、記録に残る「日本人町」としては、マニラ(フィリピン)、ホイアン(ベトナム)、プノンペン(カンボジア)、アユタヤ(タイ)に形成されたようです。

その後、ヨーロッパで「産業革命」を経て巨大な力を身につけた近代国家が誕生するや否や、世界はいきなり「帝国主義」の時代に入り、さして大きな武器を持たなかったアジア・アフリカの諸国はその多くがヨーロッパ諸国の植民地として組み敷かれました。
ベトナムは、カンボジア、ラオスとともに、フランスの手で「フランス領インドシナ」として植民地に組み入れられてしまいました。
フランスは、インドシナ半島を足掛かりに、その昔「黄金の国・ジパング」といわれた「日本」を占領する途を企てたようです。

フランスがベトナムでの植民地政策で徹底した事は、「塩」の強制消費でした。
ベトナムは、日本と同じように南北に長い海岸線を持つ国です。従って、海岸沿いならどこでも容易に「塩」を創り出す事ができます。
一方、フランスはヨーロッパでも屈指の「岩塩」を掘り出す国です。

まず、フランスはベトナム南部でゴム園(ミシュランなどのタイヤに代表されるゴム工業)を効率的に経営するため、多くの奴隷労働力を必要としました。
そのためにベトナムの北部から南部へ働き手を強制移住させる方法をあれこれ考え、「塩」を制御する方法でベトナム人を故郷から追い立てる事(土地から切り離す)を考えました。

最初は、ベトナムの弱体な「製塩事業」を潰すため、「岩塩」を超安価で徹底販売し、ベトナムの「製塩事業」を立ちゆかなくさせました。完全にベトナム人の「製塩事業」を経済的に破壊し尽くすと、ヨーロッパから運んだ「岩塩」の強制販売(強制消費:一人当たりの年間消費量を決め付け、強制的に買わせる/借金させてでも強制的に割り当てカネを巻き上げる)を始めました。

最初は低廉安価だった「岩塩」がいきなり高価格になり、しかも、それ以外は手に入らないという方法で、ベトナム人からナケナシのカネを巻き上げる行為にでたワケです。
カネを失った者は、南部のゴム園へ追い立て奴隷労働に従事させ、経済面でも支配を確立させたのです。

今もそうですが、ベトナムは基本的に農業国です。
当時、ベトナム人の大半は「農業」で生計を立てています。当然ながら「農業」は自然の影響を受けますから「豊作」「凶作」を農民がコントロールする事はできません。
また、基本的に大土地所有制(小作制度)農業ですから、「種籾」をどうするかで、翌年の収穫(収入)が決まります。
また、ハノイを中心にした北部のホンハ・デルタは「紅河」が基本的に天井川である事も災いし、当時は特に台風や洪水による農業損失を抱えていた地域です。

この環境下で、人が生きる上での生命線ともいえる「塩」の専売と価格を外国人(植民地を支配する者)の手に握られてしまったワケで、当に生殺与奪権を取られてしまったワケです。ベトナム人を生かすも殺すもフランスの植民主義者が、その手で握ってしまったワケです。

「凶作」の度に、弱い農民が「種籾」を高利で借りる。次も「凶作」だと高利の「種籾」を返せなくなる。その上「塩」の消費を強制される。借金の返済を迫られ土地から追われ、奴隷労働として南部のゴム園へ送られる。酷い話です。

日本は、比較的早い時期に、この事実をよく把握し、明治維新達成後に明治政府は「塩」の扱いを考えています。その後、日本は様々な状況を考え「塩」を政府の専売(現在は、行政改革の一環もあり「塩」の専売は解かれ自由流通)にしました。

次は、日露戦争での日本海海戦です。
日本海海戦は、ロシアが日本との戦争で日本海の制海権を決定的に確保する戦略で、バルチック艦隊をバルト海から日本海へ長駆派遣した事に始まります。
ロシアは、バルチック艦隊をベトナムのカムラン湾へ補給入港させる事をフランスに求めました。しかし、フランスは当時の英国や日本との関係を考慮し、この要請を拒否しました。
そのため、バルチック艦隊は補給や船体整備を十分に果たせないまま、対馬海峡を越え日本海へ入り、満を侍す連合艦隊により撃滅されました。
戦史研究家の研究では、ロシアの要請をフランスが受け容れ、バルチック艦隊がベトナムのカムラン湾で補給と休養をとっていた場合、戦局は予断を許さなかっただろうとも指摘されています。

この後、日本は辛うじて日露戦争で引き分けに近い勝利(51:49)を得ました。
この結果、フランスに組み敷かれたベトナムの青年達へ、「日本の勝利」は限りない希望の灯火となりました。
ヨーロッパ人の手で、締め上げられ、人としての権利を蹂躙され絶望の淵にあったベトナムの青年達に、「自分達と同じアジア人が、ヨーロッパ人種のロシアと戦争して勝利した」。このニュースは、ベトナムの青年達を奮わせたワケです。
そこで、ナケナシのカネを叩いて、「日本へ学びに行こう、日本で学ぼう、日本に学ぼう」という運動「東遊運動(ドンズー)」が組織され湧き興りました。
いまや民族の英雄でもあるファン・ボイ・チャウを中心に組織されたベトナム青年達は、日本を目指し神戸港へ上陸し東京を目指しました。
東京では犬養 毅を頼り一定の保護を受ける言質を得ますが、この事実を知ったフランスは日本へ猛烈な抗議を行い圧力を加えました。
ファン・ボイ・チャウ達は、頼みの綱だった日本から石礫で追われるように退去させられ、香港へ落ち延びました。
民族の将来を考え国を思う「ベトナムの青年」の熱い意志を、当時の日本は聞き入れ叶える事ができなかったのです。

次に、近代日本がベトナムと決定的に関わったのは、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線でヒトラーのナチス・ドイツがフランスを降伏させ占領した事で、ドイツから教唆され、傀儡のビシー政権と形式的な合意を得た上でハノイを中心にしたベトナム北部へ、日本軍を進駐(第一次北部仏印進駐)させます。
当時の日本は、中国大陸で蒋介石の国民党軍と熾烈な戦闘を繰り広げていました。米英を始めとする親中国側の勢力は広東省・広西省からベトナム北部から蒋介石支援ルート(いわゆる「蒋援ルート」を構築し日本軍へ対抗)で国民党軍への補給を続けていました。

日本は、これを断つ目的もあり、ドイツの提案を受け入れ時を移さずベトナム北部を占領し、駐留フランス軍を配下に置きました。ベトナムは、この瞬間に日本とフランスから二重支配を受ける事になりました。

日本軍の進駐を機に、日本は、米英を決定的に敵に回す事になり、米・英・蘭の三国による対日経済封鎖へと進みます。この「対日経済封鎖(何よりも石油の禁輸)」を受け、日本は対米・英戦争(太平洋戦争)へ追い込まれます。

太平洋戦争の緒戦で、日本は無抵抗のまま簡単にインドシナ三国(ベトナム・カンボジア・ラオス)を占領します。1945年8月15日まで、途中1945年3月にヨーロッパでフランスがドイツから解放された事を受け、「明号作戦」なるベトナム独立(=傀儡政権樹立)へ対フランス攻略を仕掛けつつ居座り続けます。

この間、日本軍の発想はコメは南部のメコン・デルタで作付けし収穫する。それを南北鉄道で輸送し北部と分け合う。北部のホンハ・デルタでは、軍需物資の麻(ジュート)の作付け生産を奨励するというように、農業作物の作付け分離を指示し実施させました。

しかし、制空権と制海権を奪われると、南北間の鉄道輸送は米軍機の攻撃を受け、ほとんど機能しなくなりました。
1944年~1945年にかけて、北部デルタを凶作が襲い、南部からのコメが届かなくなった北部地域では食糧用の「コメ」が消えました。このため大量の餓死者(ざっと200万人ともいわれています:正確に両国で検証した方がよい)を出しました。
*この件について、ベトナム政府は、日本との友好関係を重視する姿勢から表面上は触れず抑制しています。事実を政治的配慮で抑制しているのは事実です。

日本は1945年8月15日、連合国へ降伏し敗戦を受け入れました。
インドシナ駐留日本軍は、主として米・中の手で武装解除され、大日本帝国の兵士はその殆どが日本へ送還され帰国しました。
中に、日本への帰還を拒否し、ベトナムの地に残り、ベトナム独立のために身を捧げた元日本兵(残留日本兵)も出ました。彼らは、ホー・チ・ミンのベトミン(ベトナム独立連盟)に身を投じ、1946年12月19日にフランスとの本格的な戦争が始まる時も、ディエン・ビエン・フーで最後の勝利を得る時も最後までベトミンの兵士として、ベトナムのために戦った人達です。
ベトナムの女性と結婚し、子供たちを授かり、最後はベトナムの土となりました。

残された家族は、その後、様々な事情で「外国人との混血を理由に、差別され、攻撃を受け、凄惨な生き方を余儀なくされた人もあると耳にしています」。「しかし、ひとたりとも、父の国・日本を忘れず捨てず、生き抜いてこられた人が、いまも誇り高く生きておられるそうです」。
この方々へ日の当たる道筋をつけて貰えればと、ハノイでご活躍の皆様と同じ気持ちで希望しています。

米国による、ベトナム戦争「南部ベトナム民族解放戦争」への介入で、日本は今日に至る決定的な工業化を達成します。
米国に代わり、世界の工業製品を生産供給する国へ見事に変身を遂げたのです。

記録では、
1955年、日本の一人当たりGDPは169.8US$です。1US$=360JP\
総人口が8927万人で、名目国内総生産は5兆5019億円です。

1965年、9825万人で、名目国内総生産は19兆2392億円で、
一人当たりGDPは、543.9US$です。1US$=360JP\

1970年、10372万人で、名目国内総生産は38兆3325億円で、
一人当たりGDPは、1026.6US$です。1US$=360JP\

1975年、11194万人で、名目国内総生産は84兆7627億円で、
一人当たりGDPは、2524.0US$です。1US$=300JP\
*この年、ニューヨーク市が財政破綻します!デフォルト宣言!
★ベトナム戦争が4月30日に終結し、米国の敗北が決定しました。★

それ以後、米国は「ベトナム・ショック」から立ち直れず、「社会・財政・経済」は深刻な事態に陥ります。その間、日本は落ち込んだ米国の製造業を補完する形で1960年代後半から1970年代に経験した第一期の経済成長とは異なり、より効果的で効率的な生産方式に支えられた第二期の「経済成長」を遂げ、完全に先進工業国としての地位を確立します。

日本は、貧乏ながらも、外圧を前に綱渡りのような巧みな政策で、今日までなんとか国を維持してきました。最近は、その結果に胡座をかく酷い政治屋やら行政官僚が出てきました。国を喰っているワケです。これは徹底糾弾しなければなりません!

ベトナムとの国交樹立35周年の21日に、これまで、なんとなく、とりとめなくバラバラ~と話してきた事の要点だけを記述してみました。別に他意はありません。

長年、お世話になりました多くの皆様に心から感謝申し上げ、今後もベトナムへの変わらぬご支援を賜れますようお願い申し上げる次第です。
いくつかの点で、冷静にお考え頂ければとささやかに希望しています。

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