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2008/09/18

日本の躾と教育は崩壊している!

いささかショッキングなタイトルで恐縮ですが、市井の市民が考える切っ掛けとなるケースとしては通常では、テレビの画面である事が多いように考えます。
その際、日本で「教育」について議論が交わされるときに、「教育学の泰斗を始めその道の研究者」が駆り出され、「にわか評論家」やら一欠片もまともな教育を受けた事もないような「バ×タレント」に対峙させられ、テメー勝手な言いぐさをダラダラ~っと主張(主張になっていない)するのを聞かされるって構図が多いですね。

それで何か解決したか?
何も解決しないだろう!
結果は、その光景をテレビ画面で見た、根本的に考える能力を持たない「バ×親」が、交わされる理屈の「オイシイトコ」だけをとり出し、自分の都合に合わせた拡大解釈をした挙げ句、子供が通う学校へ「モンスター・ペアレント」に化け言い掛かりの非論理的小理屈で執拗な攻撃を繰り広げる現象を招いているだけだろう。

このテレビ番組作りは曜日を限って深夜・未明から早朝まで「朝まで生テレビ」が描き出した「バトル」の構図を、そのままパクリで、ワイドショーに置き換えゴールデンタイムに垂れ流しているだけで、送り手はその責任を問われないのである。実に不公平だねぇ。

「教育や躾」を論じているようなフリをしているけれど、それは思いつきであって、「視聴率」さえ稼ぎ出せばよいのだから始末に負えない。テーマに掲げた本質を議論するワケではなく、むしろそこで見つけ出した「滑稽さと陳腐さ」を誇張し、あざ笑う事、権威を貶める事に重点を置いているだけで、そのバカさ加減を競う事で「視聴率」が稼げるとよいだけの話に過ぎないんだよ。
テレビ局は「商売」なのだが、見る方も最初は「テレビ局の商売」と割り切って付き合っているけれど、毎回、その種のバカ手法を繰り返し繰り返し見ている間に、
「バカ手法による『非論理的思考法』が刷り込まれてしまうんだねぇ~!」悲劇だねぇ!これは悲劇だよ!いや、冷静な側には喜劇かも知れないねぇ~!

まぁ、テレビ番組の作り方は置いといて。
「教育を論じよ」と求められましたので忌憚なくモノ申してみようと言う事で。

まず、教育を語るとき、
「躾(しつけ)」<読めますかねぇ?>と「教育」に分けて考える必要があります。

「躾」についても「家庭」で「親」が責任を持たなければならない「躾」があり、次に社会が責任を持つ「躾」があります。
この二つは、一見、似通っていますが基本的には異なります。

「親」が責任を負う「躾」は「人としての倫(みち)」の事を指します。
例えば、家族について、家族間の序列や、人としての「孝」についての考え方を教え諭すのは当たり前の事ですが、「親」の使命であり逃れられない責任です。

「社会」が責任を持つ「躾」とは「公」としての「社会規範」を教える事です。
これは「社会全体が規範を共有」しなければできません。
ここが崩壊していると、何もできなくなります。
「規範」と「規律」は基本的に異なります。

とらえもん は、「規範」を社会で、社会全体が共有する「道徳・倫理」と考えます。
「規律」は社会を規制する「ルール」つまり文章化された「法律体系」と考えましょう。
違うという方は違ってもイイです。ここでは、分かりやすく分けて考えようと言っているだけですから。それぞれの方がより適切な方法を考えて下さい。

これを、分かりやすい例で言えば、「駅前に自転車を放置しない」というのは、人としての「躾」が先にあり、社会の「規範」としても「他人に迷惑がかかる」事は止めておこうという「公」での「道徳・倫理」に考え方の軸があります。
しかし、そんな「道徳・倫理」による「徳目」を期待しても「便利・利便」の前に掻き消され駅前の放置自転車はなくなるどころか増える一方だとすれば、一定の「規律」を示す必要が生じますから、ここで文章化された「法律・条例」という「規律」の明文化が求められるという構図になります。

いずれにしても、「躾」という概念が雲散霧消してしまい、日本は「規範」も「規律」も欠く国に堕し無秩序な国になったように見受けます。

このところ打ち続く「偽装」やら「詐欺」やらってのは、「公」を根本的に欠いてるからだろう。
*「公」を失い「私」が前面に出てくる先進工業国は米国と日本(と中国は途上国かなぁ)くらいだろう!?
中国も、「公」を欠く点では人後に落ちないが、それを中国と競って、日本は中国を笑えるか?ってことになる。

また脱線してしまいましたが、
低俗テレビは視聴率を稼ぐため番組構成上、教育やら躾やらの失敗で突出した現象だけを過剰に取り上げ、ゴールデンタイムの「テレビ画面」へこれまた過剰演出で無責任に垂れ流すという行為が連日のように繰り広げられているワケです。
かつて、大宅壮一氏(故人)は、「週刊誌やテレビは、一億総白痴化させる」と卓見を述べ鋭く切り込まれましたが、大宅壮一先生が逝去され「一億総白痴化」は今日一層強化されつつあります。
この化け物のようなガセネタ洪水を前に、いまや「躾」や「教育」も去る事ながら「政治」や「政治家」までもが、テメーの利得と私的広報・売名目的でこの種の「低俗テレビ番組」へ顔を並べ、そのバ×ぶりを見せ笑われています。

その典型が、あぁ、勘違いのヤマバ×・イチブトです。あのツラが日本の政治家だと思われたら日本の恥辱でしょう。これが群馬の出身(選挙区も)という理由でヒョウタン・フクダは外務副大臣にしちゃったんだからねぇ、バカも休み休み言えよって事になっちゃいますよねぇ~。挙げ句の果てに、推薦人はテメー一人だけって状況でジブントォの総裁選挙に名乗りを挙げようって、究極の売名行為を繰り広げたワケでしょう。乗ったテレビ局も酷いよねぇ~!
これほど「躾」られていないバ×はいませんよね、当に前代未聞だわ。
こんなア○~に比べりゃぁ、コゾォ・タイゾォ~なんてまだマシかも知れない?
ミンチトォの国会議員はもっと酷いよ、今日は一々名前を挙げないけれどねぇ~。

さて、本論ですが、
一般的に「躾」と「教育」の区分けが十分でないこともあり、
「義務教育」の水準をどこに求めるかという議論が欠落しているように見えます。
「義務教育の教育水準」を議論する際、かつてのガカイトォがモンスターのように主張した「平等」議論に振り回され、とんでもない間違いをした事が今日の教育混乱(崩壊)の始まりです。
「義務教育の平等」は「教育機会の平等」であって、「成績の平等」ではありません。
その理由は実に簡単で「人はそれぞれ思考力や運動力が根本的に異なる」からです。
それを十把一絡げに「人は皆、平等」という「幻想概念」で縛った事が今日の状況への途を創り出しました。
「平等」原則を主張しすぎた結果、それぞれの「個性」を潰し、一定の枠へ嵌め込んだ「教育」が罷り通っています。
その結果、小学校で必須の「社会の仕組み」「簡単な計算(掛け算・割り算・円周率)」「日本語の基盤としての国語力と漢字能力」すら欠いた児童が生まれています。
そのまま、義務教育の延長で中学校へ進んでも、人としての基礎学力を根本的に欠いていますから、考える力がありません。
もっと言えば、「何に対して、何をどう考えるべきか」についてさえ、考える力がないのです。
「自分が、社会で、何をしたいのか、何をすべきか、そのためにはどうすべきか」について考える事もできない児童や生徒を大量生産してきたのです。
これは日本の「平等幻想教育」が生み出した根本的な問題です。
日本の、国際競争力を真剣に考えた場合、学力低下も去る事ながら「人として生きる途」を考える能力すら持たない児童や生徒を大量生産して平気な国は、近代国家ではおそらく現在の日本だけでしょう。
日本の崩壊は、「教育の崩壊」から始まっています。
「教育の崩壊」は「躾の崩壊」が原因です。
「躾の崩壊」は「家庭の崩壊」も原因の一部と考えられます。

いま、日本の学力は「正視に耐えません」。それが実態です。
ここに和田秀樹先生の指摘があります。
コラコラコラムを訪問下さいます方へ喚起させて頂きます。

そして、大学は「高校卒業資格試験」を突破できない学生に受験資格を与えるべきではありません。
次に、入学者に対し、一定の年月が経過したからといって卒業させる事は厳に慎むべきです。大学(学部)卒業に見合う論理的思考力や学力を保持しない学生に対し、例え学部でも学位を授与するなどの行為は、自ら厳しく律し慎むべきです。

海外からの留学生受け入れに対し、併せて議論を提起しておきます。
「日本語能力検定試験一級」取得者でない学生の入学を認めてはなりません。
最低でも「二級」の資格がなければ受け入れを拒否すべきです。

普通の大学(学部)は、そのように対処していますが、自らが所属する(憧憬を受けるといわれる)大学院は、研究能力を重視(評価)する方法を採用しているせいか、日本語能力が十分でない留学生に入学許可しています。その結果、日本語での講義に付いていけず暗礁に乗り上げてしまう人が目立ちます。(最も、専攻しようとする分野の基礎的研究力も論理力もない人もいます)
連れてくる教員と指導する教員が同じであれば自業自得ですが、異なる場合は、担当させられる教員は手に負えない留学生の面倒見まで押し付けられ、自らの研究が頓挫してしまう可能性も残されています。
大半の大学は学部でさえも、「日本語能力検定試験一級」取得を義務づけているのですから、憧憬を受けるといわれる(所属)大学院もそのようにあるべきと考えています。
今後、このテーマは追究します。

日本人学生も留学生も一定水準における「日本語能力」は必須です。
言葉・言語は物事を思考する上での道具です。
言葉・言語は思考する上での論理的道筋を顕しています。

日本人学生も日本語能力が低下しています。
従って、論理的思考力は大幅に低下しています。
目標を掲げないと、現実の問題は解決できません。その方法の一つとして和田秀樹先生の論説があります。一考に値します。よくお考え下さい。

日本、日本人、日本の政治は、この厳粛な事実とどう向かい合うかが問われています。
(もうバ×なテレビ遊びは止めた方がよいと考えますけどね)

引用開始→ 【正論】精神科医・国際医療福祉大学教授 和田秀樹  (産経MSN)
どこまで落ちる大学生の学力
2008.9.1 02:19

≪少子化がもたらす弊害≫

私たちはさまざまな形で、学力低下を論じてきたし、その甲斐(かい)があってか、学習指導要領もゆとり教育撤回の方向に向かうことになった。しかし、学力低下の誘因としてもう一つの大きな問題がある。それは、少子化である。

少子化そのものが学力低下の原因になっているわけではない。フィンランドなどは、子供が減ることで、生徒一人ひとりに行き届いた教育を行い、むしろ学力が向上している。だが日本の場合は、子供の数が減ることで、受験圧力が大幅に緩和されて、それが学力低下に直結する。

第2次ベビーブーム世代は1学年200万人以上いた。その際に、「15の春は泣かせるな」の掛け声とともに、公立高校が大増設された。その後の少子化で、現在は1学年が120万人程度になっているが、結果的に、びりのほうでも新設の公立高校の普通科に入れるようになった。

おそらくは、それが中学生のインセンティブを奪ったのだろう。各種調査で、中学生の4割以上が学校の外で全く勉強していないという結果がでている。

このような少子化による学力低下の影響が、さらに激しく出ているのが大学だといわれるようになってきた。

現実に、第2次ベビーブーム世代と比べて、1学年70万人も減っているのに、大学生の数は当時と比べ、4学年で60万人も増えている。要するに少子化にもかかわらず、大学側が定員を増やし続けたため、大学が大幅に広き門となってしまったのだ。

≪AO・推薦で入試変質≫

1998年に行われた京都大学の西村和雄教授と慶応大学の戸瀬信之教授による大学生の数学力調査で、早慶クラスの大学でも、数学を受験しない文系学生の2割が分数ができず、7割が2次方程式の解の公式を使う問題が解けないことが明らかになった。

しかし、昨今では、それとは質の違うレベルの学力低下が問題にされている。

日本語の読み書き能力の著しい低さ、英語の基本的文法知識の欠如、歴史や地理的知識の著しい欠如(坂本龍馬やゲーテすらも知らないなど)である。

現実に、大学の入学定員と志願者数がほぼ同数となり、大学の半分近くが定員割れとされる状態であるから、事実上、中位・下位校では無試験で大学に入学する。

そしてさらに新たな問題が最近になって浮上してきている。それは、AO入試(学力試験の代わりに書類審査、面接、小論文などで選抜)、推薦入学の激増である。

2000年に旧文部省が、私大の推薦入試の上限をこれまでの3割から5割に引き上げ、国立大学協会も2008年度入試から5割に引き上げている。それ以外にAO入試の実施校が激増しており、現在では私大入学者の1割近くを占める。帰国子女選抜や社会人選抜、そして付属校からの進学者を含めると、私大では、入学者のうち、一般入試で入学した学生の割合が半分を割り込んでいるのである。

建前上は、一発勝負の受験の弊害を排したり、多様な学生を集めるためのものだが、有効に機能しているとは思えない。推薦組、とくにAO入試組の低学力が、各大学で問題になっているのだ。

≪早急に「資格試験」導入を≫

現実には、中低位校では定員割れを少しでも避けるための学生確保に用いられ、上位校では、これを行うことで、一般入試の定員が減り、見かけ上の偏差値が上がるために学校の格を上げることに用いられている。

もともと、一般入試組が無試験同然になっている低位校以上に、上位校では、推薦入試、AO入試組と一般入試組の学力格差が問題になっているそうだ。

私の知る限りでも、早慶レベルの学校に、それより偏差値が10以上下の大学の付属校から成績不良で大学に上がれなかった生徒が推薦やAOで数人入学している。

基本的にAO入試というのは、アメリカで行われている試験制度を採り入れたものということになっているが、アメリカの場合は、SATと呼ばれる統一学力テストの点数も評価したうえでのセレクションが原則だ。ところが、日本では、推薦入学を文科省が11月まで認めていないので、その代わりになる。

そのため、秋に大学入学が決まった学生で自動車免許の教習所がいっぱいになるという。いちばん勉強するはずの高校3年生の秋以降がいちばん勉強しなくていい時期になっているのだ。

中教審や教育再生懇談会でも、この事態を認識して、高大接続テストの導入を検討しているそうだが、早急に大学入学の資格試験を作らないと大学教育のみならず、高校教育までが崩壊しかねない。(わだ ひでき)
Copyright 2008 The Sankei Shimbun & Sankei Digital  ←引用終わり

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