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2008/12/15

京都国立近代美術館・学芸課長の傲慢に驚愕させられた一日(12/12)

京都国立近代美術館は、2009年4月11日(土)から5月24日(日)、財団法人 京都服飾文化研究財団(以降:KCI)と協力し「ラグジュアリー:ファッションの欲望」展を開催する。
*2009年10月31日(土)から2010年1月17日(日)には東京都現代美術館で開催される。

そのプレセミナーへの招待を受け12日に、岡崎公園の「京都会館」へ出向いてみた。

何よりも、樺山紘一先生が基調講演をされるとの案内があり、樺山先生がロマネスク時代の絵画や装飾について、どのようにお話しされるかに興味を惹かれた事が大きく出向く決意をしたのかも知れない。
樺山先生は、さすがに短時間ではあっても、実に格調高くお話しを巧く纏められ、いくつかの視点や視座を抽き出される巧さに感心させられた。

次に、「京都国立近代美術館」の河本信治学芸課長が登壇し、格調高い樺山先生の講演を全てぶち壊す自意識過剰で実に空虚なドグマを垂れ流し、センスの一欠片もない長広舌を繰り広げ、多くの聴講者の失笑を熱心に誘った。

いわく、これまでの「KCI」が主導した展示は、そこいらの産業展示(受注会展示)と何らの変わりもない「学術性などゼロで、評価に値しない」と扱き下ろす事から始めたのであった。

そのため関係者の怒りを買う事を想定したのか「この発言で傷つく方があれば、先にお詫びをしておきます」と予防線を張る事も忘れなかった。
この点が、実に巧妙なところだ。

さて、河本信治の主張するところでは、
そもそも近代美術館は「ニューヨーク近代美術館(以降:NY MoMA)」にその原点があり、そこに提示されたメソッドに留意し、その思考論理(展示表現)の方法を堅持すべきであるとの枠組み論のようである。
ケーソンで仕切られた展示空間を企画シナリオに沿い結ぶ事(観覧者誘導)で、学術展示の論理性が保たれるのであり、「KCI」が「京都国立近代美術館」を利用して展開した多くの展示は、その思考力はもちろん論理的な詰めも何もない産業展示と同じでお世辞にも評価できるような代物ではない、と扱き下ろした。

例えば、「現代衣服の源流」展、「華麗なる革命」展、「モードのジャポニスム」展などは
10万人、11万人、8万人集めてはいるが「全く意味のない数値に過ぎない」と一刀両断に出たのである。

河本信治が参与した(直近)過去2回の展示、「身体の夢」展、「COLORSファッションと色彩」展は、「NY MoMA」の思考論理に沿う高い学術性に裏付けられた高貴な展示を行ったとの自画自賛を厚顔にも展開したのである。
しかし、その観客数値はいずれも4万人に過ぎず、この点を指摘され踏み込まれる事を恐れ、何よりも「コア」な人達が観覧したと結論づけたから、聞く方としては驚愕させられるわけである。
何を以て、「コア」な人達と断定できるのか。
その前提も枠組みも何もなく、自らの思い込み(ドグマ)を防衛するために勝手な小理屈をつけて主張しているに過ぎない。
この主張を厚顔に行う河本信治は「『コアな観覧者』だという事実をどう確認したのか?」。

11万人、10万人、8万人からいきなり4万人へ観覧者数が激減すれば、企画展示は「完全な失敗」である。それへの反省を述べず、まずパートナーの「KCI」を攻撃する挙に出る傍ら、自らを自賛するのだから恐れ入ってしまう。

あまつさえ、例え「KCI」の企画展でろうとも、その思考論理で、河本信治自身が主張する論理に従えないなら「京都国立近代美術館」で「服飾展」、「ファッション展」などを受け入れる必要はない、と明確に主張したのである。

何よりも、批判を加えなければならない点は、河本信治が展開する論理には何らの創造性も発展性もないという事実である。
河本信治は「NY MoMA」が提議づけた「近代美術館概念(思考論理)」にさえ依拠すれば、全てが合格であり、それを踏み外す思考論理は排外の対象に過ぎないのであり、評価に値しないと断定する点である。
有り体に言えば、従来の「KCI」が主導した企画展が多くの観覧者を集めたとはいえ、150年前にロンドンで開催された万国博覧会の焼き写し展示に過ぎないと主張するのである。

この観点から、自らが参与したと自慢する「2つの企画展示」は、「NY MoMA」の論理に沿っており高い評価を得ている(どこの誰からか?)と押し付け的に自慢する事を忘れない。

ハッキリ言って、「NY MoMA」が、従来の博物館概念や美術館概念から脱却し、近代美術館概念を打ち出した事は誰もが認めるところである。
しかしながら、「京都国立近代美術館」(というか河本信治)も、それにぶら下がるだけでは、思考的にも論理的にも発展がない。
河本信治という人物の思考的狭量さあるいは論理的狭量さを垣間見せた瞬間である。

文部科学省は、「京都国立近代美術館」の学芸課長の能力を精査した方が良いのではないか?
なぜなら、「京都国立近代美術館」は、誰のために存在するのか、誰のための施設なのか?を問い直さざるを得ないまでに傲慢で腐臭に満ちた聞くに堪えない論理を、学芸課長が公的な場で論究に及んだのであるから、その立場について議論が提起されて然るべきと思量する。

大学では、この種のワケの分からない自分勝手で狭小な主張を繰り広げる人達があり、日頃から多少は馴れているけれど、それでも大学の中では「他の教員はもちろん学生からの鋭い批判や授業評価制度もあり、簡単に言い逃れできる環境にはない。博物館や美術館は、誰からも批判される事がないため見事なまでに『象牙の塔』を構築している」ようである。
開いた口が塞がらないとは、この種の人物が繰り出す一見論理的なように聞こえる非論理的ドグマを聞かされた時に漏らすべき感想なのかも知れない。

なおかつ、河本信治は「4月からの『ラグジュアリー:ファッションの欲望』展で最大に観客獲得しても6万人ではないか」と予防線を張る事も忘れない、手の込んだ防御をするのだから始末に負えない。

この種の妄言が「博物館や美術館の学芸者の世界」では許されるのか?という驚きである。

何よりも、観客になる側の「服飾文化」に携わる人々、「ファッション文化」に関わる市民への冒涜ではないか?
学芸員であるとないに関わらず、日本国憲法は、遍く平等に「自由な発想や思考、思想信条の自由、表現の自由、言論の自由を保障」している。
しかしながら、河本信治の言は断じて許される発言ではない!
「傷つく方がおられたらお許し願いたいで片付けられる」ものではない。
適切な言辞の作法を保持しない人物が、不快感を創出提供したと考えればよいのだろうが。

文部科学省の聖域ともいうべき「国立博物館、国立美術館」の学芸を握る人物が、自らの狭量な自己満足を得るために、国家の機構の一部を専横しそのポジションと肩書きから勝手な小理屈を投げ続ける。それが許容されている事に驚愕させられた。

プレセミナーは、最後に「KCI」のキュレーターであり理事でもある深井晃子さんから、ご自身とスタッフの皆さんが温められた「ラグジュアリー:ファッションの欲望」展について、現在時点におけるシナリオの説明を受け、ひとまず休心する事ができた。
セクション毎の展示企画のテーマとキーワードのみをご紹介申し上げておきます。

セクション1「着飾るということは自分の力を示すこと」-Ostentation
       17C、18C、19C~20C後半までの作品で構成

セクション2「削ぎ落とすことは飾ること」-Less is more
       20C前半、20C半ば、20C後半の作品で構成

セクション3「冒険する精神」-Cloths are free-spirited
              1980年代のコム・デ・ギャルソン(川久保玲)の作品で構成

セクション4「ひとつだけの服」-Uniquenese
              メゾン・マルタン・マルジェラの作品8点で構成

のようである。ご期待頂ける内容と考える次第だ。
再び、多くの皆様にご覧頂ければ「KCI」の皆様を始め取り組まれる多くの皆様にはよいプレゼントになるのではないだろうか。
小異を捨て、そのように期待している。

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