夏の衆議院総選挙の前後に、「コラコラコラム」は "日本が集団自死" へ向かっていると、懸念するスレッドを何本か立てた。
その時は、懸念であった。
しかし、いまは笑っていられない状況になろうとしている。
政界の仕掛け人を自認するトツベン・オザワも、ここまでポッポ・トリガラが無能だとは考えなかった、というか想像できなかったのではないか?
だから、組む相手を間違えたと指摘しているのだ。
内心は、相当「焦っている」事だろう!
「心中」をお察し申し上げておこう。
先日、某国在住者から、批判ばかりではなく「どうすれば良いのか建設的なスレッド」も、という要望を頂戴した。
こまりましたねぇ~!
「コラコラコラム」は政治家ではないのものですから。
しかしですね、
日本は、1990年代前半まで、走る目標があったのです。獲得する目標っていうか。
有り体に言うと、目標を達成して(自意識の中にはない)しまい、その後、目標として掲げるモノを何も持たないワケで。いわば「地図」を持たずに沙漠っていうか広大な海を彷徨う状態になっているワケです。
平たく言えば、一応、それなりの到達点に達した事で、それぞれの皆さんにはそれぞれの価値観があり、次の価値観(ある程度共有できる)を模索している間に、それぞれの価値観が「一人歩き」し始め、いわゆる「価値観の多様化」を招いたままの状態にあると考えた方がよいのだろうと思います。
途上国で語られるところの「価値観の分裂」、「世論の分裂」に遭遇し、そのまま固定化されてしまったというワケです。
その一つが、強力な国家観を描き、強いリーダーシップを発揮した「霞ヶ関の官僚機構」との間で齟齬を生じさせています。
つまり、「強力なリーダーシップなど、必要ないのだ」という主張です。
しかし、それを解体したところで誰が「国家行政(政府)」を担うのか、という問題では解決への答えを失っています。
そこへ登場したのが、「官から民へ」を掲げたハトヤマ民主党だったワケで、「政権交代」のスローガンに多くの日本人は共感し、衆議院総選挙で実現させました。
さて、その後100日近い日が過ぎましたが、「官から民へ」、「政権交代」のスローガンは、それなりでしたが、実際に国家としてのというか「国家運営」の「政策」「戦略」「施策」などを具体的に準備していなかった(最初からなかった)、ハトヤマの政権は想像どおりの「衆愚政治」に陥りました。
政権は少なくとも「国家ビジョン」を共有できる政党同士でなければ国家の運営はできないワケですが、共有できる部分は何もない政党同士ですから、相克状態に陥り大混迷状態を国際社会から笑われています。恥ずかしながら、これが「政権交代」の中身です。
「選挙互助会」による「政権交代」が引き起こす結果は、最初から見えていたワケですが、その点を指摘し批判しなかった「日本のマスメディア」の責任は重大です。
日本の報道機関が「第四の権力」を主張するなら、国家と政治についての重大な責任も分担しなければなりません。
それを怠り、素知らぬ顔を決め込む姿勢はいかがなモノかと考えます。
一度でも「衆愚政治」に陥ると、世論は分裂したままです。世論の再統合を為すには相当の犠牲を必要とします。それを忌避するなら「自然的な集団自死」へ向かう事を止める手段はないと思います。
いま、必要な事は「国家としてのビジョン」です。
そのための「戦略」であり「政策」です。
それを示す事です。
日本は、この観点で「政党の再編」を為す必要があります。不可欠です。
20年前、1989年に、日本が基盤にした戦後政治体制は終焉しているのです。
それから20年間、日本は新たな「国家ビジョン」を示す事ができませんでした。
この頃から、日本は変な自信を持ち、誤った方向(価値観の分裂・世論の分裂)を歩み始めたのではないかと見ています。
例えば、福祉国家を目指すという議論で、「スウェーデン」の成功が例に挙げられます。
単純に「日本」と「スウェーデン」を比較しようという発想はいかがなモノでしょう。
人口1億2700万人の「日本」と大阪府の人口と同じ程度の人口800万人の「スウェーデン」社会福祉政策を同一のテーブルで議論しようという思考そのものが間違っていると考えます。
実に、この種の議論は、あらゆる種類の「政策」の場でワケ知り顔の研究者により提議され、その都度「政治」は振り回されています。
「多様化した社会の、多様化した価値観」に対応できる「政策」を求めて「日本の政治は漂流」し続けています。
しかし、否定できない事実があります。
日本は「貿易国家」です。
必要な「資源」を海外に求め「国家」を存立させています。
必要な「市場」を海外に求めて「国家」として立脚し、1億2700万人を養っている国です。
その存立と安全を、一存的に米国へ依拠する事で成立する国です。
この事実を間違えて、現在の日本は存立し得ません。
(国際社会は、そのように「日本」を認識しています)
現在、某国に在住されているのも、日本の市場を創出するためのサービス業務(教育など)の提供を、当該国が求め有効だと認めているから成立しているのです。
「コラコラコラム」は東京都知事で作家の石原慎太郎氏の思考と同じではありませんが、"日本は「自然的な集団自死」へ向かっている" との考えに近似した、興味深い論述を得ましたので、全文を引用紹介しておきたいと考えます。
引用開始→【日本よ】石原慎太郎 文学と世相
(産経MSN 2009.12.7 02:52)
時代々々で人々の嗜好(しこう)も変わり、人間の感性も時代の文明に規制されて変容しよう。それを占う媒体もいろいろあるが、歌曲といった端的な表現よりも、小説という情念の複合的な所産の方が時代の深淵を覗(のぞ)かせてくれるような気がする。最近小林多喜二の『蟹工船』が若い世代の中でブームとなり識者を驚かせた。並行して太宰治の小説もそれらの世代に強い共感で読まれ幾つもの作品が映画化されている。
こうした現象は私の知己の精神病理学者斎藤環氏の分析だと、仕事にあぶれがちのニートやフリーターといった二十代三十代のいわばロストジェネレイションの人生への不安、不満を踏まえての共感だろうという。むべなるかなという気がする。
小説の流行(はや)りすたりなるものは、それが描く風俗も含めて時代の風や流れに染まりやすいが、さらにその芯に在る本質的なものを見逃してはなるまい。『蟹工船』の人気は組織としての企業と個人の自我の対立という図式でくくられようが、この現代における太宰治の小説の突然の人気のいわれにはもっと深く危ういものがある。
それは太宰の責任というよりも時代の責任ともいうべきもので、大袈裟ではなしにこうした兆候は、日本という国家の衰運を強く暗示していると思われる。太宰の小説を生理的にどうにも好まない私は、こじつけではなしに、こうした世の中の兆候を好まないし危ういものと思う。
太宰の小説そのものは好き嫌いの対象たりえても危険なものではないが、それを極めて好むという現代の風潮には大層危ういものがある。かつて三島由紀夫氏は「太宰のかかえている問題なんぞ、毎朝冷水摩擦とラジオ体操をしていればなおってしまう」といっていた。いい得て妙だが、それを極めて好むという今の世の風潮はなかなかラジオ体操くらいではなおるまい。
太宰に重ねていえば、彼は何度も自殺、それも一人で死ぬ度胸がないから女を巻き添えに心中を図った。最初は自分だけは生き残ったが相手は殺してしまい、最後の最後は情死して果てたが、この国も実は今のままでいけば衰弱のはてに自殺しようとしているように思えてならない。
彼の小説を好む現代の若い世代はその兆候を漠然と予感して、彼とのアイデンティティを抱えているのではあるまいか。
彼等がしきりに共感する太宰治の自意識の構造とは、自己否定による、実は自己愛。自己嫌悪による、実は己への愛着だが、私にはそれがなんともいじましく好きにはなれない。太宰の作品についての好き嫌いはあくまで個人のことだが、それが国家そのものの時代的性格となれば看過はできまい。
さらに太宰の虚弱な性格は、その跳ね返りとして他人からの説得を受け入れられない。具合の悪いことはへらへら笑って聞き流す。三島氏はある時彼の催していた会合にわざわざ出かけていき、「僕が今日ここへ来たのはあなたが嫌いだからですよ」と敢えていったら太宰はにやにや笑ってみせ、「それは君が、実は僕のことが好きだからだよ」といったそうな。そうした姿勢での自己平定、自己満足。これは他国からの愚弄を愚弄と受けられずに過している今の日本に酷似している。
これも昨今の日本のメディアの総じての日本論に酷似している。
これは実は対人恐怖症のメカニズムだと斎藤氏は分析するが、極めて日本人的な自意識のパターンともいえる。日本人の半分近くには対人恐怖症が潜在しているそうだが、それは当然外部からの自己遮断をもたらし限られたコミュニケイションをしか享受しえない。その結果日頃感じている孤独感は自業自得のものだが、それを自ら克服する意欲を持ちにくい。
国家としては、それで誰かを巻きこんでの心中とはいくまいが、今日の日本という国家の態様は、無為と愚痴の果てに野垂れ死にする浮浪者に酷似しているといえそうだ。
こうした内向性からの蘇生(そせい)はいつも外からの衝撃を安易に待つ、太宰の場合には文学賞を渇仰し、そのためにあられもない哀願の手紙を文学の先達たちに書き散らしたが報いられはしなかった。この国の場合には、過去さまざまな外圧に屈して多大な自己犠牲を強いられてきた。
その根底には被虐に通じる民族的な受動性がある。その民族性とは、前にも記したが日本の特異な風土がもたらしたものだ。日本を取りまく海は世界で最も危険な水域で、その証しとして、新聞やテレビに載る天気図に、年平均して毎日複数の低気圧、つまり嵐が記載されているような国はどこにもありはしない。加えて毎年二十近い台風が襲ってくる。ゆえにも日本を取り巻く海は世界一予測が困難で恐ろしい。私は世界中の海でヨットレースをしてきたからよくわかる。
かつて新しい文明を求めて大陸に渡って勉学した遣唐使、遣隋使たちが渡航の度に払った犠牲の痛ましさがそれを明かしている。
周囲を海に取り囲まれたこの国に住む人間たちの性格は故にもその海の険しさに抑圧規制され、あくまでも受動的な、自己主張に乏しいものになってきた。それは裏返すと冷静な相対感覚を欠いた被虐感に繋がっていく。
それを表象するのが、昨今の日本のメディアの傾向で、しきりに他人の弱点や挫折を暴いて喜ぶ嗜虐性は、実はそのままひっくり覆って社会あげての自虐性の露呈でしかない。
例えば不可欠な日米関係についてもアメリカの大統領の滞在期間が短いというだけで、世間体にこだわり自虐的に「日本パッシング」などと唱え回るが、その克服に何をするかなどという案は一向に出てこない。
こうした兆候は所詮「弱者」のものでしかないが、太宰文学の流行が示す若い世代の、弱々しさへの時代的な共感は彼等が担うはずの次の時代のこの国の衰運を予見させるような気がしてならない。
自己否定に依る自己愛も一種のナルシズムかも知れないが、それは自惚(うぬぼ)れにもならず、いたずらな内向をそそるだけで何を生みだすこともありはしまい。
さてこの閉鎖的な状況の克服のために我々は一体何を試み志したらいいのだろうか。将来私たちを足下から掬(すく)うような途方もない外圧が到来するかも知れぬ可能性はあり得るが、窮余の策としていたずらにそれを待つということでは国家民族としてはいかにも情けない。←引用終わり
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ハトヤマ民主党のポピュリズムが、まだ功を奏している事は、世論調査に顕れているが、ここから下へは急降下する可能性を秘めている。
「政策」というモノは、総合的な整合性が問われるため、「次善の策」や「切り捨て」を選択肢と持たなければ、政治など執行する資格がない。こんな事は子供でも知っている事だ。ましては辣腕の政治家であるトツベン・オザワは周知の事実だ。
政治の指導力とは、だれにも、どこにもニヤケタ「甘い顔」をする事ではない。
引用開始→ 内閣支持続落59%、「首相指導力ない」急増
世論調査
(読売新聞2009年12月7日03時00分)
読売新聞社が4~6日に実施した全国世論調査(電話方式)で、鳩山内閣の支持率は59%となり、前回11月調査の63%から4ポイント下がった。
不支持率は29%(前回27%)だった。鳩山内閣の支持率は初めて6割を切った。内閣を支持しない理由では「首相に指導力がない」が27%(同13%)に急増した。米軍普天間飛行場の移設問題で、鳩山首相が年内決着を先送りする方針を固めたことなどが影響したとみられる。
沖縄県名護市を移設先とする日米合意については「少しは修正する方がよい」32%(同32%)、「合意通りに進める方がよい」26%(同31%)、「大幅に見直す方がよい」26%(同19%)となった。「少しは修正」と「合意通り」を合わせ、県内移設の現行計画を軸にすべきだと思う人は6割近かった。
首相が偽装献金など自らの「政治とカネ」の問題について、説明責任を果たしているとは思わない人は85%(同73%)に達した。偽装献金問題は母親からの巨額の資金提供疑惑に発展し、首相に向けられる国民の視線は厳しさを増しているようだ。元秘書が起訴された場合の首相の対応については、「辞任する必要はない」が54%だったが、「辞任すべきだ」も37%に上った。鳩山内閣の政策に関してデフレや円高など今の経済情勢に適切に対応していると思う人は20%で、「そうは思わない」68%が大きく上回った。
行政刷新会議の事業仕分けを「評価する」は71%、「評価しない」は20%となったただ、今回の事業仕分けに問題があると思う人も63%いた。このうち、問題点として「仕分けにかける時間が短い」を挙げた人が39%で、「仕分け人の議論の進め方がよくない」20%、「対象とした事業が適切でない」「仕分け人の判断が適切でない」各17%が続いた。
民主党が衆院選の政権公約(マニフェスト)に掲げた内容については「必ず守るべきだ」は18%にとどまり、「守れなくても仕方がない」46%、「こだわる必要はない」34%となった。
政党支持率は民主42%(前回43%)、自民19%(同19%)などだった。←引用終わり
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