2010年4月30日の、ベトナムは、解放戦争勝利(サイゴン陥落)35周年!
ベトナム解放戦争で、あの歴史的な「南ベトナム政権の大統領官邸へ解放軍の戦車が突入する」シーンが、既に過去の物語になりつつあるベトナムはホーチミン市にも当然の事ながら、35回目の(ベトナム)解放記念日がやってきた。
1945年の日本の敗戦から解放戦争を始めたとして、解放戦争を闘った期間が1975年までで30年だった。
1975年から、今日まで35年の月日が既に経過した。
1986年に、現在の「ドイモイ政策」と呼ばれる「外資への開放政策」へ転換し採用するまでの10年にわたり展開された稚拙で急激な社会主義経済政策とその失敗による混乱、カンボジア戦争への介入と占領政策(カンボジア経済の再建)による国際社会での孤立、そして様々な重圧が、ベトナムを世界でも稀な最貧国に陥れてしまった。
国際社会の協力によりカンボジア和平がほぼ成立し機能し始めた1992年以降、ベトナムへの投資(FDI=外国資本の直接投資)が小規模ながらも本格的に開始され、ベトナム社会に活力が戻り始め、人々の眼に希望の光が灯り始めた。
それでも何もないスッカラカンになったホーチミン市(サイゴン)の市民は、抜かりなく隙なく、戻り始めた投資のための調査マンやら気の早い観光客へ手作りの土産物を売り込もうと必死だった。
いわく、①ハンモックであり、②木製のジャンクであり、③米軍兵士が残していったジッポーであり、④絵画であり、⑤手刺繍製品であり、⑥Tシャツであり、⑦椰子の実(ジュース)であり、⑧お姉さんという代物もあった。
冷蔵庫はあっても、基本的に「氷」を必要としたため、サイゴンビール「333」はヌルイままで冷たくするために、「かち割り氷」をビールジョッキに入れ「333ビールのオンザロック」だった。懐かしいねぇ~!
当時のサイゴンには、日本人など、ホンの数えるほどしかいなかった。
ハノイはなおさらの事で、両手を2回広げると間に合うほどだった。
どこへ行くにも、移動許可書を必要とした。
一回に申請用紙が3枚だったと記憶しているが、その枚数分だけ写真が必要だった。
だから、4月30日の解放記念日を取材に出向くにも、サイゴン(ホーチミン市)の行政区域から一歩でも出ようとするなら、移動許可書を申請する必要があった。
従って、「大量の写真焼き増しとヤマト糊にカーボン紙」が必要だった。
懐かしいねぇ~!?
それでも、夜半になると、どこからともなくホンダの名車「カブ」にうち跨った「ホンダガール」と呼ばれるお姉さん達が現れ、その日(夜)のカモを求めて妍を競っていた。
シクロのアンちゃん達も、組むグループの親方やらボスやら、因業なカネ貸しやら(金を借りた)に報いるために、オンザロード・イングリッシュやらジャパニーズを駆使し、(夜の)客獲得に余念がなかった。
ミンナ、今日を生き抜くために必死だった。
明日を生き抜くためにも必死だった。
公安(警察)も、実態を知りつつ見て見ぬフリもしていた。
しかし、建前だけは完璧だった。
1994年2月には、米国大統領の職にあったビル・クリントンが、ベトナムに課していた「経済制裁」の解除に踏み切った。
この年の4月30日は一段と輝きを見せ、希望に満たされていた。あれからでも既に21年の歳月が流れた。
今年も、ホーチミン市で統一宮殿と名前を変えた元の大統領官邸から「レズアン大通り」を通して「サイゴン動物園」方面を眺めると、何も変わらず悠然とした時間を過ごした懐の深さを感じさせられる。
この35年間に、ベトナムが味わった「勝利」「自信」「節介」「介入」「失望」「悲嘆」「喪失」「苦悩」「克服」「苦悶」「希望」「復帰」「建設」「苦闘」「再生」「獲得」「資源」「自信」「市場」「競争」「資本」「位置」「名誉」「地位」「栄誉」、それらが、彼らと共に歩んだ経験や光景として、混在しながら超速で自らの立ち位置と共に懐かしい音や臭いを伴う記憶として蘇ってきた。
ベトナムのスタッフ、友人、知人とともに、2010年の解放記念日を一緒に過ごせた事を祝福したい。
ベトナムは、地域社会(ASEAN)の中で積極的な位置づけを行い、地域社会の中で重要なポジションを示し獲得しつつある。
政治の中心がハノイにある関係で、南部の商都ホーチミン市(サイゴン)はビジネスで凌駕しようと懸命の取り組みというか格闘している。
マジェスティックホテルのバーを仕切る友人と「お互いに歳を重ねたね」と言い合い「乾杯」した。
いま、ベトナムの政治で日本に関わるテーマは、新幹線と原発の売り込みに、閣僚(大臣)が2名訪越してくるというネタが専らだ。
何よりも、日本は、「新幹線」と「原発」の売り込みに「資金」を準備するというワケである。
ベトナムが、これらの2大案件の推進で最も躊躇したのは「資金調達」であり「建設」であり「オペレーション」だったからである。
同時に、市場で交わされている政治批評のネタは「カムラン湾を使うのは、米国だろうか日本だろうか?」と手厳しい事実を、日本人と日本国政府は肝に銘じておく必要がある。
日本が、第二次世界大戦(太平洋戦争)を余儀なくされたのは、満州国の建国もあるが、ベトナムへ進駐し占領支配した事が間接的な要因になった事を十二分に心しておく必要がある。
ベトナム解放戦争終結35年目のサイゴンで、再び、複雑化し始めたインドシナ半島とその軸をなすベトナムとの立ち位置を、改めて考えたしだいである。
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