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2011/02/07

オワリ名古屋でカワムラ・ヒクシは再び市長、オオムラ・デボヒデが県知事当選に

これまでの「政治の枠組み」は着実に変化している。
間違いなく「変化」している。

地域のボスが指図し決まる「ボス型政治」が形成した閉塞感を打ち破る方向へ、地滑り的な変化が現れようとしている。
為政者の側に立つ者が、市民を煽り、市民に幻想を持たせ、市民の先頭に立ち、市民を叛乱させたワケである。
これに、マンマと「愚者愚者珍民」が乗せられたってワケだけどもネ。

ナニか、どこかに強い擬視感が残された。
そうだ、1968年を頂点にし1972年頃まで、全国の大学で展開された「全共闘」運動に極めて近似性を持つ基本構造ともいえる。
自らが自らを否定してみせる事で、抑圧され収奪され続けると考える(意識する・覚醒する)側を、扇動し組織する事で情勢を形成構築するワケで、掲げるテーマは一時的に共感性を刺激し熱狂させる事ができるけれど、それでは旧組織・旧体制を破壊解体した後に、ナニをどう、どのような手段(優先順位)で再構成・構築するかはワカラナイ。

取り敢えず、熱狂的に「ブッ潰す」事だけが目的と化しているのである。

それを「民主主義」と考えるか、「ボス型政治」を糾弾する市民叛乱による「ポピュリズム政治」というか、それは暫く見てみないと何とも判断できかねると言うか、ナンと言えばよいのかと考えるが、まぁ少なくとも、従来型の政治スタイルは名古屋で否定されたと受け止めるべきだろう。

端緒は、宮崎の県知事選挙に「マンマ山ザル」が、出馬し当選を手にした事で選挙スタイルが地味なドブ板の地上戦から、イメージ重視の空中戦へ移ったワケだ。

決定的に「ポピュリズム政治」が始まったってワケだ。

その後、大阪腐恥事にハシゲ・オチル、オワリ名古屋はカワムラ・ヒクシ、と続いたワケで、この間お騒がせ衆のヒトリで末席を汚していた横浜のナカタ・セマシは無責任に任期途中で放り出した。

まず、カワムラ・ヒクシは、オワリ名古屋市議会と事ある毎に対立し、遂に、市長を辞任し再選を市民に問うって行動に出た。
その際、愛知県知事選挙も同時に狙い、ジブントォのオオムラ・デボヒデを口説き落としタッグを組んで勝ったってワケだ。

4月には、オオカミ大阪腐恥事ハシゲ・オチルは「大阪不振の会」なるヘタレボケ地域政党を打ち立て、選挙戦を制そうと稚拙な策を弄し続けている。
毎日まいにち、ケンカ相手が必要なようで、ケンカ相手がいないと寂しくなるのだろう。
ところ構わず、相手構わず、府県を超えてケンカ相手を求め続けている。

周辺の知事やら市長で、この被害を直接受けなかったのは、京都府の山田知事だけだとウワサされている。
理論的にも勝てないとみて、ケンカを挑まないのだという。
(京都は、伝統的に「金持ちケンカせず」の土地柄で、出処身体も明らかでないハシゲなんざぁ、目に入らないというか相手にされないからであろう)

大阪腐恥事ハシゲ・オチルは、大阪市と堺市の解体を叫んでいる。
両方の市長は相手にしない。

そこで、「劇場型選挙戦」を挑もうって寸法らしい。
これに、一部の盲目的報道機関(マスゴミ)がくっつき、選挙戦を主導する方向を打ち出し狙っているようだ。

それに先立ち、オワリ名古屋でカワムラ・ヒクシとオオムラ・デボヒデのコンビが勝利したって事らしい。
「劇場型選挙」、「イメージ空中戦」で勝利したってワケだ。

「既存政党」・「ボス型政治」VS「砂上の珍民」・「非組織広汎型」は、とりあえず後者の勝ちって事になったようだ。

引用開始→ 愛知県知事選は河村氏と連携の大村氏
(産経MSN2011.2.6 20:02)

愛知県を舞台とする「トリプル投票」は6日、投開票され、任期満了に伴う愛知県知事選は、無所属新人で、名古屋で「減税日本」を立ち上げた河村たかし氏と連携する前衆院議員の大村秀章氏(50)=公明県本部支持=が、元総務省職員の重徳和彦氏(40)=自民支持、元総務省官房審議官の御園慎一郎氏(57)=民主、社民、国民新推薦ら既成政党の4陣営を破り、初当選を確実にした。

大村、河村氏らは、首長新党「大阪維新の会」を立ち上げた橋下徹大阪府知事と連携している。愛知県での勝利を受け、4月の統一地方選で、既成政党の存在感が低下する可能性が出てきた。←引用終わり
© 2011 The Sankei Shimbun & Sankei Digital

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コメント

言語は、考えるための道具である。
それぞれの言語には、固有の特色がある。
日本語には、時制がない。それで、未来時制もない。

日本人には未来のことが鮮明には考えられない。構文がないので常に未来の内容は混乱している。
結論も決断も下すことができない。
決断を慎重にするためではなくて、不鮮明で結論が得られないためである。

自分から考えることもできず、他人から伝えられることもない。
未来の内容そのものが、社会に存在しない為である。

未来の内容が脳裏に展開できないので、不安になる。
政治家も一般国民も理想社会の予測が立たない。
政治指導者の指導もない。

金の切れ目が、縁の切れ目としか信じられない。
人は信じられない。金を信じるしかない。
1500兆円の個人金融資産も社会資産となることなく宝の持ち腐れになっている。
金はあっても保育所には入れてもらえないようなものである。

英語の時制は、現実と非現実の内容を分けて考える作業に役立っている。
この作業は、英米の高等教育の課程で行なわれている。
現在時制の内容は現実であり、未来時制の内容は非現実である。

非現実の内容がなければ、人は無哲学・能天気になる。
神の意思に導かれることもなく、政治指導者の構想に導かれることもない。
大人になっても12歳の子供の精神状態にとどまる。
目先・手先にまつわる事柄ばかりを考えて生活することになる。

構想がなければ、備えあれば憂いなしとはゆかない。危機管理は、難しい。
一旦、問題が起これば、無為無策で閉塞感を味わう。
そのうち、何とかなるだろう。と見守る。
何とかならないのであれば、諦観に入る。
ああ、この世はむなしい。と漏らす。

こうした繰り返しが日本人の一生である。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

投稿: noga | 2011/02/08 05:33

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