石原都知事の警句、改めて「国難と闘い、日本を再生する」ため真摯に考える事は
偏狭な「言葉狩り」で存在感を示そうとする勢力と、その先駆けとして連帯する事を旨とするマスゴミは、何かと言えば注目を集める提起者が発する要旨全体を伝えることなく、言葉尻を捉え言葉狩りによる「非難」を集中する。
すると偏狭な「言葉狩り」により存在感を示す勢力が一斉に批判のボルテージを上げるという構図が定着して久しい。
とりわけ、その構図で最大のターゲットにされるのが、石原慎太郎東京都知事だ。
石原知事が「東日本大震災」に関わる発言で、日本および日本人全体が生活スタイルを含め見直すべき事がいくつもあると警句を発し指摘しようとした事は、厳しいバッシングを浴びせられ、何が何だか分からなくなってしまった。
また、1ヶ月前の知事選挙で再選が決まった時に、「節電」をテーマに発した言葉も反発と激しい非難を呼び起こす事になった。
いずれの警句も大局的な立場からすれば当然と考えられる内容だが、「反石原」の立場を維持する側には攻撃材料としてピッタリなのだろう。
そこで、「待ちかまえてました」とばかりに、一斉攻撃を仕掛け、狙いどおり警句の中身を吹き飛ばすようだ。
でも、落ち着いて冷静に考えてみよ、石原都知事の提起は真っ当な警句として受け止める内容だという事が分かる。
発言の一部分の言葉尻を針小棒大に捉え、発言者を攻撃し続ける「言葉狩り」は、もう止そう!もう止めよう!
発言者の意図や背景に攻撃性があるから反論しなければとの主旨も理解するが、それなら発言全体を捉え反証する方法で反論しなければダメだろう。
警句を発する側も、それなりの論証ポイントは押さえ発言しているのだから。
落ち着いてきたので、産経が報じた石原慎太郎東京都知事の発言について、記事内容を全文引用紹介し、警句を正面から受け止めると共に、改めて考えてみたい。
引用開始→ 石原慎太郎 国家再生のために
(産経MSN2011.5.2 03:25)「日本よ!」、と天が呼びかける声が聞こえるような気がする。私たちは今回の東日本大震災をどう受け止めるべきなのだろうか。この出来事を国家覚醒の大きなきっかけとして捉えなければ、この未曽有の犠牲が報いられることはあり得まい。
私は被災地への東京としての協力のために二度東北へ赴いたが、自分の足で踏みこんで眺めた被災現地の状況はまさに地獄絵だった。かつて講演のために訪れたこともある気仙沼の港町は、果てしなくつづく瓦礫の中に炎上した重油の残滓と死臭のただよう、天変地異のもたらした異形の世界に変わりはてていた。
遠洋漁業のための数百トンの巨きな漁船たちは津波に乗って町を襲い、建物をなぎ倒して町並みの奥に転覆していた。私が出会ったある水産加工業者は、自分の家と工場のある建物に向かって突っ込んできた巨大な漁船が、間一髪家からそれて、斜め後ろのさらに大きな建物を一瞬にしてなぎ倒して過ぎるのを建物の屋上から固唾をのんで見守った恐怖を語っていたが、何に例えようもない光景だったろう。それは彼だけではなく被災したすべての人々がそれぞれ味わわされたことに違いない。
加えてこの国の経済産業を支えてきた原子力発電が、その存在意義の是非についての危うさに晒されている。佐伯啓思氏が本紙に記していたが、この日本に二つの原爆を投下し瞬時にして数十万もの非戦闘員を殺戮(さつりく)したアメリカが開発した軽水炉を拝受してきた日本が、それのもたらすエネルギーに依って経済発展もとげ、アメリカ的価値、例えば彼等が主唱する市場原理主義をも疑うことなく取り入れ、それによる収奪に甘んじてきたこの国を突然災害が襲い、従来の衰運に拍車をかけようとしているという、苦い構造。
享受してきた平和と安寧なるものが危機に晒されている今、被った被害の復元に努めるだけではなしに、私たちはもっと根源的なものへの反省と修復を志すべき時に至ったのではなかろうか。それは国家存立のために絶対必要な国防という要因に関する安易な他力本願や、そのすり替えに享受してきた薄っぺらな繁栄、そしてそれを促進してやまない我欲、物欲、金銭欲、性欲の氾濫と、それにおもねり続けてきた政治の安易なポピュリズムを淘汰(とうた)する決心をしなければ、この国の真の復興、復活などありはしまい。
自分を産み育ててくれた父親の弔いもせずに三十年も放置してミイラ化させ、その年金を詐取してはばからなかった家族なるものはこの日本以外には存在し得ぬ人種に違いない。多くの日本人の芯における堕落をこれほど象徴した事例を私は知らない。あの事件が発覚した前後にテレビで見たアフリカ象に関する番組では一族の長老の死に臨んで一頭々々子象までが長い鼻で死骸に触れて別れを告げる象たちの姿が映しだされていたが、畜生ですら行う親族への弔いもせずに放置する者たちに人間としてのいかなる資格があるというのだろうか。
今回の大災害からの復興には現地の被災者たちだけではとてもかなわぬ、国民全体での協力が不可欠に違いない。それは端的に、国民一人々々が自らの我欲をこらえて節制することだ。それによって国民の誰しもが人生の中での堪え性、耐性をとりもどし、ひいては国家そのものが耐性をとりもどし、国家としての品格と存在感を示すことが出来るようになるはずだ。
原発の事故は当然節電を強いることになるだろうが、従来我々が享受してきた生活の中で実は不要な電力の消費は多々あるはずだ。たとえば町中に乱立している自動販売機の消費電力は二十六万キロワットと膨大なものだし、日中からにぎわっているパチンコ店の消費電力も八十四万キロワットと、合わせれば百万キロワットを上回る電力は福島第1原発1号機の二基分以上だ。自販機協会の幹部はテレビで、我々は電力を消費はしているが浪費はしていないと嘯(うそぶ)いていたが、業界そのものの存在意義がとわれているのに、治安の良さもあってだろうが、町中いたるところに自動販売機が乱立している国など世界のどこにもありはしない。
自動販売機からの清涼飲料水の供給は他に代えられるし、パチンコの営業は電力消費のピーク時から変えて深夜にでもしたらいい。ちなみに在日韓国人に経営者の多いパチンコ業界が母国の韓国にこのゲームを持ちこんだら、韓国の当局はこれが流行すると国力の低下に繋(つな)がりかねぬと、かの地では禁止してしまった。
国家の産業、経済は複合的に運営されるもので、業種の社会全体にとっての優劣は自ずとあり得よう。有事の際それを裁断するのが政府であって、かつてオイルショックの際行われた国民の消費への政令による具体的な指導を、今の政権がなぜ行わないのか理解に苦しむ。ただ電力消費の何十パーセント削減などという抽象的な指導でことは動きはしない。我々が今までなじんで来た生活の様式を、反省とともに具体的に変えていくことこそが、今この事態から国を救い立ち直らせていくよすがになるはずなのだ。国家の最高権威たる政府が歴史的自覚の上に、明確、具体的な政令を発してことに当たるべきなのだが、一体何に遠慮しているのだろうか。政府による正当な権限の行使は決して専制でありはしない。強い指導力の表示があってこそ国民は安心してそれに従うのだ。
天は今、国家再生のためにこの民族が甘えを捨て、己を抑制することで従来の資質を発揮することを命じているのだと思う。被災した現地で、刻苦しながら立ち上がろうとしている同胞の姿こそがその範を示してくれているではないか。←引用終わり
© 2011 The Sankei Shimbun & Sankei Digital
3月11日に、主として東北と関東を巨大地震が襲いました。当初は「東北・関東大震災」と呼ばれましたが、やがて「東日本大震災」と呼ばれるようになりました。
いずれにしましても、例を見ない「巨大地震」でした。
その後、大震災対応もあり、「コラコラコラム」は4月上旬まで21日の間「休筆」させて頂きました。
「コラコラコラム」は、アクセスを頂戴する多くの方からのご要望を受け、ほぼ毎日更新(毎日スレッドを1本公開)するを原則に運営してまいりました。
しかしながら、21日にわたる「休筆」を余儀なくされました。
2月末~3月上旬の休筆分を含め、早期に回復を図る予定です。一日も早く従来どおり、ほぼ毎日1本を維持させて頂く予定です。よろしくご支援下さい。
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コメント
親戚が津波の被害を受けたので見舞いに行ってきました。津波後50日経っていましたが、現場に着くと足がすくみました。
まさしくめちゃくちゃになった戦場の跡。上物がすべてなくなった「遺跡」にも感じられました。
アルバムをリンクしました。
コラコラコラム楽しみにしていますよ。
投稿: 度欲おぢさん | 2011/05/16 23:21