京都・亀岡の「無敵のヒト」が引き起こした無免許暴走事故にみる日本社会の劣化
昨日の朝、京都府亀岡市で暴走交通事故が起き、その被害にあったのは「集団登校中の小学生」と付き添い見守る母だった。
加害者は、18歳の無職無免許ヤロウ、それに同じ歳の大学生と専門学校生だという。
学生の二人は運転免許証を持っていたのか、持っていたとしても取得後の年月は長くないと考えられる。
無免許の無職ヤロウが運転していた軽自動車ワゴンが、登校中の小学生の列に暴走激突したという。
その結果、小学生が1人死亡、付き添いの母が1人死亡、この母は妊娠7ヶ月で、母胎の中の子も死亡という。
ナンで、どうして「集団登校」が必要なのか!?
なんと、運転していた無免許の無職ヤロウは「居眠り運転」だったという。
その理由たるや、「一晩中ほとんど休まず、三人でドライブしていた」と。
京都府警は、無免許無職ヤロウを逮捕したのは当然で、大学生と専門学校生も「無免許運転幇助罪」で逮捕したとのこと。
日本の劣化、日本人が劣化している。
その証明みたいな事故ではないのか?
最近の日本は、社会的能力が著しく低下し喪失させている。
日本の社会も、自らに直接関わる事でなければ、素知らぬ顔で「無責任」ではないか?
何よりも不可思議な事は、加害者は18歳かも知れないが、なぜ実名を公表しないのか?
例えば「万引き」などの軽微な「単純窃盗」というような犯罪ではない。
無辜のヒトを殺めたのである。過失かも知れないが、全てが「過失」で処理されたなら、「生命」を奪われた側は「やり切れない」のではないか。
無職は自らの責任ではないとの主張があるかも知れない。
それでは無免許運転は社会の責任か。自らの責任ではないのか?
運転を誤る事を予見しない、予見できない、その無責任な思考能力こそが、ヒトとして著しい劣化を示しているんじゃないか。
どうすれば、この種の「無敵のヒト」を社会は抱え込み協働していけばよいのか?
大変難しいテーマを見せつけたのではないか?
もう一点、
事故が起きた道路(幅員6メートル)は、国道9号線と並行しているそうで、朝夕のラッシュ時には「バイパス」代わりに走行する車が多いという。
道路が狭いため、側溝に蓋を被せ歩道を確保した上で「集団登校路」を確保したとの説明をしていた。
それでも、事故の可能性を打ち消せないため、朝の通学時には「一方通行」へ規制しているそうだが、その結果、通過する車のスピードが上がり「事故発生の可能性は上昇」したとも言われている。
それらは、全て「善意」の懸念であり、「善意」の議論であり、「善意」の策であるといえる。
社会の善意は、その社会を形成するヒトが、その社会が規定する「規範」を遵守するであろう事を予定(想定)し成立している。
そこに「無敵のヒト」が現れ、自らの人生に無自覚なまま、社会の「規範」破りに挑戦すると一溜まりもなく崩壊させられるのだ。
そして必ず、「こういう事故が起きるのではないかと、常々、指摘されていた」とする地域社会のコメントだ。
この種のコメントを聞かされると、思わず「面喰らわされる」という事だ。
日本の社会は、「ヒト柱」が建たないと、社会や仕組みを改善しようとの姿勢に欠けるように見受ける。
それ自体が「日本社会の劣化」を表しているようにも見える。
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