引用開始→ 日本の国会前のデモがうらやましい中国人「政府に反対するデモなんて中国では考えられない」
(2015.10.6(火)姫田 小夏)
国会前で安保法案反対デモ
日本の国会前で行われた安全保障関連法案に反対する抗議デモ。その様子を中国人はどのように見ていたのか(2015年9月18日撮影)。(c)AFP/KAZUHIRO NOGI〔AFPBB News〕
中国で安倍首相はいまや独裁者扱いだ。「日本の軍国主義復興の父」──それが安倍首相に貼られたレッテルだ。
中国のメディアが矛先を向けたのは日本の政治であり「民主主義の限界」である。中国流の専制国家体制を信奉し西側の民主主義に懐疑的な学者たちは、この機に乗じて「多党制の政治が民主主義だというが、それは偽りだ」と民主政治への批判を展開した。
安倍政権による法案採決を見て、中国人は「日本は民主国家と言えるのか」と非難の声をあげた。だがその一方で、今回の日本の政局の混乱は、中国人が「民主政治とは何か」を考えるきっかけを提供することにもなった。
安保関連法案の是非ではなく、可決に至る「過程」を見て「やはり日本は民主国家だ」と納得した中国人も少なくなかったのである。
デモ隊に日本の民主主義を見た中国人
8月末、日本の国会議事堂前に安保法案通過に抗議するデモ隊が押し寄せた。十万人規模(主催者側発表数)とも言われる抗議活動の様子は中国でも報じられ、注目を集めた。
日中の政治動向に高い関心を持つ中国人の1人、呉洋さん(仮名)は、一連の報道を見た印象をこう語る。
「国会前を取り巻いて反対デモをするなどとても考えられない。中国では中南海を取り巻くことにも等しい。そんなのはご法度中のご法度だ」
ちなみに、過去に一度、ある宗教団体がこれをやってのけたことがある。だが、その団体はそれ以降、中国で存続する道を絶たれてしまった。
また今回、日本の国会では議員たちが入り乱れて“乱闘”するようなシーンが見られた。呉さんによれば、これも中国では考えられないという。中国では、立法府である全国人民代表大会(全人代、国会に相当)が最高の権力機関を担う。その進行は「手を挙げるか、手を叩くか」で終わる「両手会議」だとも言われる。乱闘や混乱は決してありえない。
こうした違いもさることながら、さらに呉さんの注目を引いたのが「日本の日常はいつもと変わらない」点だった。
「与野党が対立して国会が混乱しても、国全体が乱れることはない。首相が交代しても同じだ。日本はコロコロと首相が変わるが、パニックにはならない。これが中国ならどうか。強力な指導者を失えば、国はたちまち大混乱に陥ってしまうだろう」
呉さんは必死の叫びを上げたデモ隊にも共感を示した。
「国会前に集結したあのデモ隊に、私は情熱を見た」
今の中国に欠けているものがあるとすれば、この「情熱」であろう。言うまでもなく中国では、市民が社会や国の運営に参加することはできないし、それを可能にしようとする市民の「情熱」も存在しない。
「中国人の私からすれば、デモ隊が国会前に居座ったことは、それだけでも日本が民主主義国家だと十分証明できるものだ。ネット上でも、多くの中国の知識人が注目していた」(同)
中国にはない、違憲をめぐる論議
一方、安保法案の可決に関しては、中国では多くの電子メディアが「違憲」を強調して報道していた。
200人の憲法学者が安保法案を廃案にすべきだとしたことや、1万人以上の学者や研究者が『安全保障関連法に反対する学者の会』に署名したことなども報じた。
だが、これら報道は、日本の報道をそのまま中国語に翻訳したものに過ぎない。そもそも中国では、法律が「違憲かどうか」について議論が起こることはほとんどない。「違憲」という言葉に反応する中国人もほとんど存在しないのが実状だ。だから、中国の記事が「違憲であるにもかかわらず」と伝えたところで、中国の国民には問題の大きさがなかなか伝わらない。
ある学者は論文でこれを丁寧に説明していた。そこにはこうある。
「戦後、日本は憲法を核心および基礎とする国家メカニズムと制度を確立した。これにより、憲法は日本国内で至高の地位となった。70年の発展を経て憲政体制と法治観念はすでに深く人心に浸透し、日本国内のいかなる改革や立法措置も、憲法が決めた枠組みのなかで厳しく推し進められることとなった。ひとたび政策に違憲の疑いがあれば、それは審査を受け、違憲の恐れを消し去らなければならなくなる」
憲法は飾りに過ぎない?
では、中国では憲法の位置づけはどうなっているのか。
中国の「全国人民代表大会組織法37条」は、全人代が交付した違憲審査内容を専門委員会が審査することを規定している。だが、それはほとんど実現していないと言われている。
これまで中国では、団体や個人による違憲審査請求など出されたことはない。地方条例に至っては、明らかに違憲の疑いがあるにもかかわらず、違憲審査が行われたことはない。ましてや、改革開放後に多くの経済法規が次々と立法化されたが、「違憲か否か」はまったく審査されててない。
中国では「全国人民代表大会」(全人代)が最高権力機関であり、最終的な解釈権は全人代にある。全人代の「法律委員会」がこれを負うとされるが、違憲審査について強い力を発揮することはない。
一方、中国では「『紅頭文件』が最高の法だ」と言われている。共産党が、赤い文字で表題が打たれた1枚の紙切れ(俗に「通知書」と言われている)を発行し、それがすべてを決定するのである。
違憲解釈を妨げているのが中国の現行の政治制度であることは言うまでもない。自由主義学者の1人である顧粛氏も論文で「違憲審査機関が行ったいかなる審査決定も、通知書の前には無力である」という現状を指摘する。
中国では「憲法は飾りに過ぎない」と言われている。中国市民も「大人なら誰でも知っている」と、その現状を受け入れている。憲法では言論の自由が保障されているが、自由に発言すれば悲劇しか訪れないことは、この国の国民なら誰でも知っている。
そうした中国人にとって、今回の日本の「安保法制」反対運動は極めて刺激的であり、ある意味“衝撃的”とさえ言えるものだった。
憲法を守ろうと抗議活動に乗り出した日本人の姿は、多くの中国人の憲法観を揺り動かした可能性がある。少なくとも憲政と法治の価値、重要性を目の当たりにしたはずである。
上海ではタクシー運転手や食堂のおばさんまでもが、日本の反対活動を知っていた。
彼らは安保法案に反対する日本人の姿を失笑の対象にしたのか、それとも、憲政と法治が人心に浸透した「国民としてのあるべき姿」と受け止めただろうか。果たして21世紀の中国において、本当の民主主義は動き出すだろうか。←引用終わり
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