自意識過剰な「ミギとヒダリ」のクズドモは『令和』に対し煩い限りで辟易させられるワ!
新元号「令和」について、色々様々な自論が開陳され賑やかな事だ。
思考や原案や過程を取材し報じる人(機関)があり、それに対し
「寄らしむべからず、知らしむべからず」を主張する人があり。
一方で、令和を取込み「祝意(記念)商品」売り出す商魂の逞しさに目を見張ったり。
各新聞社が刷った「号外」を奪い合う姿が報じられたり。
今日(4/03)は、選定に至らなかった残り5案が報じられる。
ご皇室、ご皇族、それらに関わる御代の事、政府に関わる事を、形式主義の厳粛さだけを中心にした考えも理解するが、日本の社会を形成するのは幅広い庶民であり、皇室でも皇族でも政府でもない。自らを含む多様、多彩な庶民なのだ。
ご皇室は、その基盤を最大に形成する「民」や「国土」の安寧を大切に重視する精神文化の中心にあるのだ。
狭い狭い阿呆丸出しの「ミギやヒダリのクズダンナ」ども、
ヤイヤイ言うな世! 見苦しい輪!
熱狂を見て、日本の社会文化が強く支持されるのは、
日本人は、自らの社会文化を誇りとして秘めており、真に強く逞しく何より平和を愛しているのだと嬉しくなります。
そんな今日の「春秋」です。
引用開始→ 春秋
(日本経済新聞2019年4月3日付け)明治45年(1912年)7月。天皇の危篤を伝える号外を手にした日の夏目漱石の日記だ。「当局の権を恐れ、野次馬の高声を恐れて、当然の営業を休むとせば表向は如何(いか)にも皇室に対して礼篤(あつ)く情深きに似たれどもその実は皇室を恨んで不平を内に蓄うるに異ならず」
▼日記を要約すると――。夏の風物詩、隅田川の花火を中止した当局の対応は非常識だ。娯楽を禁じても病状は回復しない。営業停止はかえって天皇の徳を傷つける、と批判。返す刀で新聞はしっかりしろ、とバッサリ。さすが当代一の文明人だ。思えば、私たちは昭和の終わりに「自粛」という形で同じことを繰り返した。
▼翻って、なんとも気軽な世間の新元号の受けとめだ。ツイッターで、飲料や菓子メーカーが「令和」と印字した商品を提供する、との報が拡散された。だまされまい、と疑った。が、本当だった。元号をコミュニケーションや消費の手段として楽しむ。表現や経済活動が萎縮した昭和末期の閉塞感を知る身には隔世の感だ。
▼天皇の寿命と代替わりを切り分け、社会の混乱を抑えたい。天皇陛下はそんなお気持ちもにじませ、退位が実現する。5月1日の改元の瞬間、どんな光景を目にするのか。東京・渋谷の交差点で若者たちはハイタッチを交わし、盛り上がるのか。漱石先生なら、自粛に身をすくめるより、よほど文明的だと評するだろうか。←引用終わり
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