「阪神・淡路大震災」 神戸を襲った大震災から26年、その間に中越地震、東日本大震災、熊本地震、大阪北部地震と、ほぼ5年周期で巨大地震が襲う
「阪神大震災」
あれから26年を経つのだなぁと!
悲しみも、悲しみも、幾年月かが過ぎゆき、
改めて振り返り、余りにも「いろいろ、サマザマ」ありました。
無事に、生き延びられた事に、先ずは感謝し、できる限りの応援に回った事を思い出しながら、明日、明後日(震災の日)を迎えたく・・・・・
この記事↓を、心を込めて「引用紹介」させて頂きます。
「人と防災未来センター」で、地震災害の被害(悲惨)を共有なさって下さい。
そして、阪神大震災から起ち上がる心を唱う
「しあわせ運べるように」と、ご活躍下さい。
白井 真 先生の「楽曲」は、26年を経て、神戸市の「市民の歌」になりました。
白井先生は、この春に定年退職されるそうです。
しかし、神戸の子供たちは「しあわせ運べるように」を受け嗣ぎ、
歌い続ける事でしょう。
引用開始→ 震災体験伝え続ける 阪高で落下免れたバス運転手
(2021/1/15 17:00神戸新聞NEXT)26年前の1月17日早朝。阪神・淡路大震災で倒壊した阪神高速神戸線で前輪が宙に浮き、辛うじて高架部分に踏みとどまったバスの写真は、日本中に大きな衝撃を与えた。ドライバーの一人として乗車していた帝産観光バス(本社・東京)京都支店の安井義政さん(59)は「偶然が重なって(車体が)踏みとどまった」と振り返る。(太中麻美)
冬のスキーシーズンで、毎日のようにゲレンデへのバスが運行されていた。安井さんは先輩ドライバーと2人一組で、14日夜に信州へ向け出発。16日夜、関西への帰路に就いた。
大津、京都、大阪で乗客の大半が下車し、最後のバス停となる神戸へ向かった。車内には女性客3人と先輩、自分の計5人。先輩がハンドルを握り、安井さんは隣の席に座っていた。
突然ドン、と衝撃が走り、空がフラッシュをたいたように光った。その後は上下左右に激しく揺さぶられ、目の前には空と高速道路の路面が交互に飛び込んできた。「ブレーキが利かない」。先輩が叫んだ。
バスが止まると、目の前の道路がなくなっていた。対向車線のトラックが高架から地面に落下し、炎上している。自分たちのバスは、車体下のエンジン部が道路にひっかかっていた。「乗客がもっと多ければ、ブレーキが利きづらくて落下していたかもしれない」と安井さん。乗客と後部の非常ドアから車外に出ると、周辺のあちこちで火の手が上がっているのが見えた。
高速道の非常階段から地上に降り、公衆電話から支店に電話し状況を説明したが、宿直の社員に「そんなはずないやろ」と返された。京都には情報が伝わっておらず、にわかには信じてもらえなかった。先輩とコンビニで使い捨てカメラを買い、現場近くの地上からバスを撮影した。周囲にはガスの臭いが漂っていた。
まず大阪まで戻ろうとタクシーを探し回り、昼すぎに大阪の淀屋橋までたどり着いた。わずか十数キロ離れただけの大阪の街では、普段通りに人が行き交う。飲食店で昼食を取り、京都行きの私鉄に乗った。乗客の男性が手にした夕刊に、自分たちのバスの写真が大きく掲載されていた。「僕たちこれに乗ってたんですよ」。そう話すと驚かれた。
京都の支店まで帰り着いたのは夕方だった。「よく無事だった」。同僚に迎えられ、号泣している社員もいた。
その後、「落ちないバス」に乗務していたことが広まり、修学旅行を担当した際には、先生から声を掛けられて生徒に体験談を語ったこともある。コロナ禍を受けて同社が企画した「オンライン修学旅行」では、人と防災未来センター(神戸市)を訪れ、バスガイドからのインタビューに答える形で当時の様子を語る。
「語れるのは無事だったからこそ」と安井さん。「あんなひどいことが、二度と起きてはいけない。震災をもっと全国の人に知ってもらえるよう、会社にいる限りは伝えていきたい」と話す。←引用終わり
それぞれの「追悼」 それぞれの「絆」 それぞれの「想い」
あの「大震災」から、悲しみと、苦しみを、乗り越え歩んだ26年です。
生き存え、今日まで生命を繋ぎえた者として、
必要な「知恵」を、様々な機会に、様々な場で、次に伝えたい。
神戸は「国際都市」だと・・・・・・・
いずれの国籍を持つ人も、人としての「生命」を、区別せず、差別なく、繋ぎ続ける「誇り高い都市・神戸」である事を。
引用開始→ 阪神大震災26年、神戸で追悼「がんばろう」 つなぐ教訓
(日本経済新聞2021年1月17日 8:07更新)阪神大震災から26年となった17日、犠牲者を追悼する「1.17のつどい」が開かれた神戸市中央区の東遊園地では遺族らが静かに手を合わせ、冥福を祈った。「がんばろう 1・17」の形に並べられた灯籠にろうそくの火がともされ、地震発生時刻の午前5時46分に黙とうがささげられた。
阪神26年・東日本10年 震災の教訓は生かされたか
新型コロナウイルスの緊急事態宣言下となった今年は、兵庫県内各地で追悼行事が中止や規模縮小となった。「1.17のつどい」は感染防止対策として来場者の分散を促すため、例年より1日早めて16日から開催。会場での遺族代表や市長の追悼のことばを取りやめ、神戸市のホームページで原稿と動画を公開した。灯籠の明かりで浮かび上がった「がんばろう 1.17」の文字(17日、神戸市中央区)
遺族代表の日本舞踊師範、加賀翠さん(65)=神戸市東灘区=は、全壊した家の下敷きになった長女の桜子さん(当時6)を亡くした。追悼のことばには、いつも笑顔のまな娘が近所の人から「街の太陽」と呼ばれていた思い出に触れ、「だから私も泣かずに笑顔を心がけています」とつづった。最後には「32歳になった姿を見たいです」と母としての気持ちを記した。地震発生時刻に合わせて黙とうする遺族代表の加賀翠さん(右)(17日、神戸市中央区)
兵庫県加古川市の介護士の佐藤悦子さん(57)は、震災で神戸市須磨区の実家が全焼し、一人暮らしだった母の正子さん(当時64)の行方が今も分からない。「母の遺骨が見つかっていない私にとっては、年に一度の『つどい』が母に手を合わせる唯一の場所。今年も献花に来られてよかった」と話した。神戸市灘区の高校生、迫田希琉さん(17)は、当時学生だった母親が友人を亡くし、被災体験を語り継ぐ団体の一員として活動する。「コロナ下で規模が縮小されても、追悼の思いを届けたいという人が多くいることを感じた。身近な人を災害で亡くしてしまうことを忘れてはならない」
久元喜造市長は神戸市のホームページで公開した追悼のことばで「緊急事態宣言が発令される中で1月17日を迎えた。震災の教訓をどのように次の世代に継承していくのか、大事な課題になっている」と語り、今後も追悼行事や若い世代も含めた防災訓練に力を入れる考えを示した。
「慰霊と復興のモニュメント」に設置された犠牲者らの名前が刻まれた銘板を見つめる遺族(17日、神戸市中央区の東遊園地)
阪神大震災は災害支援の仕組みが生まれる契機となった。ボランティアが各地から神戸に集まったのを受け、1998年に活動を後押しする特定非営利活動促進法(NPO法)が成立。初期医療が遅れた反省から医師や看護師らでつくる災害派遣医療チーム(DMAT)が普及するきっかけにもなった。ボランティアやDMATは2011年の東日本大震災や16年の熊本地震などでも活動し、被災地支援に欠かせない存在となっている。
一方、阪神大震災では神戸市長田区などで火災が発生し、木造住宅が集まる「密集市街地」の危険性が指摘された。国は解消を目指しているが、全国になお約3000ヘクタール(19年度末時点)が残されている。災害に強いまちづくりなど防災の取り組みに終わりはない。
震災犠牲者を追悼し、竹灯籠に火をともす女性(17日午前、神戸市中央区の東遊園地)
(大阪社会部・堀越正喜、川野耀佑、高橋直也 大阪写真映像部・小川望、松浦弘昌、玉井良幸、目良友樹)←引用終わり
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