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2021/02/05

かつて大阪の船場で不動の老舗商社が、戦後最大の経済事件を経て、30年間に切り刻まれ解体され、間もなく統合会社も跡形もなく消滅させられるのか?

昨日(2/04)に、あるSNSで有力な友人が、某社の近況を投稿。
それによると、27年前に船場の老舗だった商社が「解体同様」に、より上位のグループ内の事業者へ(売却)統合され、名を捨て一応の面目は保つ事ができたが、大きな金融グループの再編は進み、有無を言わせず上位の経営統合がより大胆に進み、時間をかけ川中~川下まで統合は猛烈に進み末端のリテール事業などは、含み益のある間に切り放しや叩き売りの連続だった。


当該会社が傘下に抱え支配した事業会社を、当該老舗商社と銀行の要請を受け、事業改革(収益改善)を助言し、(銀行が)目標に掲げた収支改善を得た段階で「損切り」し、有無を言わせず合法的に事業清算し会社を解散した。


同様の措置に至った会社は、一定の数があったのだろう。


戦後最大の経済事件とされる、在日朝鮮人らに依る一大詐欺(企業資金の取込み)事件から約30年の歳月が経過した。
それは主力銀行から送り込まれた、地を這う「小番頭」程度の小心者が場違いな間違いを連続的に行った事を、送り込んだ銀行が、これまた当該銀行を超然と支配し「天皇」と称せられた間抜けな頭取も一体的に加担した、冷静沈着な思考能力さえ保つなら天下に恥じる事件は起き得なかっただろうし、当該会社の売却統合も解体もあり得なかった。


その銀行も、今や別の(元)財閥銀行と統合され、日本語表記名では名を取ったが、英文表記では実も得られず名も体面もなくした。


当該会社は、1980年代でも、丁稚見習い、丁稚、手代見習い、手代、手代頭、小番頭、中番頭、大番頭が並ぶ中堅商社だった。
人材の多くは、高卒者から大卒者に切り替える頃で、銀行(頭取)が社長に送り込んだ人物も高卒人材だった。
基本は、兵隊で、しかも「向こう傷」は問わないと叱咤激励される「突撃兵」だった。
全てが「突撃」の競い合いで、無警戒が産み続ける死屍累々の毎日だったのではないか?


当該会社の外郭には数々の傘下会社や協力会社があったと理解していますが、その一つの有力会社へ追いやられた創業家の人材があり、人を介し依頼を受け「マーケティングとマネジメント全体」を助言していた途中で、当該会社の再建に向け(事件当事者の)銀行は「創業家(一族)」の名を利用し、市場での信用保全や社会的な人心保持に向け会長に就けた。


その時に、御自身で必要な舵切りをできると考え「意欲満天」だった。
当該会社の「会長室」へ招かれ訪ねた際に、周囲を囲む秘書役は、無言で一言一句を記録し壁である事を訪問者に示唆していた。
案の定、大きなグループ上位の会社へ事業統合するまでの飾りに過ぎず、小額費用で名を得るだけの社会活動以外は関与させなかった.いわば「名」を活用した「座敷牢」幽閉とも言え、銀行の徹底した怖ろしさを感じ、背筋に言いようのない戦慄を覚えた。


此方もイロイロ詮索されるのはイヤだから、然したる意味を持たない息抜きの「雑談」以外のお付き合いは丁重にお断りしました。


その後、当該会社は前述のように、より上位の事業会社に経営統合され、末端の役員に名を残すのみで社会を退いた状況へ追いやられた。


次は、生涯を閉じられた葬儀の式場へお邪魔し、顔見知りの奥方およびご長男とお目にかかり黙礼するのみだった。


だけに、ナンとも言えない寂寥感を禁じ得なかった。


そして、結局は保険の統合、金融の統合により、下っ端の当該会社は切り刻まれた挙げ句の果てに、保険と金融を軸に売り払い含みで東京の大商社と連繋を進めるとの事だった。

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