日本の祭礼文化は日本人の生活律が産み出した「自然神」への尊崇と感謝の表れであり、困難に立ち向かう際の「心の拠り処」ともいえる!
「祇園祭」をSNSで触れましたところ:
「京都は年中『祭』なのですね」とのメールが。
京都ではじゃなく、日本ではの間違いなかと訂正し返事を申し上げました。
古来より、日本人の生活律に刻まれた、日々を安寧に「生きる」ことへの願いや、また喜びや感謝を、自然(神)への「素朴」な形で「謝意」を表し示し生活しています。 (してきましたと言うべきかと・・・)
自然を司る「自然神」を祀り、日々の生活(くらし)へ共に取り入れ、自然な形で生きてきたのです。
その自然神を様々な形や方法で具象化し命名しながら、実は多くの日本人は自らの「心」の中で大切に祀り、自身の「心」の支えともしてきました。
それは、それぞれの皆様を育んだ地域の「神」であり、地域(故郷)が大切に祀り尊崇してきた「神」なのです。
古来より「都市」を造営する際に、
「風水」などを考え、必要な場に「鎮守」を形成し「基軸」においてきました。
「祭」は、1年の中で「例大祭」を中心に地域全体の「生活律」を形成してきたのです。
日本の生活律を支配するのは「月暦」でした。
近年の切り換えは「陽暦」との併用を行い、毎月(12ヵ月)の暦日と共に、「二十四節気」と「七十二候」を併用する方法で、いわゆる陽暦の週に該当する方法を用いる事で、稲作農業の生産を管理していました。
その「生活律」に、しっかり「箍」を嵌め締めるのが「祭」なのでして、
各地に伝承される「祭」は日々、月々、年々歳々のリズムであり「感謝」であり「喜び」の発露なのです。
基本的に、それらの過程での「所作」を、表現形態を形式化したり、賑やかに「風流化」する事も含め、日々の生活の中に定着し整えられ、豊かになると共に「装飾性」を高め、多くの参加者や参与者を増やしつつ、無駄や面白くない部分は自然に捨象され、その時代環境に合わせ改良を加え、現代に受け継がれ伝承されてきたのであり、日本人の生活(くらし)の智慧が集積され「魂」ともいうべき「紐帯」を確認するものが「祭」ではないかと。
概ね指摘質問には、このように返事をしました。
京都の洛中では、
地域社会の紐帯を大切にし、例えば「町名表記」でも、合理的でも味気ない「町名」は徹底的に排除し、
古来より受け継いだ「町名」を、例えば「函谷鉾町」や「月鉾町」というように、大切な「紐帯」を表す「名」を、今も用い続けています。
捨てるのは簡単ですが、捨てた「魂」は二度と元へは戻らない、戻せないのです。
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