数学が苦手な人は、データが表すリアルを捉える事ができず、何事も情緒思考で解釈し吟遊詩人のように現実から逃避し全くズレたまま足を引っ張る
大学教育で「数学思考」は不可欠です。
統計数値は現実(リアル)を容赦なく表し示す。
従って「大学入学選抜試験」で「数学」を課すのは当然で普通の事かと。
自身は「数学」が大の苦手で悪戦苦闘が連続する地獄の苦しみだった。
できる者は「天才」に見え、できない者には「天災」としか思えなかった。
それでは実際の姿が把握できないと、事実を識り押さえるために、自らの数学的思考の向上訓練に取組み苦闘し、一定の必要な水準に達し得る事ができた。
しかしながら、世間では「数学」を忌避し回避するヒトが多く、情緒的な思考に浸りたがる傾向があり、事実を事実として見ず、希望的観測で「願望」を述べるが、それを実現するための裏付けも検証もなく、大凡の最後は「それは、ヤル気がないからだ」と、実に醜い精神論というか精神主義を堂々と主張する。
それらの輩を相手にする都度、大いに閉口させられ、受託した業務をお断りする事が多かった。
分かった事は、
「数学」は日々の積み上げであり、思考の結果で至り得る「答」は不動のモノだ。
しかし、日ごとに「思考」を積み上げ訓練する取組みがあれば、基本的な「数学」は体系的に理解できる。
国際的にもルールは統一されており、先進国も途上国も関係なく取り組む事ができ、結果は共有できる。
日々の「数学」への取組みと積み上げ努力を欠く人材は、
冷静に思考する事より「情緒的思考」に軸足を置き、現実を期待や希望に擦り替え間違えてしまうのは悲劇というしかない。
これは、日本の弱体な「思考」の一面を衝いた重要な指摘だと考える。
引用開始→ 早稲田政経が粉砕「数学不要論」の先にある大革命
「暗記中心」の教育から脱却してプロセス重視へ
(東洋経済新報社2021/07/18 8:00芳沢 光雄 : 桜美林大学リベラルアーツ学群教授)早稲田大学政治経済学部の一般入試で、数学を必須科目(数学I・A)にした今年2月からの改革に関して、筆者は東洋経済オンラインの記事『私大文系の「数学不要論」を打ち消す早大の快挙』(4月13日配信)で取り上げ、多くの反響をいただいた。
この改革は「私大文系は数学が不必要」という日本固有の迷信を過去のものにする大きな功績だと考える。しかし、それが他に波及しなければ、線香花火のように終わってしまうことを危惧していた。
しかし最近になって、線香花火を夜空に輝くオーロラのように発展させる動きが明るみになってきた。それは文部科学省が、個々の大学の入試改革を促進させるために、文系学部入試での数学必須化などには、補助金を増やす制度を創設する方針を固めたという報道があるのだ(7月8日付読売新聞オンライン)。
日本の教育が数学を大切にする方向へ
筆者が評価したいのは補助金の額ではなく、文科省の姿勢である。参考になる話題を一つ紹介したい。筆者は元来、拙著などのほか新聞でも「数学は答えを当てるマークシート式ではなく、答えを導く論述式がよい」と訴え続けてきた(読売新聞「論点」2013年5月28日、朝日新聞「私の視点」2013年5月18日、等々)。『AI時代に生きる数学力の鍛え方』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします。紙版はこちら、電子版はこちら。楽天サイトの紙版はこちら、電子版はこちら)
また日本数学会が2012年2月21日に、「大学入試問題の数学はできるかぎり記述式にする」ことを訴える声明を発表したのをきっかけとして、本務校の桜美林大学では翌年の一般入試から、全面記述式の数学問題をメインの日程に取り入れたのである。それについては一部で話題になったものの、他大学に影響を与えるような大きな流れには至らなかった。大学のネームバリューが違うと言われればそれまでであるが、最近になって文科省も各大学での記述式入試問題を評価する姿勢を示しただけに、残念でならない。
今回の早大政経学部入試改革は、多くのマスコミから好意的に取り上げられ、さらに文科省もサポートする姿勢を示しているのであれば、日本の教育が数学を大切にする方向に舵を切ると予想するのである。
そもそも数学は、「数」という客観的なものを用いてきちんと論理的に説明することが礎にある。それゆえ数学で培った説明力は、立場の異なる人たちとの議論が前提となるグローバル化の時代では必須の素養となっている。
オリンピックを直前にした現在、「感情や理念で訴える日本の政治家の姿勢はそろそろ限界ではないか、もっと数字を使って論理的に説明する政治家が、いま日本では求められているのだろう」という意見が増えている。
また、IMD(国際経営開発研究所)の「世界競争力年鑑」を見ても、1990年代前半には1位であった日本の順位は、2020年には34位まで落ちてしまったこと。その間に世界でトップクラスにあった日本の所得水準も、同様に下がったことの報道もある。これらは、戦後の復興期を力強く生きてきた世代からすると、我慢できることではないだろう。
「数」と「論理」を柱とした改革への期待
要するに現在は、政治・経済の両面からも「数」と「論理」を柱とした抜本的な改革が期待されているのであり、早大政治経済学部の入試改革はその始まりと捉えたい。そこで思い出すのは、明治維新を成し遂げた多くの志士を松下村塾で育てた吉田松陰の次の教えである。「算術は此頃(このごろ)武家の風習として、一般に士(さむらい)たる者は、如斯(かかる)ことは心得るに及ばずとて卑しみたるものなりしに、先生は大切なる事とせられ、・・・先生は此算術に就(つい)ては、士農工商の別なく、世間のこと算盤珠をはずれたるものはなし、と常に戒(いま)しめられたり。」(吉田庫三著、『吉田松陰先生』(政教社1908年)を参照)。
その教えは明治・大正・昭和と受け継がれ、戦後日本の復興・発展に寄与した人たちの多くは、日本の数学教育に誇りをもっていた。実際、先の大戦中の「特別科学学級(特別科学組)」の理数系教育は世界に誇れる英才教育であった。特別科学学級で学んだ方々には、後に理系・技術系の分野で活躍した人たちは当然多くいたが、財務大臣を歴任した藤井裕久や野村総合研究所理事長を歴任した鈴木淑夫らのように、その他の分野で活躍した人たちも少なくなかった。
筆者は数学教育活動を始めて間もない1990年代後半に、鈴木氏から特別科学学級で学んだ高度な数学が人生に相当プラスになったことを書いた文をいただき、「私大文系は数学が不必要」という迷信を過去のものにする誓いを立てたことを思い出す。
冒頭で触れた東洋経済オンラインの拙文では、1980年代後半から数学を除外する少科目入試に至ったのは、表向きは「個性尊重」でも実際は「見かけ上の偏差値アップ」である、との立場から具体的な数値を交えて説明した。その少科目路線は、トップクラスの大学入試から始まったものであり、他の私立大学は理念などかなぐり捨てて少科目入試を導入したのである。
現在は逆に、早大政経学部に続く有力私立大学が何校か現れることによって、数学の学びを大切にする流れは本格的に動き出すだろう。しかし、注意すべき要点がいくつかあることを以下指摘したい。
戦後の1970年代前後までの復興期においては、高校生全員が高校数学II・Bレベルまでを必須科目として履修していた。文系進学や高卒として就職していた人たちでも、のべ9単位を必須科目として数学を履修していた。
ちなみに「ゆとり教育」時代の高校数学の必須科目の単位数は0単位である。選択必修としての「数学基礎」(2単位)を履修すれば卒業できたのである。現在は必須科目の単位数は3単位(数学I)で、それを履修すれば卒業できる。もっとも同じ数学Iでも、履修内容は復興期のそれの6分の1程度である。
復興期のような数学教育に戻さなくていい
筆者は、復興期のような数学教育に戻すことには、以下の理由から反対する。当時の教育は国の再建のためにとった横一線の緊急措置の面があったのであり、多くの国民も「国の復興のために全力で努力する」という特別な意識をもっていた。ちなみに当時、小松製作所では統計数学のχ(カイ)二乗分布を高卒の職員に教えて品質管理に応用したほど、高卒のレベルも高かった(『新修文系・生物系の数学』梶原譲二著、現代数学社、1988年)。
筆者のゼミナール出身の中高の数学教員は全国で約200人いるが、経済格差が教育格差につながっていることを背景に、現在は算数の復習程度の理解で高校を卒業せざるをえない生徒は想像以上に多くいるという報告がある。また、私立大学文系学部の総合型選択入試(旧AO入試)の面接で、「2億円は50億円の何%ですか」という質問をすると、2割以上は間違える実態もある。
よく、「それは国語の問題ではないか」という指摘がある。確かに「~に対する…の割合」という表現はいろいろな表現方法があるので、その指摘は当たっている面はある。しかし、理解せずに「やり方」の暗記だけの学習が問題の本質であると訴えたい。
それは、「速さ・時間・距離」の問題を、速さの意味を理解しないまま形式的に「は・じ・き」なる公式に当てはめる解法と同じで、「比べられる量・もとにする量・割合」の問題を、割合の意味を理解しないまま形式的に解こうとする癖がついてしまった生徒が多いのである。
だからこそ、全国学力テストの算数の問題(6年生用)に%の問題が出題されるたびに、極端に悪い成績となる。
たとえば、2012年の全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)に次の問題が出題された:「赤いテープの長さは120 cm」、「赤いテープの長さは、白いテープの長さの0.6倍」という前提で、その意味を示す図を4つから選択させる問題。4択の問題にも関わらず、正解率は34.3%であった。
影響が大きい「教育格差」と「理解力の差」
実は、「やり方」の暗記だけの学習を深刻に受け止めるようになったのは、22年間の数学科教員を経て現在の桜美林大学リベラルアーツ学群に移ってから数年後に、就職委員長を歴任したときである。当時は、大学卒業生の就職難が続いているときで、多くの学生が苦手とする「非言語適性検査」の問題の基礎となる算数・数学の考え方の特別授業として、後期の毎週木曜日の夜間に「就活の算数」ボランティア授業を1~2コマ開催したのである(計算規則、速さと割合、図形の面積・体積、関数のグラフ、確率の概念、論理と集合、等々の内容)。
その授業を通して注目したことは、多くの学生は小学校の算数から高校の数学まで暗記中心の教育を受け、理解するように教えられた経験がほとんどないことであった。この点が、数学科に入学してくる学生と根本的に違うことを悟ったのである。
その後も、理解を無視して暗記で誤魔化す学びと指導をなくす必要性を痛感し続けたこともあって、昨年末に『AI時代に生きる数学力の鍛え方』(東洋経済新報社)を上梓した。とくに、数学は理解して初めて応用力や発想力が育まれること、さらには「理解力」は「暗記力」と違って個人差が激しいことを訴えた。
以上から、数学の学びを大切にする流れを本格的なものにするためには、「教育格差」と「理解力の差」を十分に鑑みて対策を講じるべきである。だからこそ、復興期の数学教育に戻すことには反対なのであり、なるべく個々の状況に応じる数学教育を望むのである。
最後に私立大学文系学部が、とくに理系学部のない私立大学の文系学部が入試で数学を必須にしたり、入学後の数学教育を必修にしたりするような場合、いろいろな問題に直面するはずだ。
要するに、かつてあった教養課程が廃止されたことによる弊害があるのだ。諸悪の根源は、1991年の「大学設置基準の大綱化」であると言いたい。一般教育科目36単位以上、専門教育科目76単位以上、外国語科目8単位以上、保健体育科目4単位以上という卒業要件は廃止され、総単位数124単位以上のみの規則に変更されたのである。
核心は、それまでの一般教育と専門教育の区分をなくし、必修として学んでいた文系向けの数学を、ほとんど選択科目にしたことだ。
当時、「アメリカでは、大学入学と同時に専門教育を集中して学べる。それに対して日本は、アメリカのように早い時期から専門教育を受けることができない。日本の大学の問題はここにある」という一部“識者”の誤った話を散々聞かされたことを思い出す。
これは、数学的な考え方が基礎にあるリベラルアーツ教育を大切にするアメリカの実態とは随分掛け離れたもので、結局、そのような誤情報のお陰で91年大学設置基準の大綱化が決定した。
その後、予備校の生徒と一緒に授業を受けさせて専任教員に勤務実態のない大学や、入国管理局から「不法就労・犯罪に走らせて社会不安の拡大に加担しているといっても過言でない」と批判された大学など、不思議な“大学”が続々と誕生したことを思い出す。
数学力の問題は教育システムの欠陥
ここで訴えたいことは、「大学設置基準の大綱化」によってズタズタになった教養課程の教育を、時代にマッチした形で復活させることである。それによって、入試問題の作問や入学後の数学教育を実施するときの障害はだいぶ少なくなるだろう。そのように推移する場合の重要なことを指摘したい。それは、私大文系学部専門に入学試験を準備してきた学生は、中学数学あたりからまったくわからない者が少なくないことである。このような学生の数学力の問題は、本人の責任というよりは、むしろ日本の教育システムの欠陥ということを強く訴えたいのである。
したがって、算数の復習になるような問題を入試に出題しても、入学後の教育は算数の復習から始めても、一向に構わないという確固たる信念をもつことが大切だろう。そこでは、単に「やり方」の暗記で済ませるような問題や教育ではなく、プロセスの理解を大切にするような問題や教育を重視すべきなのだ。←引用終わり
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