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2021/09/05

人の社会に「生活格差」が生じるのは仕方ナシでも、法の下に平等を謳う限り、疑いのない事実による重大な結果には責めを負い刑に服すべきと考える

冷静に考えてみましょう!
世間から「上級国民」と揶揄される人達の傲慢な言い草について。
ハッキリ言って、従前の社会的地位あるいは立場が染みついているため、
「体裁」を気にかけ、事件など「嫌疑」をかけられると「居丈高」な態度や言動に出る。


極めて「人間臭い」態度に過ぎないのですが、その態度を見せられた側は、
「ナンだ、この野郎」と強い " 反発・反感 ” が生じるのです。 (これも自然です)


”とらえもん” は、物心ついた子供の頃から、何かと争いの絶えない血気盛んな地域で育った事もあり、常に骨の髄まで「自己防衛専一」で、様々な言いがかりなどを含め挑戦的な側へは、まず最初に、大きな怒声で威嚇し、体躯が小柄でもあり隙なく身構え、先手必勝ですが、口激に徹し、相手に攻撃させ交わし、直ちに徹底的に反撃し、自然に誰にも頼らない”無頼”が身に付きました。
勝つためには、先に攻撃させるのが重要なポイントです。


ところが、この「上級国民」という輩は、決して攻撃してこず、ウジウジとミミズの屁理屈を延々と並べ時間を稼ぎ、諦めるのを待つ(諦めさせる)のです。
実に厄介な糞輩です。往々にして市井の市民は小理屈の応酬で負けてしまいます。
(腹たつナァ)
これは、警察も、検察も、裁判所も、全く同じで「くどくど」と、飽きもせず潰れたレコーダーのように繰り返し繰り返し自己正当化を図るのです。


世間は気短ですから、その厚顔無恥の挑発に乗り罠に嵌まるのです。
誰の目にも明らかに彼らに非がある事でも、まず自分たちの「非」を認めず、他の要因へ平然と転嫁し責任を免れようと一貫しています。


それは、官僚の社会を生き抜く知恵は「厚顔無恥」である事として鍛えられていますから、市井の市民の正当でも弱体な正義感や生き様では、到底太刀打ちできないため悔しさだけが残り、やがて巨大な怨嗟のマグマになるのです。
強い処罰感情がわき上がるワケで、これへの対処を間違えると国や社会の統治は崩れます。
そこで「上級国民」にこそ厳罰の即決をと願ってやみません。


引用開始→「上級国民」裁判が我々に問い掛けるものとは
飯塚幸三被告に禁錮5年の実刑判決

(時事通信 2021/09/02)

 東京・池袋で2019年4月に9人が重軽傷を負い、道路を横断歩行中だった31歳の母親と3歳の娘がはねられて死亡した乗用車の暴走事故。自動車運転処罰法違反(過失運転致死傷)罪に問われた旧通産省工業技術院の元院長、飯塚幸三被告(90)に、東京地裁は禁錮5年の実刑判決(求刑禁錮7年)を言い渡した。この事故をめぐっては、発生直後からネット上に「上級国民」という言葉が飛び交い、若くして妻子を失った夫に同情するように、被告を執拗(しつよう)に非難する言葉がSNS上に乱舞し、メディアもこぞって取り上げるという異様な展開を見せていた。この「上級国民」が裁判を通じて投げ掛けたものは何か。(作家・ジャーナリスト 青沼陽一郎)

◇「特別扱い」の大合唱

 事故を起こしたのが元高級官僚であって、退官後も業界団体の会長や大手機械メーカーの副社長などを歴任し、事故の4年前には瑞宝重光章の叙勲を受けていた経歴に、まず注目が集まった。この事故の2日後、今度は神戸市中央区のJR三ノ宮駅前で、市営バスが横断歩道に突っ込み、20代の男女2人が死亡、4人が負傷するという事故が発生する。当時64歳の市営バス運転手はその場で現行犯逮捕された。こちらも自動車運転処罰法違反(過失致死傷)罪に問われ、禁錮3年6月の実刑判決を受け、神戸市を懲戒免職処分になっている。

 ところが、池袋の飯塚被告の場合は逮捕もされずに、その後もメディアが「元院長」「元官僚」と呼び、「容疑者」と呼称しなかったことから、「上級国民だから特別扱いを受けて不当に免責されているのだ」という意見がネットを中心に拡散していく。逮捕されなかったのは、事故による骨折やけがで入院治療が必要であったことや、「容疑者」という呼称も逮捕や指名手配がされてからでないとメディアは使わないことが伝えられても、「上級国民」という言葉がネットで沈静化することはなかった。

 やがて裁判が始まり、飯塚被告が「ブレーキを踏んだが利かなかった」などと車の不具合による無罪を主張すると非難が集中。捜査当局の調べで車には異常がなかったことが報じられると、罪を認めない被告に対する批判はさらに勢いを増し、誹謗(ひぼう)にも似た言葉がネット上で飛び交って、これに同調するテレビ出演者、コメンテーターの声も少なくなかった。「上級国民」としての特別扱いから、被告の人格攻撃にまで矛先が広がっていった。

◇もう一人の「上級国民」

 この一連の流れを見て、私の脳裏にはこれにまったくそっくりな事件が二つ浮かんだ。

 一つは、元東京地検特捜部長のレクサス暴走事故だ。石川達紘元検事(82)といえば、法曹界で知らない人間はいない存在だ。ロッキード事件や撚糸(ねんし)工連事件などの捜査に携わり、1989年には東京地検特捜部長に就任。ゼネコン汚職など数多くの有名事件を手掛けて、名古屋高検検事長を最後に退官。2001年に弁護士登録すると、さまざまな企業の取締役や監査役を務めてきた。

 ところが2018年2月、東京都渋谷区の路上でゴルフに向かう女性と待ち合わせをしていたところ、運転していたレクサスが急発進して、歩道にいた自営業の男性=当時(37)=をはねて死亡させた上、店舗兼住宅に突っ込み、やはり自動車運転処罰法違反(過失運転致死)などの罪に問われて、在宅起訴された。

 しかも、こちらも「誤ってアクセルペダルを踏み続けた」とする検察側の主張に対し、「天地神明に誓って踏んでいない」として、車の不具合による無罪を主張。裁判では、自動車事故の専門家やトヨタ関係者らが証人として出廷し、車に不具合はなかったことを証言している。飯塚被告が運転していたのはプリウスで、こちらもトヨタ関係者が証人出廷して車の不具合を否定している。石川被告は今年2月15日に東京地裁で禁錮3年、執行猶予5年(求刑禁錮3年)を言い渡されて、即日控訴している。

 まったく同じ事故の展開において二人の「上級国民」、というより特捜部長や工業技術院院長まで務めた「高級官僚」に見て取れることは、自分の過ちを絶対に認めようとしないところだ。自分の操作が間違ったのではない、機械が壊れていたのだ、と主張する。

 ここから分析するに、ネット上で「上級国民」と揶揄(やゆ)される「高級官僚」は、誰かしらのせいにする傾向が顕著であると推認することができる。出世に影響するからマイナスに加算されることを極端に嫌う官僚体質にあって、組織の頂点にまで上り詰めるにはそうした処世術も必要だったのだろう。だから、自分以外のもののせいにする。そう考えれば、飯塚被告の無罪主張も分かりやすい。裁判での自己優先の態度も「高級官僚」だったからと、鼻で笑ってさげすんでおけば済む話だ。

 ところが現実には、飯塚被告のケースではそうした来歴や立場は考慮もされず、人格そのものまで否定されている。刑事裁判で無罪を主張することは、裁判を受けることと同時に被告に認められた権利であって、誰からも非難されるべきことではない。罪を認めないことがネット上で批判を呼び、その影響を受けたようにメディアにまで伝播(でんぱ)して熱がこもる。

遺族の涙と「正義感」

 次に思い浮かんだのが、光市母子殺害事件だ。1999年4月、山口県光市で当時18歳1カ月だった少年が水道工を装い、乱暴目的で集合住宅の一室に入ると、当時23歳の主婦を絞殺。一緒にいた生後11カ月の長女を床にたたきつけ、首を絞めるなどして殺害し、遺体をそれぞれ押し入れと天袋に隠して立ち去った。家裁から逆送された少年は、一審で検察から死刑を求刑されるが、山口地裁は無期懲役を言い渡す。検察が控訴するも、二審の広島高裁でも無期懲役となった。

 これを受けて、妻と子どもを殺された夫が記者会見を開き、「これで死刑でないのはおかしい」と厳しい表情と言葉で訴えると、メディアが大きく報じた。すると、検察が上告した最高裁で、審理が広島高裁に差し戻される。この時に、最高裁が指定した弁論期日を新たに選任された弁護人が欠席してすっぽかしたことから非難が広がり始めると、少年はそれまで罪を認めて反省を貫いてきた主張を変え、乱暴目的を否認。不意に相手の女性を殺害してしまったと改めて無罪を主張したことに、ことさら非難が集中した。

 法廷で少年は、性的行為は死者を生き返らせるためのもので、それも山田風太郎の小説「魔界転生」の記述から思い立ったと言った。遺体を押し入れに隠したことについては「ドラえもんが何とかしてくれると思った」などと語った。誰もが知る「ドラえもん」の寝床は押し入れであることからそう思った、と自ら説明している。これに世間の批判は最高潮に達した。少年法の精神など関係ない、死刑でなければおかしい、さっさと死刑にすべきだ、という気運だ。

 広島でこの差し戻し控訴審を私が取材した2007~08年当時は、スマートフォンなどまったく世間に普及していなかった。ましてSNSなど未開だった時代だ。専ら少年の裁判への批判はメディアが代弁していた。テレビのワイドショーならば、コメンテーターが厳しい口調を競うように批判を浴びせ、視聴者はどのコメントが自分の考えと合致するか、品定めをして溜飲を下げた。

 それが今では、個人がSNSやニュースコメントとして自身の意見を簡単に発信できるようになった。そこで発せられる言葉は、時として強烈な刃(やいば)ともなる。2020年5月に女子プロレスラーの木村花さん=当時(22)=がSNSでの誹謗中傷から自ら命を絶ったことはその典型として知られるが、こうした攻撃的言動や罵詈(ばり)雑言を繰り返して、いわゆる「炎上」を引き起こす側の心理に作用しているのは「正義感」だと分析されている。自分の持つアイデンティティーや常識に照らして、不謹慎であったり、正しいと思うことから逸脱していたりする相手を許せないと思うことから始まって、そこに正義の鉄ついを加える。間違っている人は徹底的に罰しなければならない、そう思う感情がエスカレートしていく。

 裁判で罪を認めないことは悪である、正義に反する、自分のアクセルの踏み間違いを車のせいにするなど、もってのほかだ。許してはならない。いつの間にか、自分が裁く側になったように、被告の権利を無視して意見する。昔から日本人が勧善懲悪の物語を好んだように、まるで水戸黄門や大岡越前、はたまた暴れん坊将軍のように悪代官を成敗するような気分に浸る。

◇不満の発散、「祭り」の場となる裁判

 そう、時代劇の悪役と言えば悪代官が代名詞だった。つまり統治する側が庶民を苦しませる。そこに絶対的な正義の味方が登場して不正を正す構図。身分が上の人間、特権階級はそれだけこっそり優遇されておいしい思いをしているという感覚。「上級国民」という言葉は日本人が受け入れやすい素地があった。

 そこに加わる遺族の涙。光市の事件と一緒だ。妻子を失った若い夫が涙ながらに罪を認めない被告を責め、公然と厳罰を望む。遺族への同情が正義感を燃えたぎらせる。

 飯塚被告は、アクセルとブレーキを踏み間違えたことはない、と言った。ブレーキを踏むところを目で確認したとも法廷で証言している。その一方で、自転車に乗っているところをはねて死亡させた親子を、「乳母車を押していた」と証言している。ひょっとすると、高齢ということもあって記憶の混同が起きているのかもしれない。本当にアクセルを踏み込むようなことはしてない、と思い込んでいるだけなのかもしれない。だが、独自の正義感に燃え、不寛容の人々はそれを認めない。法的な裁判手続きも無視して、早く罰しろと叫ぶ。それでカタルシスを得る。魔女狩りという言葉があったように。

「下級国民」を自認する人々にとっては、日頃の不満、抑圧を発散できるまたとない好機となる。努力する者が報われる社会であるはずなのに、そうはならない現実。日頃の苦労が「上級国民」の成敗、没落によって報われた気分になる瞬間。可視化されたSNS上に、参加者が多ければ多いほど盛り上がるネット上の「祭り」の場。その舞台が死刑や刑事裁判によって提供される。

 疑わしきは被告人の利益に、とは刑事裁判の鉄則である。だが、そんなものを無視して、非日常の空間に倒錯する人々がいることを教えてくれる。そんな彼らの幾人かは現実の世界で、死刑を判断する裁判員裁判に参加している可能性を否定できない。

 ただ、その暴走を止めるべく職業裁判官という「上級国民」が存在していることも確かである。

◇ ◇ ◇

 青沼陽一郎(あおぬま・よういちろう) 作家・ジャーナリスト。1968年長野県生まれ。犯罪・事件や社会事象などをテーマに、精力的にルポルタージュ作品を発表している。著書に「食料植民地ニッポン」「オウム裁判傍笑記」(ともに小学館文庫)、「私が見た21の死刑判決」(文春新書)、「侵略する豚」(小学館)など。映像ドキュメンタリー作品も制作。←引用終わり
(2021年9月2日掲載)

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