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2022/04/11

沖縄の本土復帰50年を前に、月桃の咲く「うりずん」の季節にアレコレと雑感を! 既に交流・交歓を重ねた歳月は半世紀を超えましたが・・・

沖縄、特に那覇市の風土や社会経済の形成構築と交通インフラの基盤整備は、失礼ながら「発展途上国」の経済建設の良好な教科書でしたね。
最初の金融って、琉球銀行、沖縄銀行、海邦銀行、この3行が軸で、後はJA、商工中金、財投としての郵貯資金、だったかなぁ。


個人間の金融は「結」を軸にした「頼母子講」が主流だったし。
それは一種の社会主義経済みたいな処もありましたね。


そういえば、緩やかな風土は、温かい人心を育み、社会規範を形成し、展開するマチバの集合住居風景も、なんとなくHCMC(サイゴン)にも似た点が数々ありますし。
本土から、
沖縄・那覇まで2時間
台湾・台北まで3時間
香港まで4時間
ハノイまで5時間
HCMCまで6時間
シンガポールまで7時間
沖縄・那覇からは、それぞれの地は2時間マイナスなので。
沖縄は地政学的にも、やはりアジアの芯軸なので。
なんとかなるサぁ~。


沖縄で依頼されながら完全に応え完遂実現できなかった事:
それは、与那城村(よなぐすくそん)→与那城町(よなしろちょう)→うるま市[石川市+具志川市+勝連町+与那城町)に合併統合され、那覇市、沖縄市に次ぐ市になっている。
中部の嘉手納町の東隣の重要地域で、沖合の「平安座島」には石油貯蔵基地を保つ。
東側の各島と本島は、海の中に造成された道路で結ばれている。


1990年代の初め、バブル経済が弾ける前に、村長と村議会議長を始め、与那城村の主立った有力者による訪問を受け、村の開発計画に参与し知恵を出せと・・・


国の国土開発、沖縄県の開発計画、国の地方行政政策、国の沖縄政策、国の観光開発政策、沖縄県の観光開発政策、沖縄県内の金融事情、少なくともこれらの上位計画をスタディーし精査した上でなければ、画に描いた餅にもならないと、当たり前の条件を示した。
当然、袖にはせず現地調査に足を運ぶ事にした。
その際、ムーンビーチや万座ビーチを抱える西の横綱「恩納村」も、隣接する関脇の「読谷村」も含め、細かく具に調査した。


そして、懸案の金武湾に面する与那城村を、どう位置づけるか。
随分アタマを拈ったが、景観、財政、当時の産業構造、本土側からの投資の可能性と展開。
猛烈なスピードで事に当たったが、バブル経済は敢えなく弾け、沖縄の観光政策そのものが非常に難しい状況になった。
それは「沖縄海洋博」閉幕終了後の落ち込みを上回る規模だった。
(当然ながら日本全体が落ち込んだのだから)


沖縄経済が追い込まれた窮状を救うには、相当な規模の投資を維持できる大胆な財政出動を伴う政策が必要だった。
そうこうする間に、阪神淡路大震災に遭遇し、与那城村に関わっている事も難しい状況が現れ、引き続き「アジア通貨危機」が襲いかかり、政策面で関わるベトナム経済も未曾有の混乱を避けるのは容易ではなかった。


与那城村は「平安座島」があるため、財政基盤を強化する事ができるので、町へ移行し、更に周辺自治体(想定では勝連町)との合併統合を模する事を考慮するべきと・・・
(そこで筆休めとした)
その後、2市2町の合併統合で「うるま市」が誕生し、また勝連町の誇る「勝連城」は「首里城」や「今帰仁城」と共に世界文化遺産に登録された。

先日の復路便で、沖縄・那覇空港18Lを離陸し、糸満市の摩文仁の丘を見て、南風原町を眺め、勝連半島から平安座島を眼下にし、与那城村の政策を完成させる事ができず中途半端に終わった事の無念さを思い致した処です。


機会があれば、改めて、うるま市となった与那城村を訪ね、旧交を温め、その後を語り合いたいと思いました。


沖縄の社会風土と暴力団・暴力組織を考える:
沖縄は「暴力団」「暴力組織」が、今も完全に絶滅できず社会に否応なく根を張っています。


それは、1945年6月23日以降の米軍統治下で、日常的な小さく些細な事案に「司法警察」が必要にして十分な機能を果たせず、被害者が私憤を解決するにも「泣き寝入り」するか、私的な暴力を駆使し恨みを晴らすかだった。


何よりも、米軍統治下の沖縄では琉球政府が組織され、1972年5月15日の復帰まで組織され、沖縄県庁に引き継がれたが、政権に派生する利益獲得に、多くの人は「鎬」を削り合った。
当然、邪な考えで様々な事案の「専横」や「横取り」を企む者が出るのは当然であり、それには「口撃」は勿論「暴力」を伴ってもと考える者は多かった。


復帰前の沖縄の経済を支えるのは、米軍が基軸の軍民経済(今も大きな経済シェアですが)で、自然に支配と被支配の構図ができ、社会に大きな影響を保つのは、米軍基地で働く労働者の組織「全軍労」であり、その存在は大きく。
地域社会の建設に当たる地域ゼネコンは「国場組」が差配し、「国場組」は、施政権返還後も米国本土でも総合建設事業者としてのライセンスを保有していた。


一方で、沖縄の若者は頭脳に自信がある者は「米国への国費留学」の一発合格を目指した。
その機会を得る事もない者は、軍属としてLST(上陸用舟艇)の作業員になるとか、米軍(特に海兵隊)を志願し、前線へ投入され生命を落とした者(ワシントンの戦没者公園の墓標に名が刻まれ記され)ている。


付加価値生産が極めて低い第3次産業は、いわば「ぶら下がり」でしかなく、実に壮絶であり、剥き出しでナマの生業という生活が展開された。
今も同じで、基地経済依存と観光依存だけの第3次産業というサービス業が主軸では、根源的に所得を上げることはできないし、ぶら下がり経済に閉じ込められるのは悲しい事だ。


沖縄の中心は「那覇」であり、沖縄は那覇を中心にした周囲を含む「都市国家」と「砂糖きび畑」が拡がる貧しい農業地が主体の島だった。
那覇の中心と各地を結ぶ手段は道路運輸で、人の輸送はバスだ。
路線を巡る争いは熾烈で、那覇の中心への乗り入れを巡る争いは避けられず。


人が働くにも労働の場は限られており、容易な仕事は、①本土での求職か外国への移民、②建設労務、③農業(生産性は低い)、④米軍の荷役労務、⑤米軍労務、これらが主体で、壮絶な生き方を強いられ続けた。


本土と結ぶ主な船便は、那覇と神戸・大阪また東京を結んでいた。
個人への金融は弱体で、沖縄では「結」という頼母子講が主流の座を占め、これらがいわゆる「暴力組織」を介在させやすい社会土壌になった。


沖縄を纏めるのは「人の繋がり」であり、家族の結束であり、一族や地域との紐帯であり、極限の世界を生き抜かされた人の心は「激しい憎しみと柔和な優しさ」が一体化した「複雑混沌」が入り交じるのは日々の普通だ。
沖縄人(ウチナンチュー)の気性は日本の本土で暮らす人(ヤマトンチュー)には理解の外だろう。
沖縄では、自身の安全を護るのは自分自身でしかなく、頼れるものは唯一が家族一族の結束で、それこそが重要だ。


今も、駐留米軍は、駐留基地毎に「将校クラブ」を、選抜する沖縄の有力人に許可を与え出入りを開放している。
現在時点での友好関係の構築も、中々、巧妙で細かく計算されているように見受ける。


まだまだ、沖縄は「暴力団」や「暴力組織」には、未開発の「宝の山」だという。
警察関係者の説によると、本土では「広島」「長崎」で、海軍が退いた「呉」が、既存の秩序が消滅しWWⅡの終戦後の行政の混乱に乗じ暴力団が蔓延り対処に難儀を強いられたように、「沖縄」は復帰後50年の今、ようやく暴力団や組織の息の根を抑えつける処まできたとか。
でもまだ、傍目からは粗暴で「暴力的」な人は多いように観ている。


本土の側から、
沖縄を特殊な地域として眺め、そのように扱いたがるが、簡易に決め付けず幅広く捉え多面的に考えるべきではないかと。


那覇市は、人口30万人ほどの県都ですが、沖縄本島の中南部は那覇市を中心に人口は一極集中し過密で、120万人ほどの大都市域じゃないかと・・・
本島の中南部全体では人口密集の完全な過密都市であり、
本島の中北部は過疎化地域といえます。


ビジネスの中心で雑居地の那覇、住居地の首里を中心にした地域に車が集中し全く余計な渋滞を朝夕に繰り返し造り出すのは、社会経済を考えると全く無駄な事といえました。
沖縄の出入口は殆どが「那覇空港」で、ここへの人と車の移動集中は避けられないワケで、それを含め一挙に解決するには「鉄道」以外に方法はなく、沖縄本島の環境を考え練られたのが「ゆいレール」です。
本土復帰10年の1982年に構想が形になり、実現まで21年を要しています。


空港と浦添を、那覇の主要な地を街を見下ろしながら、クネクネと結び。
いくつかのアイデアを出し、利便性を強調しながら、バスと同程度の価格で定時性を確保し利用を促進し高めています。
以下、讀賣新聞を引用紹介です。


引用開始→ 那覇市内で頭上を走る2両編成の列車、沖縄唯一の鉄軌道がゴムタイヤで走る
(読売新聞 2022/04/05 15:55)

写真:20220406
国際通りの上を横切る「ゆいレール」(5日午前11時41分、那覇市で)=秋月正樹撮影c 読売新聞

ヤシの街路樹が並び、南国情緒が漂う那覇市の繁華街・国際通り。行き交う人々の頭上を2両編成の列車が横切る。
「ゆいレール」の愛称で知られる沖縄都市モノレール。沖縄県で唯一の鉄軌道だ。
沖縄の空の玄関口にある那覇空港駅(那覇市)から、てだこ浦西駅(沖縄県浦添市)までの全19駅、17キロを片道約40分で結ぶ。
沖縄県や那覇市、地元企業などが出資し、1982年に第3セクターの沖縄都市モノレールを設立。2003年に那覇空港―首里駅(那覇市)間の12・9キロで開業し、19年にてだこ浦西駅まで延伸した。
“台風銀座”の沖縄では鉄製の設備が強い潮風にさらされて、塩害から腐食する恐れが高い。高架橋に敷いたコンクリート製の軌道をゴムタイヤで走る構造には、そんな沖縄ならではの地域事情もある。←引用終わり

4月2日は、77年前に組織的な沖縄戦が始まり、
それを戦い散った帝国陸軍将兵6万8千柱、帝国海軍将兵1万2千500柱、沖縄県民12万3千柱、20余万柱の英霊に、心を込め靖らかなれと「月桃」を捧げます。


5年前、2017年6月23日:<40>
南風ふきし 摩文仁の丘に 波の音も
(はえふきし まぶにのおかに なみのねも)


いま沖縄は、眩しい太陽が輝く「うりずん」真っ盛りで、明日(4/05)は「清明節」です。連綿と生きとし生けるものの生命を受け継いだ事を思い致し感謝し、月桃の花と共に、御先祖を墓所に訪ねられ心の交流を奏でられる事と存じます。


沖縄では、親子、家族、一家、一族の教えを軸に、
先祖を尊崇しながら全体の「紐帯」を硬く高く保ち続けています。
親の言葉は肝に染める・・・
「清明」では、玉陵墓、亀甲墓を訪れ、祖先への感謝をわすれず、心の交換をしながら「うりずん」の一日を過ごし。


1945年は、本土の決意以上に「皇民」であった沖縄では、それが適わなかった年とされ深く刻まれています。
その意味でも、沖縄が背負う日本と米国(米軍)への感情は複雑で揺れ続けるともいえます。


一つひとつを、丁寧に紐解き、相互の断層を埋め信頼形成を続ける取組が不可欠かと。
肝に染みた不信を解きほぐし途を形成するために。


77年目の「慰霊の日」には「平和の礎」をお訪ねし、御霊の靖らかなる事が適いますよう、ひたすら願いお祈りをしたいと思っています。
また、5月15日には短時間ながら、復帰50年の記念にも足を運び、お邪魔し、先んじ「摩文仁の丘」へ運べる事を願っています。

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