8月14日19時に全国報道した枠組みの戦争体験を語るは、企画した東京都日野市の高校生を捉えたニュースは立派だが、登場した語り部は騙りだ
あるニュース報道の映像で感じた極め付けの悪意への違和感:
それは、8月14日夜の全国ニュースの映像で、東京都日野市の高校生が「戦争を考える」テーマだった。
自らの戦争体験を「語り部」が話を聴き手を前に体験談を話す会を取材し紹介報道したものらしい。
問題の語り部は83歳だという。つまり1939年(昭和14年)生まれだ。
報じられたその話の概要は、
戦争が始まり、
① 目の前で撃ち合いを経験した。
② 自分は小さかったので、家の押し入れに隠れていた。
③ その前を、銃弾がヒューヒューと音を立て飛び交うのです。
④ 生きた心地がしなかった。
報じられた映像での話はこれだけでしたが、重要な事が欠落しています。
それは、いつの事で、どこでの体験で、その時の状況はどうだったのか?
何年の何月ころで、どの地域のどの街で(中国大陸なら地域はどちらですか)、押し入れ!?(それは物置でしょうか)、簡単な確認すらせず、語り部として夢想体験を人前で話す。
一番大切なことは、敗戦時は6歳です。
日本国内で銃弾が飛び交った地域は「沖縄本島」以外にはありません。
しかも、戦闘区域になる前に「避難命令」が出て、地域を挙げて避難させられ、押し入れに隠れる事など適いませんでした。
いま、上映中の沖縄戦の一端を描いた「島守の塔」も、よくよくご覧下さい。
それ以外に、日本列島のいわゆる一般人が多数居住する本土領域の陸上で銃弾が飛び交う銃撃戦などありませんでした。
空襲を体験した一族の話では、
命じられて形成した防空壕に身を寄せ合い、焼夷弾から逃れた経験はあると話してくれました。
満州から引き上げた伯母家族の話では、
終戦の勅書を知り、中国の匪賊蜂起やロシア軍の満州進出までの間隙を縫い、直ちに幼い従兄弟(3歳)を連れ、大連へ向け、雇用していた満州人の手引きで、中国人を装い逃げたそうです。
阿鼻叫喚を拝し、命辛々博多港へ着き、這々の体でナンとか一族の地まで逃げ帰ってきたのだと。
満州でも、1週間ほどは軍による組織的な銃撃戦はなかったと考えます。
それは自らの牡丹江からの逃避行を記された「なかにし礼さんの自伝的小説 " 赤い月 " 」をご覧になれば、確認できます。
幼い6歳にも満たない幼児を押し入れに隠し、その前で銃弾がヒューヒュー音を立て飛び交イ、幼児は無事だったなど、夢想小説にしても盛り過ぎと言わねばなりません。
取材し、ニュースとして報道した側も、
語り部の話の裏付けも取らず論証もできないまま切り取り報じる姿勢には、核心的な悪意が秘められており、主催した東京都日野市の高校生の美談だと笑って済ますには・・・!?
ですね。
報道取材の拾いネタではなく、夜の全国ニュース内に枠を設け、全国報道したワケですから。
ウッカリすると、夢想の話が事実のように報じられるワケで、韓国の「従軍慰安婦」の被害報道が事実を突合せ、丁寧に検証すれば辻褄が合わなくなるのも同じで、騙りの語り部は今後も増殖し続けるのでしょうかねぇ。
蒸し暑い日の、むさ苦しい違和感でした。
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