東京大学全学共闘会議を代表し東京大学を頂点とする権威主義の権化で「空っぽ」の日本の大学教育の本質的改革を果敢に問った山本義隆氏の著書
岩波書店が月に一度行う出版案内で、山本義隆氏の名を見た。
「原子・原子核・原子力」
ーわたしが講義で伝えたかったことー
【岩波現代文庫】978-4-00-600455-2 定価1628円
原子・原子核について基礎から学び、原子力への理解を深めるための物理入門。予備校での講演に基づきていねいに解説。
と、案内公告されていた。
山本義隆氏は、紛れもない傑出した日本の「知性」である。
ゆえに、東京大学が内包「医学部の青年研修医師の無報酬」を是正する「青医連」の問題提起を無視し、現場にいない研修医師を当事者として処分した事に端を発し、あらゆる不可解な矛盾や誤魔化しが露呈し、それらを明らかにし、その本質を鋭く衝くと全学が同じ管理思考体質であり、次は文学部に波及した。
それは、東京大学を頂点とする日本の大学(教育)が、文部行政による管理と強要も含め、一様に強制され抱え込まされた根源的な問題だった。
ゆえに、いち早く、その指摘に気づき共感した東京大学の学生・院生・インターン・研究者・職員・教員の多くが、それらを体系的に問題提起し、その解決に向け「東京大学全学共闘会議」を結成し、その議長に担ぎ上げたのが傑出した知性とされた山本義隆氏だった。
東大闘争は、間違いや、過誤、あるいは誤謬を正す問いかけだった。
しかし「東京大学」を形成する権威主義に満ちた「教授会」や「大学評議会」は、自らの側が「間違いなど犯すワケがない」と、頑なに「非」を認めず、問い詰める学生や院生あるいはインターンを更に処分した。
そこで、大学の管理運営とは何か、大学(教授会)の自治とは何か、大学における学生や院生また研究者の立場や人権はないのか、との実に素朴な問いかけが発端になり、主要な国立大学や公立大学も同様の管理運営体制である事が明るみに出て、全国の多くの国公立大学で同様の問い直しが始まった。
人は時に間違いを冒すものであり、間違いはいち早く訂正すればヨイだけの話で、権威を笠に着て頑なになる必要などあり得ない。
最初は、実に素朴な「思考論理」を問い、人としての「人間性」を問い、併せて無関係の学生が処分された事で生じた「人権の回復」を求める「思考論理」を問うだけの事だった。
それが、次々に処分を重ねるため、教授会との団体交渉を求める運動へ発展し、次には「木で鼻を括った」ような、当事者能力を疑う発言の連発に、学生や院生の怒りが爆発し、相応の学部棟の実力封鎖という事態に発展し、慌てた大河内一男総長は安田講堂での全学集会(と、いう名の全学大衆団交)に応じ、更に発言の無責任性が問われ、東大の権威象徴としての「安田講堂」の実力占拠封鎖に至らしめ、管理監督する文部省からも厳しく批判非難され論理破綻し、為す術なく行き詰まってしまう。
部分的に、警察権力の導入による一部の封鎖解除に出た事で、更に事態を悪化させた。
1968年夏、東大全共闘には、オオキンモチの子弟もいた、ミギもいた、穏健なのもいた、ヒダリもいた、有象無象もいた、代々木狂惨もいた、過激派もいた、1968年12月には過激各派が「安田砦」の主導権争いをしていた。
佐藤栄作が指揮する日本国政府は、事の重大性を認識するも当時の体制を揺るがすとみて、1969年の入学試験を中止させ、東大全共闘に占拠された安田講堂(砦)の開放を巡る決戦になった。
その後、山本義隆氏は東京大学を放逐され、研究者としての途を断たれてしまった。
それは東京大学と日本国政府の怨念なのだが、日本の原子理学の重大な損失になった。
彼は、その後「予備校講師」の職に就き、理学の知性を磨こうと石を玉に磨く事に注力してきた。
半世紀以上を、耐えて耐えて耐え抜き、いま後世に遺す言葉としての書を纏めたのだろう。
1968年の夏に、工学部列品館の銀杏並木を背に、安田講堂前の広場でも、言葉を駆使し言葉を繋ぎ「東京大学(管理された日本の大学教育)が抱える諸問題が、日本の科学的発展を阻害し、批判的見地に立つ者を徹底排除し、蛸壺に閉じ籠もる研究・教育態度で、学問研究の展開も発展もない」と、厳しく批判していた事を想い起こします。
彼の指摘を真摯に捉え、半世紀前に改革に取り組んでいれば、日本は原子力分野も含め、今の世で世界の最先端だったろうと考えています。
敗北させられたとはいえ、今も、一つひとつ記憶が鮮やかな映像として時空を超え蘇ります。
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