浅はかな言い合いは、真に「アサバカの言い合い」に過ぎず!高市も小西も、話にならず余りにも「言葉が軽い」 簡単に「捏造」とか「議員辞職」を言うな
嗚呼、高市早苗・・・
日頃から、自らは「カシコイ」と自認しているためか、
簡単に「売り言葉に、買い言葉」で応酬し、収拾がつかず土壺に嵌まる。
小西洋之を甘く見下し、勝てる相手と踏み、受けて立ったのだろうが・・・
閣僚たる者、国家の政治を第一線で担い官僚を指揮する自覚を持てよ。
国会の委員会で、発言を記述記録した文書を基に追究されるや、
質問者を見据え、此処で会ったが親の敵と、燃え上がり烈火の如く燃え盛り、罠かも知れぬと考える事もなく、畳みかけられるまま挑発に乗った。
情けない「軽挙妄論」と云うほか無し!
勝っても負けても、全く生産性も行政の責任も感じられない。
閣僚の言動は重いのだ。
引用開始→ 高市氏 VS 小西氏「国会議員を辞職する」って簡単に言うな
「令和の腹切り問答」浅はか
<樫山幸夫 (元産經新聞論説委員長)>今の時代、「腹切り問答」といっても知っている人は少ないだろう。
1937(昭和12)年1月、旧帝国議会の衆院本会議で、浜田国松議員と寺内寿一陸軍大臣との間で交わされた応酬だ。
浜田が軍部の横暴を激しく糾弾したのに対し、陸相が「侮辱だ」と威嚇、浜田は「速記録を調べて、侮辱の言葉があれば割腹して謝す。なかったら君、割腹せよ」と迫った。
軍部の専横に対する政党人の最後の抵抗を象徴する事件であり、浜田にとっては身命を賭しての演説だった。
それにくらべると、最近の高市早苗氏と野党議員の攻防は、どうだろう。議員の身分を政争の具として進退をいとも簡単に論じる――。攻める方も受ける方も、いかにも軽薄、浅はかに映る。
まさに命を懸けた舌戦
1937(昭和12)年1月21日の衆院本会議で、政友会の長老・浜田は広田弘毅内閣の施策を質した。質問というよりは演説の趣だった。このやり取りは興味深いので、少し長いが速記録(昭和12年1月22日付け「官報」、国立国会図書館デジタルコレクション)から再現する。
浜田は、広田首相が、そのスローガン「庶政一新」の実現に向けて健闘していることを評価、矛先を軍に向ける。「軍部の大臣が公開の席において、われらのもつ政治の推進力ということを公式に声明、政治の推進力をもって自任しておられる」と僭越ぶりを非難。
そうした傾向が政治、経済、社会各方面に拡散、「五・一五事件」「二・二六事件」など軍部によるクーデターに発展したと指摘した。
さらに、悪名高かった軍部大臣現役武官制にふれて「国民、政党の知らない間に昨年の特別議会のどさくさの間」に導入したとして、不当さをなじった。「軍服を着てサーベルをさして国民と対立、対照的に日本の政治をリードするのは憲法政治と矛盾する」、「複雑な政治に対して、軍部の推進力が頭を出すとことは政治上の弊害だ」として、軍人の政治関与に対してはことのほか語調を強めて論難した。浜田の舌鋒は鋭く、演説の速記録は官翌日付の官報で10ページにものぼった。
浜田をにらみつけて答弁に立った寺内陸相は「いろいろのお言葉を承りますと、あるいは軍人に対していささか侮辱さるるようなお言葉を承ります」、「これはかえって浜田君の言う国民一致の精神をに反するのでご忠告申し上げるものです」と凄みをきかせた。
恫喝にひるむ浜田ではない。
逆に勢いを得て再登壇、「軍部を侮辱するの言辞があると仰せられたが、どこが侮辱しているか。国民代表者の私が国家の名誉ある軍隊を侮辱したという喧嘩を吹っ掛けられて後へ引けない。どの言辞が侮辱したか。事実をあげなさい」と迫った。
寺内の「忠告」という言葉も癇に障ったようで、「年下のあなたから忠告されるようなことはしないつもりだ」と逆に寺内をたしなめた。
2度目に立った寺内は「私はそのようなことは言っていない。速記録をよくご覧ください」とかわそうとしたが浜田はおさまらず、3度目の登壇。「あなたも国家の公職者、不肖、浜田も公職者だ。民間市井のならず者のように論拠もなく不名誉を断ずることができるか。速記録を調べて僕が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する。なかったら君割腹せよ」と声を励まして詰め寄った。
議長に対して、決着がつくまで、散会を宣告しないよう求め、徹底抗戦の構えを見せた。
寺内はしどろもどろ。「速記録をごらんください」と繰り返すのが精いっぱいだったが、浜田はすでに決められた登壇3回におよび、夕刻に至ったこともあって、いったん矛を収めた。
浜田の気迫、舌鋒は、すさまじいというほかはない。この目で見たかったと思うのは筆者だけではなかろう。いまの国会では絶対に見ることのできない光景だ。
「寺内さんはかんかんになってぶるぶる震えている。浜田さんはまるで、子供をあやすようにやるんですね。議場はもう大拍手でした」――。
議席で対決の一部始終を見ていた星島二郎代議士(のち衆院議長)の回想だ。(『証言 私の昭和史②』テレビ東京編、学芸書林)。
浜田は明治維新の年、1868年生まれ。政友会代議士として、このとき当選12回。議長もつとめた長老。一方の寺内は1918(大正7)年の米騒動で退陣を余儀なくされた元帥、寺内正毅首相の長男だ。
議場では劣勢を強いられた寺内は、散会後に態度を豹変させ、政党を懲らしめるために衆院の解散を要求した。軍部の陰険な凶暴さがうかがえる。
広田は予算案の成立など懸案を抱えていたため、解散に消極的で、議会を停会にして冷却期間とし、永野修身海相が寺内の説得に乗り出したが不調に終わった。寺内は単独辞職をほのめかして抵抗した。
事ここに至って、広田は閣内不一致で総辞職を決めた。
あっさり退陣を決意したのは、前年の二・二六事件で前内閣が倒れた後、半ば無理やり引っ張り出された経緯があるため、宰相の地位に未練がなかったともいう。「自ら計らわぬ」生き方をしてきた広田らしい潔さだった。
これが戦前の腹切り問答の経緯だ。
小西氏―高市氏の辞職論争は売り言葉に買い言葉
総務省の「内部文書」をめぐる高市経済安保担当相と立憲民主党の小西洋之参院議員との辞職をめぐるやりとりに話を移す。そもそもの経緯は、すでに大きく報じられているのでそちらに譲る。小西・高市論争は、3月3日の参院予算委員会で交わされた。小西氏が、放送法の中立性をめぐる「総務省の内部文書」を示し、安倍晋三元首相と、当時総務相だった高市氏との電話でのやり取りが収められていると追及した。
高市氏は「放送法について安倍総理と打ち合わせをしたことはない。まったくの捏造と考えている」と文書の信ぴょう性を真っ向から否定した。
小西氏が、「捏造でなかったなら、大臣、議員を辞職することでいいか」と畳みかけると、「結構ですよ」と不快感を露骨に表した口調で応じた。
まるで子どものけんかのようなやりとりだったが、それはともかくとして、驚くのは、議員の進退が、いとも簡単に議論されたことだ。
安倍氏の轍を踏むことはないか
真相が未解明にもかかわらず辞職を迫るほうも迫る方だが、挑発に乗って思慮もなく「結構だ」などと応じる方も応じる方だろう。国民の信託を受けている国会議員の進退を、政局の具のように扱い、与野党議員の間だけで議論するのは、有権者にきわめて失礼というものだろう。今国会では、昨年夏の参院選で初当選しながら、海外に滞在し続け一度も登院していないガーシー議員とやらに「議場での陳謝」という懲罰が決まった。除名という強い意見もあったが、とりあえず穏当な手段がとられたのは、議員の身分が重いことを考慮してのことだった。
議員の身分はそれほど重いのを、小西、高市氏とも理解していないようだ。「議員辞職という重い決断は、野党から言われてするものではない。進退は投票した人たちの思いを尊重しながら、自ら決断する」とでも、高市氏は返答すべきだったろう。
松本剛明総務相が7日の記者会見で、内容の精査は必要であるとしながらも、総務省作成の文書であると認めたのを受けて、高市氏は「私に辞職を迫るなら、文書が捏造ではないと立証すべきだ」とトーンダウンさせたが、綸言(りんげん)汗の如し。国会の場での発言は取り消そうにもできるものではない。
野党が激しく追及した森友問題をめぐって安倍首相(当時)は、「私や妻が関係していたら、総理だけでなく国会議員もやめる」と見えを切って、傷口を広げてしまった。高市氏は同じ轍を踏むことにならないか。
命かけた論争と言葉だけの応酬
86年前、浜田国松が厳しく軍部の非を鳴らしたときは、二・二六事件から1年も経っていなかった。この事件では、陸軍の青年将校らが岡田啓介首相、高橋是清蔵相、鈴木貫太郎侍従長ら要路の高官を襲撃、蔵相、斎藤実内大臣らを無残に殺害した。陸軍の反感を買えば容易に標的にされる。浜田にとっては文字通り命をかけた奮闘だったろう。
小西氏―高市氏による「令和の腹切り問答」は単なる売り言葉に買い言葉、口舌だけの論争としかみえない。時代が異なることを差し引いても、浜田の熱情とは、雲泥の差、比ぶるべくもない。
泉下の浜田翁、後輩の体たらくをなんとみているだろう。←引用終わり
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