日本は、表面を飾る「平和国家」の「寝言」を「カネを撒く」事で必要以上に「存在しても、存在せずのリベラル」を体現し続けたが国際社会はそれを赦さず
日本の政治の基本は「リベラリズム」が基軸ですが、
ミギのポピュリズム(3%ほど)と、ヒダリのコミー+リベサがリベ珍(3%ほど)を大袈裟に囲い込み(10%)、
正体不明のコンプレ珍ドモ(1%ほど)が煽りを競い合う展開で、これを操り濡れ手で粟のゼニ儲けにしたいメディアが加わり、チンドン屋と同じく喧しい限りで。
日本の政治はミギとヒダリが激しく言い合い互いを非難し合う事で、悦に浸り溜飲を下げ満足しても、事の本質は何も解決されぬまま「人柱」が立つと、その「リアル」な事実を目の当たりに原因を含め是非を巡り、声を枯らすも激しく非難を繰り返すばかりだ。
ミギのポピュリストは常に「現実を突きつけ」煽りを繰り広げ、英雄を奉じ上げヒダリの「夢想」を激しく口攻撃し続ける。
ヒダリのポピュリズムも負けずに「理念や理想を開陳し」防戦に出て、ミギの稚拙で幼稚な隙を衝き激しく口攻撃に出る。
中程に置かれた「リベラリスト」は、時にミギから攻撃を受け浸食され、時にヒダリからの攻撃で占領され、右往左往しながら身を護る「穴蔵」へ駆け込み「穴熊囲い」で嵐が過ぎるまで待ち遣り過ごすばかりだった。
砂上の楼閣ながら、これを70年にわたり繰り返し歳月を過ごしきた。
つまりは「無責任」なまま、堕情のカプセルに身を包み「リアル」を観ても他人事として遣り過ごしてきたワケだ。
そこには、日本の「責任感」も、国家としての「自覚」も・・・
表面を飾る「平和国家」という「寝言」を必要以上に「カネを撒く」事で「存在しても、存在せず」を体現し続けたとも言える。
いよいよ、その「存在しても、存在せず」という曖昧さ、国際社会は認めず、広汎な「(日本の)リベラル」へ旗幟を鮮明にしろとの姿勢で迫り始めた。
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