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2023/07/19

京都は1300年を超え、徒手空拳で政治と向き合い、日本では町衆社会の構造で「市民社会」が自律と自立を培い成立し一人ひとりが自覚して立つ背景が

京都をテーマにした外(害)野の批判:


「京都の人は、古い物を自慢し、時にそれに拘りそれを商売のネタにして高値(付加価値付けし)で売買するのは、ナカナカですねぇ」とか、
「その反面で、意外な事に共産党が強いのは不思議な事ですねぇ」と、
嫌味やら遠回しの批判は尽きませんが。


まぁ、京都の社会は今も上部構造と下部構造がハッキリしています。
商売人という町衆はモチロン明確に「下部構造」です。


その昔、
京都で「上部構造」に位置する存在は「皇家」と、その取り巻きの「公家衆」で、棲まう処も内裏(御所)の周囲で、いまで言う上京でした。
あるいは、それに類を持つ有力寺院や神社が更に外周を取り巻きハッキリした支配階級として存在しました。


その「お上」のする事に「シモジモ」が口を挟むなど無用な事で「吾、関せず」なのです。


例え、上部構造へ出入りする町衆でも「注文」を受けると熟すだけの事で、徹底した分担が功を奏してきたのです。


昔から、京都の治安が乱れる原因は、
「皇家」の権力争いであり、それが昂じ「源平の争い」であり、室町「将軍家の内部崩壊」であり、それに端を発す「応仁の乱」であり、後の「織田信長の京都乱入」であり、尊皇か佐幕か攘夷か開国か、などの国を近代への途筋を二分した争いであり、田舎侍が長い包丁を振り回し、付け火(放火)するなど、いつも政治権力を巡る争いでした。


町衆は争いに巻き込まれる度に、棲み処を焼かれ全財産を奪われる被害を受け続けています。
従って、京都の町衆は「政治の臭い」に敏感で、自身を護るために常に一線を引き「局外中立」の立場を貫く知恵を自然に身に付けています。


例えば京都所司代が「高札」を建てると、直ちにその意味を理解し災厄が自身に及ばぬよう、直ちに必要な手を打ちます。
それは、一日にして立場を変える事になる点を、様々な経験を通じ骨身に染み渡っているからとも言えます。
(洛中で産まれ育った純粋の京都人に刷り込まれたDNAです)


決して、相手を怒らせず、賛否はモチロン同調もせず、本音を漏らす事など間違ってもせず、ただただ淡々と聞いておきますの徹底ですね。


しかし、世情や評判は殊の外詳しく、様々な対抗措置を考え、巻き込まれぬように身を処し、全てにおいて町衆の商人として「局外中立」を守ります。
ゆえに「政治権力」を握る側には、極めて冷静な批判や判断を下します。
それは1200年にわたり「虫ケラ」のように扱われ、拈り潰され続けた身に詰まされる歴史的体験がそうさせるのです。


それゆえ何よりも、京都は自民党も共産党もタチミンも互角です。
決して、一党一派を大きく支持する事はなく、カウンターを維持します。
その際に、イヤな相手でも顔に表さず「面従腹背」で耐え忍びます。


また、洛中で産まれ育った純粋の京都人は、町衆の知恵で「流行り物」は、必ず「酸」か「アルカリ」に漬け、結果が出るまで手出しはしません。
これらは、京都人の生きる上での知恵です。


それは1300年を超え、徒手空拳で政治と向き合ってきた、日本で唯一の町衆という構造で自立し自律した「市民社会」が、培われ成立しているためではないかと。

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