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2023/09/22

日本と(現在の)ベトナムとの国交樹立50年を振り返る・・・

日本がベトナムと国交を樹立してから50年が過ぎました。
この間、様々な事が10年毎に大きな出来事というか乗り越える困難なテーマが次々に立ち向かってきました。


1973年9月に「ベトナム民主共和国」と国交樹立!
1975年4月に「ベトナム共和国」が南部解放戦争の終結と共に消滅。
1978年にポル・ポト派主導の大量殺戮戦を阻止し解放するために「カンボジア内戦」に介入し政権打倒でカンボジアの強権政治を解放。
1985年頃まで大量のベトナム難民を南北から流出させ続ける。
1986年、「刷新政策(ドイモイ政策)」へ転換しベトナム経済の再建再生に取り組み始める。
1992年、日本が政府開発援助(ODA)を再開する。
1993年、日本ベトナム国交樹立20周年
(名古屋とHCMCで初の民間チャーター便/日本航空が取組む)
1997年、アジア通貨危機により、周辺国(シンガポール、マレーシア、インドネシア、タイ、香港)からの投資(FDI)が停滞し引き上げ。
日本からの直接投資(FDI)が積極化し増大する。
2000年初頭、社会主義計画経済(輸入資金割当)政策により日本から進出したアッセンブリー(組立工業)各社が、国内需要の急伸による部品枯渇と輸入資金割り当て枯渇により操業停止に追い込まれる。
計画経済の見直しと市場自由経済へ転換(社会主義・計画経済の否定)を図る。
AFT(アセアン自由貿易協定)にベトナムも加盟し域内相互貿易の関税自由化により経済成長が加速する。
(2003年国交樹立30周年に沖縄・那覇とハノイ・ノイバイとHCMCで初のチャーター便/ベトナム航空が取組む)
2010年代、これまでの日本からの資本主導が弱まり、代わって韓国(=SAMSUNG)の直接投資(FDI)が強まる。
2023年、日本と国交樹立50周年。日本との友好信頼関係の強化を!


簡単な覚え書き程度を記してみました。


引用開始→ 秋篠宮さま、日越50周年記念式典ご臨席 子供たちの合唱ご鑑賞
(産経新聞 2023/9/21 22:40 村嶋 和樹)

【ハノイ=村嶋和樹】ベトナムを訪問中の秋篠宮ご夫妻は21日、日越外交関係樹立50周年記念式典に臨席された。

ご夫妻は式典で、日本とベトナムの子供たちによる合唱などを鑑賞し、さかんに拍手を送られた。秋篠宮さまは関係者のあいさつに続いて、「両国の友好関係は、千年以上の長い交流の歴史の中で培われてきました」とお述べに。「これらの歴史に思いを馳せながら、日本とベトナムとの交流の歩みに触れることができれば」とあいさつされた。

ご夫妻はこの日、国家主席府などを訪れ、ボー・ティ・アイン・スアン国家副主席主催の歓迎式典や午餐(ごさん)会にご臨席。「ベトナム建国の父」と呼ばれるホー・チ・ミン初代国家主席の遺体が安置された廟で供花し、ホー氏が晩年を過ごした自宅も見学された。

また、元ベトナム残留日本兵の2世・3世ら19人と宿泊先のホテルでご面会。「北海道に帰った父のことを知りたい」「日本の家族とつながりたい」といった2世らの願いに耳を傾けられた。←引用終わり


引用開始→ 元残留日本兵2世「父の国にもう一度行きたい」 秋篠宮ご夫妻と面会
(産経新聞 2023/9/21 22:04 村嶋 和樹)

20230921-1

元残留日本兵の家族、グエン・ティ・フオンさん(右)らと面会される秋篠宮ご夫妻=21日、ハノイ(共同)

「日本の家族と、(亡き父の)お墓参りに一緒に行くようなつながりができたらうれしい」

秋篠宮ご夫妻が21日に面会された元残留日本兵の娘、グエン・ティ・フオンさん(74)は、秋篠宮さまの手を両手で固く握り返しながら、そう語った。

先の大戦後、ベトナムに残った元日本兵は、フランスからの独立を目指してインドシナ戦争に突入したベトミン(ベトナム独立同盟)に勧誘されるなどし、600人ほどが軍事訓練や戦闘指導に従事したとされる。「新たなベトナム人」と呼ばれて現地名を名乗り、新たに家庭を持った人もいたが、ベトミンがソ連・中国との接近を深めると一転、厄介者扱いされるように。ベトナム政府は元日本兵を召集して帰国するよう求め、一部は家族の帯同を認められないまま日本に引き揚げざるを得なかった。

フオンさんの父、清水義春さん(平成23年死去)もその一人だった。ベトナムで元残留日本兵の家族を支援してきた小松みゆきさん(76)は12年ごろ、清水さんの帰りを待つフオンさんの母、スアンさんと出会った。清水さんは昭和29年に「長い出張になる」と言い残し、スアンさんと3人の子供を置いて日本に帰国。スアンさんは孫に笑われながらも、清水さんが残した服を枕に着せ、「アイン、オーイ(ねえ、あなた)」と呼びかけ続けていたという。

「戦争のせいで、自分の意志で動けなかった人たちがいた。この歴史を消したくない」と小松さん。活動を通じて、元残留日本兵の家族の現状が報じられたことをきっかけに、平成18年に清水さんの訪越が実現した。

フオンさんにとって、6歳で生き別れた父との再会は「夢でも考えられなかった」。対面すると涙で言葉が出てこず、清水さんからは「フオンちゃん、子供の時と同じように涙もろいね」と声をかけられたという。

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ベトナムを訪問し、元残留日本兵の妻、スアンさんらと面会される上皇ご夫妻=平成29年3月、ハノイ

上皇ご夫妻が平成29年2~3月にベトナムを訪問された際には、スアンさんら元残留日本兵の家族16人との面会の場が設けられた。スアンさんが「私がいなくなっても、この友好が続きますように」と口にすると、上皇后さまはスアンさんを優しく抱きしめられた。

この面会は日本で大きな話題を呼び、スアンさん一家に支援の申し出の声が上がった。「日本は父の国だから、永遠のあこがれ。一度でいいから行ってみたい」。フオンさんの思いは同年10月に実現する。来日したフオンさんは、日本の清水さんの親族から清水さんの遺骨の分骨を受け取った。母のスアンさんはこの遺骨で清水さんの供養を執り行った後、30年1月に帰らぬ人となった。

秋篠宮ご夫妻はこの日、母の願いを引き継いだフオンさんと固い握手を交わされた。フオンさんは涙をぬぐいながら「義理の母や兄弟に会いに行きたい。父の国に、もう一度行きたいんです」と訴えつつ、今後は日本とベトナムの家族との交流で「孫世代が貢献してくれることを願っている」と話した。(ハノイ 村嶋和樹)←引用終わり

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