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2023/09/28

本格的な「秋」の訪れを前に大笑い話を2件 ご紹介しておきます 一つは巨大宗派の末寺で見た布教師 二つ目は歴史もある三流大学の研究会について

その1)
秋の彼岸も幕を閉じ。
近頃は、寺院と檀家の関係も変化し、寺院の維持に難渋する事態に陥っているとの事情を耳にし、既に久しいのですが。


ある宗派の寺院で住職の任にある知人の求めに応じ、その説法会に出てみた。
驚いた事に「宗派(地域の布教会)」から派遣された「説教師(布教師)」が開陳する説法の稚拙さはオドロキで言葉を喪った。


基本が、現代社会の認識と埋めようもナイ基本的なズレ(乖離)があり、宗派の基本声明を唱えさせるのみで、その本質や(得られる=約束としての)理念を語る事もせず(できず)に、説教師の日常的な自慢吹聴を延々と繰り広げるのだった。


800年前に開祖された聖人は、
この現状を目にされると嘆かれるのではないか?


説教師(布教師)であるなら、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経のどれか一つでも、一例を取り上げ現実社会との比較対象で、何か救いの示唆を語り考える機会を提供しなければ、葬儀を施行するだけの「寺院住職」に陥り、人の流動化が進むに伴い檀家を喪う事になると指摘した。
人は、現世と来世(死後)の関係が未整理なので、それに踏み込んだのが法然の浄土教として唱えたのであり、その流れを汲む浄土各宗なのだから、その原点を難しいから語らず「声明」を唱えれば救われるとする主張を否定はしないが、それは人が現世で抱える悩みを解決し解消に向かう事に寄与しない。

ゆえに「見捨てられ」衰退と踏み止まりを繰り返すのだと。


「佛教」を始め各宗教は「現世を生きる上での苦しみ」を解きほぐし、その「苦しみからの解放」を扶ける上での、昔から心の負担を軽減する「心の指針」としての「サービス業」なのだという基本認識を欠いては、まず成立しないのです。


「声明」さえをしておれば・・・
これは、比較する例は悪いが、


胡散臭い「オウム真理教」も「統一教会」も「眞光」も然して変わらないだろう。
佛教は、釈迦が至った「(インド)哲学」の集大成であると考える側には、
自らが求め求道する「宗教哲学」の一つでしかないと考える側には、形式化された各派各宗の布教姿勢には大きな違和感が残るばかりだ。


形式的には、表面上のお付き合いはするが、表面上の評価を求められても、実際に哲学的な意味での評価はできない。と応えておいた。


その2)
呆気大学についての感想:


呆気大学は前身の専門学校から算え90年近く存立する大学擬きだ。
ある時、友人が「学長」に就いた。


研究の場で共通する分野を議論する事があり、彼が学内で主宰する研究発表の場に何度か招かれ、学術交流の場としても有効だった。
研究分野の人的繋がりも拡がり、著名な研究者が「教育研究」の立場から何度も出講され、俄に熱い研究論述の場が出現し、周囲の目も変わり評価も大きな期待を見せるようになった。
しかしながら「大学」は学長選挙規定もあり、最長8年を勤め上げ友人は去った。


彼が、主宰し再興した研究会は「名と仕組み」だけが遺された。
継続して研究会の案内を受け、時間が許す限り「出席」できる時は出席した。
しかしながら、担当者が代わると徐々に「テーマ」も低下し「研究発表」する人材が大きく質的にも変化を見せ始めた。


ある時、著名な国立大学の末端研究者が行った研究発表は、
その事業者の「社史を書き写し」た程度の内容で唖然とさせられた。
基本的な事業の社史としての枠組みは、当該社のホームページにも公表掲載されている程度で深みもない代物であった。

また別の会に登壇した著名な国立大学で研究する末端者は、ある地域の「鉱山資源」についての研究成果を披瀝したが、その「意味」も「目的」も期待される「成果」もなく、小学児童の「遠足感想」を羅列したに過ぎず、地域経済を刺激する上での「経済資源(観光資源)」への問題提起もなく、ダラダラっと私は現地へ行ってきたのですよ・・・ だった。

この2件は、余りにもお粗末で、厳しい批判コメントを迂遠に加えた。


すると、後継の主宰者から研究会の案内が届かなくなった。
実に分かり易い対応だ。
一流は疎か二流にもなれない三流の大学というのは、この程度なのだ。


何よりも基本の研究能力を保持する人財を得る事もできず、従って諸説を論じる事など不可能で、教育以前のお粗末な話に終始するワケです。


三流で、この程度なので世間が評するFランクの四流というのは、評価以前の問題で、喰うための生活互助会に過ぎません。


先日、超級の国立大学を退いた顔見知り(学長だった友人に連なる)の研究者(当該大学へも出講者)と出会い、この話を披露すると「苦笑い」を返された。


文系(社会科学系)とはいえ、当該の大学へ学生は、学位記を買うために4年間で500万円を超える金額を納付しているのですが。

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