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2023/11/24

釈迦が説き遺した佛教は宗教というより生の「大哲学書」だ! 「衆生無邊 煩悩無盡 法門無量 佛道無上」であり生きる事は生も悩みも学びも佛も限りなく

釈迦が説いたとされる教えを捉え、様々な言語に書き写し遺した「佛教」は、末端では「宗教」として認識され信仰されているが、基本は「真理」を追究する「哲学」であり、その過程で求道者は自らの悟りを得ようとするので、様々な理解や悟りが存るのが普通だ。


人が生きる過程で、様々な軋轢や葛藤があり、その克服に人は悩み苦悩する。時に救いを求め幻影に惑わされ、その都度に救いを求めようとするが、釈迦は「答」ではなく「思考の方法」を述べたのであり、それをどう受け止め思考し求道するかは夫々であるかと・・・


釈迦の遺した言葉は、佛の言葉(佛陀の言葉)として弟子により様々な言語(言語)の文字で記され伝えられ、求道者には「真理追究」の「大哲学書」の教科書(佛典)として用いられ、各地へ各国へ伝えられた。


ゆえに、例えば最澄が開いた「天台」の延暦寺も、空海が開いた「真言」の金剛峯寺も、基本は「大学」であり、奈良では南都六宗は哲学を追究すると共に、燦然と輝く最先端の「知(インテリジェンス)」としての学問修行所だったと考えられる。


そこから派生しながら、日本では様々な修行の場としての「学びの道場」として初期の寺院が形成されている。
やがて、いくつもの理解や学びを得た上で、幾つもの教義が打ち立てられ、様々な「宗派」が林立したとも言える。


いくつかの新興宗派は、
残念な事に釈迦の「自由な哲学(理解)」から、大きく踏み出し「宗派としての理解・教義」を押し付け、入信を求め、自由な解釈や理解を悉く縛り上げるのは教義ではなく狭義の強制ともいえ、偏執な世界を強制したがるのは何よりも未熟であり胡散臭い事を示している。


一神教の信仰は洗礼を受け「入信(契約=制約=縛徒)」が先だが。


佛教では釈迦の説いた事に触れ学ぶのは自由で縛られる事(修行の確立された所作などの方法を除き)はない。
未熟な宗教概念の押し付けは、宗教上の「教義を真理」としての強制として為すため、小さな僅かな事でも「争い」に連なる。


宗教は、悩み苦しむ人の解放の途筋を考え得ないようなら、その存在は闇であり存立する意義はない。
とは言うものの何れの「宗教」も、人の苦しみや悩みを解決できるワケなどなく、その対象の人が抱える苦しみや悩みに寄り添い、心に抱える解決のヒントを幾つかでも提供できれば、その存在は大きいのではないか。


「佛教」は釈迦が遺した「大哲学」であり、
その「教義」は様々であり、求道する者が自由に理解や発展を縛るものではなく、しかしながら釈迦が遺した「佛典」の多くを学び識り理解するのは容易ではなく、その一部とも言える「経典」に触れるのではあるが、末端の寺院では、その不勉強もあり十分に伝達伝承する事も叶わず、死者の葬送としての葬儀に「経典」を唱える事に終始しているのが実際だろう。


例えば、
端的な「般若心経」の理解を巡っても、その壮大さに圧倒されるが、多くは唱える事で平安に浸れると喧伝した者があり、深く追究する事もなく追随する側は「般若心経」を唱える事で修められていると考えるワケで、会得し体得し得ていないとも言えるが、佛教は一々個々人の細かい事などには触れないのだ。

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