1968年に吉本隆明は「共同幻想」を著し、宗教や国家は権威主義を統治の手段として創出形成し「人を縛る」ための手段に " 幻想 " に過ぎぬと看破
嘗て、吉本隆明は1968年に著した「共同幻想論」で、
人および国家について以下のような指摘で、
"人間は自分の創り出したフィクションである共同幻想に対して、
時に敬意を、時に親和を、そして時に恐怖を覚える。特に、原始的な宗教国家ではこれは顕著である。
その共同体で、触れたら死ぬと言い伝えられている呪術的な物体に触れたら、
自分で本当に死ぬと思い込み、心的に自殺すると言う現象も起こりうる。
個人主義の発達した現代でも、自己幻想は愛国心やナショナリズムと言う形で、共同幻想に侵食されている。” と、看破し論じた。
「パレスチナ」と「イスラエル」を冷静に眺め観て、改めてその「共同幻想」の根深さに驚くワケで、それを「イスラーム」の教えだと掲げ、後ろから巧妙に「尻を搔き」「糸を引き」「操り差配」して恥じぬ「イラン」の影を観ると恐ろしい。
それに目覚めぬまま周辺を固める、アラブ諸国の強固な「共同幻想」は、社会文化の習俗(宗教律・社会律・生活律)として、地中深く刷り込まれ染み渡り、どこまでも「正系」であり、それに異を唱える者は「異端」として排外され排除され断罪され、現実に「生」を断たれ、それを見せられ恐怖に戦き臣従を余儀なくされる。
その権化ともいえる「イラン」を観よ、派生形の「アフガニスタン」を観よ、そして「シリア」を観よ、また「レバノンでヒズボラが支配する地」を観よ、それに「イエメン南部のフーシ派支配地」を観よ、何よりも「パレスチナのガザ」を観よ。更にアフリカで「南スーダン」を観よ。
いずれも「宗教」による強力な縛りが「共同幻想」の源としか見えず窺えない。
対する「イスラエル」も同様の「宗教国家」であると冷たく突き放し眺めている。
無謀ともいえる「宗教支配」が無知を生み、それが拡大し刷り込み続ける「共同幻想」が造りだした「恐怖社会(政治)」が示す狂った国家モドキは、世界に余りある。
日本も、大きな口を叩くことはできない。
薩長の田舎侍ドモが、彼らの政治権力基盤を正当化し安定させる目的で、近代国家モドキの権威主義の「大日本帝国」を形成し、
「天皇神聖論」を都合良く造りだし、何よりも「父権論」で縛り「絶対不可侵」であるとした近代史を保つ国である事を弁知しなければならない。
「絶対神=アッラー」が全てを支配するとの「共同幻想」に酔いしれるイスラムの教義を刷り込まれ、突撃自爆を繰り返す側の人を批判も肯定もできないのではないか。
客観的な立場で「共同幻想」から覚醒し、来し方を振り返り省みる事でのみ「個人の尊厳」と「幻想」でも、緩やかな「共同協力社会」を取り返し「自律と共律」し合える事(理解)以外に解決はないのでは。
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