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2024/02/24

横浜は、野毛山の裾「黄金町」の変遷を " 讀賣新聞 " が、アートの街への再生を取材し報じている。慶応と三田会を自慢する怒阿呆が蔑む事に腹が立ち

それは、確か40年ほど前の2月の事でした。


受験シーズンと重なり、大人数でもあり都内での宿舎が確保できず、
然りとて不案内な者を含む状況で、一定の部屋を確保するのも一苦労に。
探しに探した挙げ句は、横浜は黄金町の「ニューオータニ・イン」でした。


とにかく、京急一本で品川まで到達できると考え、必要人数分を手配し確保したのですが。


業務先で、口さがない人物が,

” 「黄金町」を知っての事ですか?"
” ヒロポンのマチですよ。ご存じないかも知れませんがネ ” と。

" それ が、どうした!? そこまでお為ごかしのクチを利くなら、多少は手配や手当に協力し、汗を流してから言いやがれ!" と、
怒鳴り返したのだ。


何かに付け「開成」と「慶應」の出を自慢する、最も、イヤ味な野郎だった。

返す言葉は、
" それだけの自慢野郎が、ナンで「三田会」の応援も得られずに、
こんな腐った事業会社へ職を求めたのだ!? 説明してみやがれ " だった。


例えば、
大阪で、西成区山王を「飛田」じゃないか? と批判し蔑むのも同じだろ。


それを赦されると思っているのがカシコアホォ~「淺バカ」の悲しいトコロだ。
以来、一貫して「慶應」と「三田会」は、鼻持ちならぬ、許しがたい天敵と化しているのだ。


ナンと、その黄金町を讀賣が記事にし紹介している。


引用開始→「青線」だった横浜・黄金町、香水と体臭がまじった宿がアートの街に変わった「バイバイ作戦」
(讀賣新聞 2024/02/23 15:05)

 新聞記者になって横浜支局に赴任して、巡りあった街・横浜市中区の黄金町。街を彩るアートにひかれて取材を始めてみたら、なんとこの街は、終戦まもない頃には非合法の売春街「青線地帯」だったという。現在の姿に変わるまでに一体何があったのか。往時を知る人々を探し出し、一緒に歩きながら地域の歴史と未来を探った。

「戦後の街はぐちゃぐちゃだった」
 京急線の黄金町駅で降りると、高架の線路下にフェンスが続いていた。人物像、動物、抽象的なデザイン。豊かな色合いで様々な絵が描かれている。同じ形の建物がずらりと並ぶ。一見、質素に見えるが、実はアートのスタジオだ。中では映像が流れていたり、絵が飾られていたり。次は何があるんだろう? のぞき込みながら歩く。

 「この絵がお気に入りなの」。大きなヒマワリのような花が描かれたフェンスを指して、「いいでしょ」と教えてくれたのは中沢秋子さん(88)だ。京急線を挟んで北の初音町と南の黄金町を合わせて「 初黄はつこう 」エリアと呼ぶ。中沢さんは生まれてから計80年以上を初黄で生きてきた。

 愛着のある自分の街。それでも「本当に嫌だ」と、街の光景を憎んだこともある。それは第2次世界大戦後、そして高度経済成長期。日本の各地にあったかもしれない、街の暗い顔を目の当たりにしてしまったからだ。「戦後のこの街は、ぐちゃぐちゃだった」

注射器が散らばり、街角に立つ女性たち
 疎開先の新潟で終戦を迎え、翌年この街に戻ると光景は一変していた。路地には注射器が散らばり落ち、街角には女性たちが立っている。米軍に接収された中区には、その形状から「カマボコ兵舎」と呼ばれた米兵の住まいがあった。彼らは大岡川を渡り、黄金町へやって来た。

 戦前の日本では売春を公的に管理する「公娼制度」があった。GHQ(連合国軍総司令部)は1946年、民主化政策の一環として同制度の廃止を発令。しかし政府は特定の区域内での売春行為を黙認し、その区域が「赤線」と呼ばれるように。黄金町は、黙認もされない中で、公然と女性たちが客を呼びとめる「青線」地帯になっていた。

 10歳代前半だった中沢さんは、自分と一緒に歩いている父に「お兄さん、どう?」と女性が声をかけてきたことが強く印象に残っているという。当時は驚くばかりだったが、年齢を重ねた今は別のことを思う。戦闘が続くウクライナやガザの映像を見て、あのころ街に立っていた女性たちは「親を亡くした戦争孤児だったのかもしれない」と想像することもある。

米軍が消えても残った「非合法の街」
 1951年のサンフランシスコ平和条約と旧日米安全保障条約の締結以降、米兵の姿は徐々に消えたが、「非合法の街」は残った。客が日本人に、性を売る女性は外国人に変わっていった。

 初音町で結婚し、母になった中沢さん。朝、登校する児童に、街角に立つ女性たちが「いってらっしゃい」と声をかける光景を何度も見た。娘たちは同級生の親から「あんな街に遊びに行っちゃダメ」と色眼鏡で見られ、次第に「もう住みたくない」と言うようになった。中沢さんもこの頃の街は「異様だった」と遠い目をして振り返る。

かつての黄金町エリアの様子。20年ほど前まで通り過ぎる人に声をかける女性たちがいた(県警提供、画像は加工しています)
 それから官民一体となっての悪戦苦闘があった。半世紀が過ぎた今、ここにピンク色のネオンが光り、女性たちが立っていた姿を思い浮かべようとしても、うまく想像できない。彼女たちはこの街を見ながら何を考えていたのだろう。

 中沢さんは今も、初黄と日ノ出町の環境浄化を進める協議会で相談役を担っている。あんなにも「嫌だ」と思った街にお気に入りの場所を見つけて、中沢さんは穏やかにほほ笑んでいた。

摘発にかかわった刑事「夜に一人で歩けなかった」
 黄金町の夜は、明るすぎず暗すぎない。高架下の飲食店から淡いオレンジ色の光が漏れ、アートスタジオには小さな明かりがぽつぽつとともっている。狭い路地を進む人たちは仕事帰りだろうか、男性も女性も一人で歩く。

「月60万円という法外な家賃でも難なく払えるくらい、当時の売春宿はもうかっていた」と振り返る元捜査員の男性(横浜市中区黄金町で)
 ここにはかつて、数多くの「売春宿」があった。当時、幾度となく摘発に携わった50歳代男性の元県警捜査員は、「本当に変わったよ」と現在の街を眺める。「夜に女性が一人で歩くなんて、ここでは考えられなかったんだから」

 戦後に非合法の売春街「青線地帯」へと変容した黄金町。米兵の姿が消え、性を買う側、売る側の双方が変化しながらも、売春宿は存在し続けた。

 新幹線の高架橋さえ崩落した1995年の阪神・淡路大震災を受けて、県内でも京急電鉄が調査したところ、黄金町の高架は耐震性に問題があると判明。高架下の約100の売春宿は立ち退きを余儀なくされた。だがそれで売春街がなくなるほど甘くはない。業者が近くの土地を買い、宿を営むママが借り、新たな売春宿が誕生する。店の数は倍以上に膨れあがった。

 元捜査員が県警に採用されたのはその頃だ。若い交番勤務時代には、上半身を露出した女性に「お兄さん、どう?」と声をかけられギョッとしたというが、県警本部の捜査員となってからは容赦なく現場に踏み込む立場になった。

多額の借金を背負って働く女性たち
 売春宿の入り口は、扉が3枚引き戸になった造り。狙いを定めた宿に入り、薄暗く急な階段を上がる。2階に並ぶ部屋の一つに踏み込むと、2畳ほどの小さな空間に布団が1組敷かれ、男女がいる。15分もかからず、1万円の違法行為。「独特の香水と体臭が混じったにおい。今でも思い出せる」

 ここで働く外国人女性の多くは、母国で多額の借金を背負わされていた。返済を既に終え、強制退去処分を前に平然としている女性もいれば、まだ数百万円も残っていて、警察に捕まるまいと大暴れする女性もいた。「必死に逃げようとする姿を目の当たりにしたときは、少し切なくなった」と、複雑そうな表情で話してくれた。

250以上もあった売春宿
 2005年1月、当時の伊藤茂男・県警本部長をトップとする「歓楽街総合対策推進本部」が設置された。伊藤本部長は前年の定例記者会見で「(売春宿を)すべて撤去するためにあらゆる法令を駆使する」と厳しい姿勢で臨む方針を表明。さようならを意味する英語と売買春をかけた「バイバイ作戦」の号令をかけた。

 機動隊を街に24時間常駐させ、訪れた客には片っ端から職務質問する。まず客足を断つことで、店の営業を苦しくさせ、250以上もあった売春宿は追い込まれていった。その後、アートで街ににぎわいを取り戻す動きが始まることになる。

元売春宿の一室。往時の様子が伝わってくるようだ
 今、売春宿はなくなった。だが、アートスタジオなどに活用されずに残された建物もある。

 記者が訪れた元売春宿は、小さな部屋が三つ並んでいた。室内には布団が1組だけ。2畳ほどの部屋はそれでほとんどいっぱいだ。散乱した避妊具、アクセサリー。案内してくれた県警の担当者は「この状態のまま逃げていったんだろうね」とつぶやいた。その場所だけ、時が止まったようだった。←引用終わり

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