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2024/02/06

もぉ忘れられたか叛島のタコ坊主「許永中」が引き起こした「イトマン事件」は、磯田一郎の「住友銀行事件」そのものだったと3年前の巽外夫死没で思う

2021年の2月04日 に、お友達のOさんがシェア投稿の「日鉄物産が三井物産と提携を検討する」が、
それを拝見した際に様々な思いが走馬灯のように巡り錯綜しました。


日鉄物産は、伊藤萬(イトマン)が事件後に、住金物産へ統合され、新日本製鐵と住友金属の経営統合で「日鉄住金物産」となり、社名変更で「日鉄物産」への道程があり、その過程には感慨があります。
2021年の2月06日、偶然とは言え、「イトマン」の解体処理を指揮した「住友銀行」の巽外夫(元)頭取が老衰で逝去、との記事が朝刊の一面に、追悼提灯記事が5面に報じられ。
更に、これは偶然の事ながら、最終面下の広告欄には小学館の「堕ちたバンカー」が・・・・・


イトマンが傘下に収めた事業会社に関わりを持った側として、イトマン生え抜きの出向者の思考や取組み、支配下に置かれた現場の社員の熱情、さらに何よりも「住友銀行」の特命(解体支援)チームを率いたM氏の意向、これらの綱引きと「名を残す」「損切りするが回収はする」「(住銀が)世間から弓を引かれない」「従業者の体面を守り再就職先を適正に確保する」が最大のテーマでミッションだった。


しかし、一切それを表に出すワケではなく、普通に事業展開を助言した。
同時に、住友銀行のイトマン派遣陣は、大阪船場の老舗「イトマン」の体面を守り、来たるべく回収と解体に向け利用する目的で、住友住友銀行が、1980年代にイトマンを占領支配した際、磯田一郎住友銀行頭取(天皇と呼ばれ君臨した)の子飼い河村良彦(事件の最大責任犯)が、他社へ石を投げ追い払った、創業家の伊藤直三氏を体裁を保つために呼び戻し、権限のない会長に就け奉り上げ、住銀が派遣した秘書団が周囲を固め「座敷牢」幽閉状態におき、対外的に名だけを徹底利用した。
(お訪ねした際、伊藤直三氏が見せた無念の表情を慮るばかりだった)
それを指揮した、当時の住友銀行の頭取巽外夫が逝去したと。
ホォ~、畳の上でか・・・・・!?


なお、住銀から送り込まれた河村良彦が常務に就けた伊藤寿永光(冠婚葬祭屋)は、創業家の伊藤家とはナンの関係もなく、何処の馬の骨かも知れぬ(半島塵の鮮人との指摘もある)反社の表構成員だった。
在日半島塵のタコ坊主「許永中」の草履取りであった。
イトマン事件は、ナンの事はない「住友銀行事件」そのものだった。


イトマンと住友銀行を巡る様々な出会いや、その人間模様に関わる30年の半分15年にわたる出来事を思いながら、1日が暮れようとしていますが。
外からと云うか横から眺めた大阪船場の中堅商社イトマンは、興味深い会社だったなぁと改めて考えますねぇ。


基本は、伊藤萬商店を創業した伊藤家と、それを支える大番頭(経営陣)を中心に、手代や丁稚に見習いが組織され、戦時や危機を何度か乗り越え来た「船場の大きな個人商店」が、1970年代後半も基本だったようで。


経営体制を強化するために「大卒社員」を幹部候補生として、1960年代から一定数を採用し始めても、基本は、見習いや丁稚の修行が原則の「高卒社員」が大半で、多くは基本が兵隊で、しかも「突撃兵」だったように見受けます。
1970年頃でも、当時の船場(大店、小店を問わず)は多くが「繊維商」の集まりですから、地方から安価な労働力を調達(採用)し、餌は「独立開業」で釣り上げる社会だったので、繊維製品を扱う超大店の伊藤萬が、それでも何ら不思議はなかったのでしょう。


例えば、東大出の岡藤に率いられる今の「イトチュー」も、当時は嘱託外務員という「机と電話と名刺」を貸し与える歩合制の非正規員を抱えていました。
他の商社も同様だったのだろうと考えます。


伊藤萬は、1970年代に2度生じた「石油ショック」による景気変動に巧く対処できず、メインバンクであった住友銀行の支援を受けました。
その際に、住友銀行から社長として送り込まれたのが、当時の住友銀行に頭取として君臨し差配した「磯田一郎」の第一の子飼いだった「河村良彦」でした。


確か、河村良彦も住友銀行での採用は「高卒」で、突撃兵だったと記憶しています。
「向こう傷は問わない」が、磯田一郎の檄言で、それに忠実に応えた名誉ある「下士官」が河村良彦だったのだろうかと。
河村良彦が占領軍の総司令官として着任し、最初に手がけた事は、創業家の一掃であり石礫を投げ追い払う傍ら、磯田一郎の命に応え第三者割当増資で創業家の株式支配を削ぐ事と、イトマンへの社名変更であったかと。


まるで「戦国時代の合戦」そのものです。
次は、旧い高卒採用の中堅余剰社員を大胆に、伊藤萬の傘下会社へ放り飛ばす(転籍、次に退社させ先での役員に)事を徹底し、河村ワンマン体制の確立を成し遂げたといえます。


刃向かいそうな大卒採用社員の切れ者は、新規事業会社を次々に立ち上げ、社長に就け巧妙に追い払いました。
従って、経営者としての器でない人物が代表する会社は結構な数ありましたが、人間性の機微を大切にする人柄が取引先で買われたのか事業成績は良好な社が、イトマン解体時にも一定数で存在していました。
それらの大半は、高卒採用され見習いや丁稚を経て手代になり小番頭くらいの地位を得ていた苦労人の人達が社を率い代表でした。


それらの数社からイトマンは資金(損失)を回収する目的で、事業革新を必要とする会社の指導的助言の要請を受け、そこに勤める社員の希望とは異なる「ゴール」設定ながら、住友銀行の経営支援チーム特命担当M氏の目標に沿わせるために、受け入れ目標に向けた取り組みを行いました。
徐々に次の就業先を世話し、安定までは約束できないものの当面の「収入」を潤沢に保障できる状況を造り出し、損金回収の目標に達した頃を見計らい有無を言わせず「ゴール」を引き幕を降ろしたのです。


特命担当のM氏は、実に肚の座った痛快な人物でした。
住友銀行が嫌いな側ながらも、M氏だけは信頼できました。
どうしてそれを判断するのか? と、問われるなら。
回収の過程で、様々な「反社組織」や、それに繋がるゴロツキが、立派な紳士として姿を現すのですが、目は「反社のヤタケタ」そのもので、言葉巧みに脅しをかけてくるのに対し、一切、怯まず、丁寧に話を聞き、限度イッパイに達すると間違いなく、攻守ところを替え開き直り蹴散らすのです。
その胴間声と迫力は堂に入っていました。


その種のガラクタというか、ヤタケタを何度か相手にしてきた此方も、惚れ惚れする胴間声には危機迫る怒迫力がありました。
「ジャッカマシィわえ、オンドレ!」と言う胴間声の怒鳴り声が響き渡った時が、110番というか最終通報の合図で、打ち合わせどおり待機する側が、現行犯逮捕に踏み込むシナリオでした。
そこまでは、事前調査を十分に精査した上での嫌疑です。
またその間の遣り取りの全ては録音済みで、恐喝強要の立件には十分な現行犯でした。


その種の「インテリ」でも、肚を決め喧嘩ができる相棒とも言うべくM氏とは、格好のコンビでもありました。
喧嘩口論を嫌い避ける傾向が強い「住友銀行」にも、骨のある「インテリ」が居た事は大いに救いでしたが。
そのM氏も先年に帰らぬ人となり、改めて寂しさを感じていました。

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