善なる理想は高邁で「反対」する理由はない。現実はシリアスで善意の理想の前に大きな壁が立ちはだかるのは致し方がない。理想の前に現実を観よ
先日の事:
それなりに親しく相互に信頼し合う友人が訪ね来て・・・
音楽関係者によるネットワークを利用した「認知症(予防)」の公益活動に参与し手伝っている事と、その仕組みや活動範囲を詳細に説明した。
なかなか、真似のできない有益な公益性を保持している(と判断した)。
できる(可能な)限り、全国へ広め普及させ社会に役立ちたいと言う。
現在は首都圏(特に1都3県)を中心に、著名な音楽関係者が介護施設を訪問し、慰労や慰安を交え入所者の記憶にある優しい音楽を共に歌い手足を動かす事で機能を維持し表情を変える働きがあり効果も確認できるとの事だ。
素晴らしい活動の大半が音楽関係者の「ボランティア」により支えられている様子で、施設の入居者には既に過去も過去も大昔の記憶に隠れた人達ではあるものの、音楽と共にその人の声で懐かしい歌曲を聴くと、表情が綻び涙を流す人もあるという。
機能を喪いかけた「悩」が刺激され微かな「記憶」が戻るのだろう。
「リハビリ」に大切な事は、無理のない優しく「悩」を緩やかに刺激する事で、しかも負担にならない方法を効果的に継続することが基本だ。
でぇ、ここまではヨイ話なのだが、
基本が「ボランティア」という人の善意ある行動に軸足があり、社会的な広がりと人材の確保に限界がある事を吐露し、何らかの方法を講じたいのですがと。
善意の奉仕を集積する現在の形でヨイのでは・・・
日本全国へ拡げようとする考えや気持ちは理解するけれど、
入居施設には、それぞれの「経営係数」が厳然とあり、スタッフの人員もそれに縛られている。
優良な施設は「入居費用が高額」であり、充実しているため受け入れ余地(協力余地)は高いと考えられる。
しかし、いま社会が抱え込まされているのは、ハッキリ言って然程の資金的余裕もない一般的な大衆下層に属した人達の収容施設であり、そこへ入居する人の大半は「後期高齢者」であっても現場労働に就き僅かな収入を得ながら糊口を凌いできたゆとりのない人達だ。
その人達を収容する施設はハードもソフトも実に劣悪で、そのような文化的リハビリに取り組む施設も人員も有しないのが実態だ。
言葉を替えれば「牢獄」と変わる事がないとも言える。
何よりも、ボランティアに依拠し支えられる事で組織は成立しても、全国へ拡大し広めていくにはマネジメントできる人財を必要とするが、その人も含め清廉なボランティアで成立させるには無理がある。
何よりも「介護制度」の規制そのものが「社会主義政策」の見本に他ならぬワケで、日本の医療介護制度そのものを国が丸抱えし平等に生命を全うさせるという建前は理解しても、現実には破綻しているのであり、その点の基本認識が理想は理想としても「議論の出発点」ではないかと指摘する。
人が人として「人間らしく」自らの生を如何に全うし命を終えるか?
これは、
人それぞれの思考が色濃く反映される。
何より、
その人の財産状況が明確に滲み(炙り)出るのは仕方がナイ。
訪ね来た友人への結論は、
基本が人による善意のボランティアである事は素晴らしい。
その基本に賛同し参集し奉仕しようとする人の行為に収める事だ。
全国にその活動が理解され拡がれば、それは僥倖な事ではないかと。
無理に制度化(善意のボランティアではなくなる)する必要は無い。
善なる事、善なる行為、佳き事は、自然な広がりをみせるのだ。
人の尊厳や、人の死生観が大きく、国や社会を超え規定する事が最も大きく、避けられない要素であり、何よりも「人」は弱い存在に過ぎないとの認識が出発点ではないか?
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