京都国立博物館の「法然と極楽浄土」展示を観覧し、受け継がれた布教のツールとしての「経典」と「曼荼羅画」の文化的価値の見事さに目を奪われる
京都国立博物館:
「法然と極楽浄土」へ、足を運び・・・
法然により「浄土宗」が開宗され850年に当たり佛教美術の展覧を。
展示の基本は、
約850年~800年の歳月を経た筆写(写本)や曼荼羅また軸画などが展示され。
その昔、写経の重要性を喧しく言われた事がありますが、
悪筆であった側は邪魔くさい話と相手にしませんでしたが、
800年を超える細かく美しい筆書きを前に、大きな反省と赤面を余儀なくされ。
経典の筆写本は、丁寧で綺麗な墨書文字が並び、
歳月の経過、時と共に広汎に布教を伝えた解説伝書には、既に「ひらかな」も「カタカナ」も読みやすく併記され。
鴨長明が記した「方丈記」の丁寧で綺麗な完全筆写巻物(大福光寺 所蔵)に出会え、
その美しい文字に惹かれ思わず見入りました。
「当麻曼荼羅図」をボランティアの皆さんが、
極楽に棲むという迦陵頻伽(かりょうびんが/人鳥)を含め「極楽と地獄」を、曼荼羅の画を解説し学ぶ「ワークショップ」が開催されたり。
解説終了後に、少し質問を。
☆「学芸員の方ですか?」
★「いいえ、ボランティアです!」
☆「そうですか、分かりました。
" 曼荼羅 " は、現代なら " 何 " に当たるのでしょう?」
★「そうですね・・・、分かりません」
☆「" 曼荼羅 " の基本構図は、" 紙芝居 " じゃないですか、
あるいは " マンガ " また " コミック " でしょうね。
伝えるには、画 が有効だったと説明されましたよね」
★「はい。そうですね!」
☆「更に、現代のツールに置き換えれば、
" インスタ " や " YouTube " が、軸になりますかね」
★「勉強不足で、申し訳ありませんでした」
☆「そんなに事を仰らず、せっかくの機会ですから、
関連した知識を付けられますと、幅も拡がり楽しくなりますよ」
などと、感想と雑談を交わし。
昨年は、法然の直弟子「親鸞」生誕800年で、佛教美術の筆写本や画軸などを展示し、
京都の文化芸術の幅広さと深い奥行きを見せました。
ワークショップに参加されていた方と、以下 ↓ の話を
佛僧でもない者へ、
「釈迦と阿弥陀は、どちらがエライのか」と質問され、面喰らいました。
思うに、書籍として「佛陀の言葉」にもあるように、
また「涅槃画」も遺され、生前も逝去後も釈迦は「釈尊」とも呼ばれ実在した人物で、
様々な「真実」や「真理」を説き「哲学」としても体系化し、悩み、苦しむ人に接し、
自らの考えを「説き」示唆を与え、生きる途へ導いた人物で、
その説話で生きる途の「喜び」を得た多くの人から敬愛され尊崇された、
偉大な「哲学者」であり「宗教者」として、
多くの「書物(=佛典=経典)」<弟子たちが>を遺した「指導者」だと受け止め考えています。
阿弥陀は、想像上の存在で実在はなく、
釈迦が捉えた「大宇宙観」の空間に想像的に存在する対象と考え捉えています。
例えば、地球は「銀河系(小宇宙)」の星ですが、
この宇宙空間には「銀河系宇宙」と同様に、様々な大小いくつもの宇宙が存在し、
そこには現世(いま)を生きる生命体と同じような、あるいは遙かに超える大きな存在があると考え、
それは現世(いまの世)の此岸(しがん)と広大無辺な彼岸(ひがん)に分けて考え、
彼岸は光り輝き眩しいばかりの黄金が満ちる極楽浄土なのだとし、
そこには全てを救う「阿弥陀」が待ち迎えてくれると、
現世を苦しみながら生きる救いを示唆する存在の象徴と考えるのが自然ではないかと。
結論を言えば、実在(者)と想像上の架空(者)を、
同列に比較し上下を論じるなど、それは実に愚かな事ではありませんか。
佛教の経典で、
例えば「般若心経」は、見事に「宇宙観」を示し、
自身と他者・他物との関係の捉え方(考え方)を説き示唆を与えています。
これは、釈迦が入滅するまでの修行(瞑想を含む)の過程で、
発見し気付いた実に偉大な「真理」ではないかと・・・
その彼方の世界(西方の十万億土の地)に、超絶した煌びやかな得も知れぬ理想郷の世界があり、来迎される事を待つのだと。
現世(いま)に苦しみ生きる者に
「苦しみを抜き喜び楽しみを与え」つつ、「抜苦与楽」の慈愛で包み。
小さな事に拘るな、見方を変えよ「ナンの問題もない」囚われ、苦しむなと教え、説いたのが創始者としての「釈迦(釈尊)」で、その理想郷(極楽世界)で衆生を導くのが「阿弥陀」と、創始者である「釈迦」と考え捉えるのが自然で分かり易いのではと・・・
衆生の人々は、その教えを生きる上での示唆にし釈迦を釈尊として、
佛として考え、遺された教えを佛の教え、佛教として受け継ぎ広まったと考えています。
宗教としての佛教に明確な形や象徴はありません。
シンボライズされる「あらゆる形や印形」は、
後世の過程で便宜上形成され理解され共有されたモノで、
あくまでも「経典」は「哲学書」であり、様々な解釈や理解が個々にあり、
それぞれの内側であるいは広汎に伝達される過程で、
環境条件に合わせ変化しながら受け継がれてきたと言えます。
(この掲出の印というかマークも、Wiki からの拾いに過ぎません)
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