パリを始め世界の大都市は油断ならぬ人間の捨て場で、そこに廃棄されたヒトが喰うために有りと有らゆる知恵と技を繰り出し他者の金員を奪い取る
この後、何か特別に取組みたい事をお持ちですか?
出講先の講義を終えた後に、学生諸君と珈琲を共にしながら質問を受けた。
いろいろ考えた挙げ句、時間を十分にとり「体力と気力」のある間に、🇫🇷 パリをゆっくり再訪したいと答えた。
パリには、華やかさの陰に「真実の鬱屈がある」
「水清ければ、魚棲まず」の教えどおりの薄汚れた顔がある。
そこは、ある意味で、打ち捨てられた巣窟ともいえる貌を隠している。
貧しい日本の貧しい家庭の伯父と思っていたKが、貧苦に喘ぎながら絵画を学ぶため小磯良平先生の下を離れ、パリの屋根裏に滞在して過ごしたのだ。
吾が母方の家は家長だった伯母が、実母の実家でKは血縁に当たる事もあり、農地改革で居住地として遺し得た貸与地を借り主に売却し、カネを工面して支援していた。
Kは、家族や親戚に送られ「神戸からマルセイユへ向かい、数年パリに滞在し、マルセイユから横浜へ」戻り家族に迎えらた。
Kが帰国後に見せてくれた撮り溜めの「コダクローム」に、閉じ込めた素顔のパリがあり、それを観て感動し、自分もパリへ行こう(行きたい)と考えたのは確か小学4年生(10歳)の頃だった。
今も強く印象に残っているのは、ノートルダム寺院の見事なステンドグラスを撮したスライドだ。
だから自らも長じ、それが容易く実現できそうな業界の業種として、アパレルのホールセラーを「コンサル客先」に選び、丁稚奉公然のような事も経験しながらも自分自身で途をつけ手に入れ、愉快に過ごした。
嘘も方便じゃなく、ウソ八百だったかも知れない。
学生諸君は、なぜ「体力と気力」が必要なのですか? と。
だって、何よりもパリで油断すると、身ぐるみ剥がれるからね、と。
世界で類い稀な美しさを保つ街だけれど、類い稀なまでに精巧な盗人を沢山抱える街でもあり、油断も隙もあったモノじゃない、と。
(実際には、人も建物も、本当に薄汚れた肥大な街だ)
そして「エスプリ」を愉しむけれど、何より「シニカル」な街だ、と。
アンバサダーに泊まり、右岸ではトロンシェへ、左岸ではセーブルへ、足を運びたい。勿論、モンテーニュは訪ねたい。
パリの価値を決定づける「オペラ座」は必見だ。
Kが過ごしたというモンマルトルも30年ぶりに改めて歩いてみたい。
他には胃袋の素のムフタールも、クリニャンクールも、改めて眺めたい。
足掛け45年、その内の30年は足繁く通い、短時日でも仮寓だった街。
パリは、毎日僅かな変化を加えながら、雰囲気を捨てずにパリの顔を保ち続ける不思議な街だ。
インテリの多い地区では、毎日カフェが「議論の場」になり、その臭いに呼び寄せられるのか。
労働者の多い地区では、カフェは毎日「賭場」になり、臭いが人を呼び集めるのだろう。
不思議な顔を隠しもしない。都市とはそういうモノだ。
やや複雑な「都市ビジネス」の貌を眺めるには、憂鬱そうな顔をしたパリが魅力的だともいえる。
ルーブルへ足を運ぶなら、ミロのビーナスも良いけれど、
やはり、勝利の女神「サラトマケのニケ」の像だと思っている。
でも、ヨーロッパの都市を訪ねるなら、第一は「プラハ「を奨めたいと付け加えておいた。
見事に修復された「中世の都」が街全体としてそこに遺されているからだ。
そのような取り留めもない学生街の座談だった。
そうか、あれは2008年だったのか!?
でもでも、Z世代の若者(学生諸君)の目は、
強い意志と先の希望を持ち輝いていた。
この中の一人は、ベルギーへ留学した。また一人はロンドンに居る。
既にパリで活躍し10年以上が経過する一人は、カナダのトロントへ移ったと、今年(2024年)の夏に言ってきた。
「世界で競う、世界と競う、競争図べき相手と競う」を実現し格闘している。
知識と知恵と技術と冷静な勇気だ!
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