文化としての「日本酒」造りで「麹菌造り」を含む一連が「世界無形文化遺産」登録に適切とUNESCOの評価委員会(ICOMOS)が答申と伝えられ
「文化はカネになると、よく言われますが、
本当になりますか、どのようにカネになりますか」
と、直球の質問を受けた事があります。
" 文化 ” そのものがカネに換わる事は、
芸術・アート作品が高評価を得る事で " 売買 " が成されると、
分かり易く「カネ」を得る事ができますが、それは極めて稀な事です。
1点ものの作品でも、同じモノを一定数造形できる作品でも、
自ずから限界があります。
芸(パフォーマンス)の世界は、
芸というか技を普く披露し金員を得る、いわばビジネスでもありますから、
個人でも集団でも、エンターテイメント性が高ければ、
観客という対象はカネを支払いますので、換金性という点では分かり易い事例でしょうね。
「" 文化 " はカネになる」と言っているのは、そのように即物的で即効的な意味合いではありませんので。
高度な文化的蓄積や、重層的な文化性を保つ「都市や地域」は、
人を魅了し惹き付け引き寄せる魅力があります。
例えば、
京都や奈良には、他の都市や地域が一朝一夕に真似のできない重厚な歴史的積み上げによる、
地域として都市としてマチバとして、他の追随を許さない独特の匂いや風情があります。
それを求め、その雰囲気を求め、経験「コト」を求めて人が来る、
人が集まるわけで、人が来て集まれば、その人達が求める「ナニ」かを供給する者が現れ、
それを売り買いする形としての「モノ」が原始的に産まれます。
やがて、安定的な「モノ」を供給する事が求められ、必要上の理由から、
最初は「モノ真似」に始まり、やがてそれでも「価値」を産み、
それが洗練される事で「名産品」になり「土産物」として、
その「都市や地域」の「モノ=名物」として育ちます。
安定的な供給を欠かさないようにするために、
安価な商品でも「モノ造り」と「店頭供給」のサプライチェーンが形成され、
やがて「産業」と称されるようになります。
例えば、京都の手短な土産品で、
最も分かりやすい例を上げると「八つ橋」でしょうね。
歴史的文化都市、世界文化遺産を有形無形で数多く保持する京都を、
代表する身近な「手土産=モノ」として、地味ですが「横綱級のポジション」を持っています。
単なる「モノ」としての「八つ橋」そのものに、
然して大きな価値があるワケではありませんが、
千年を超える「歴史文化都市」の京都の街が育てた、手軽で気軽な「名品=モノ」とも言えます。
それは歴史文化都市「京都」という漠然としたイメージが、
その歴史文化に触れ「感動=コト」するを目的に訪れた人が、
形のある手土産としての「モノ」を「八つ橋」に象徴的に集約し気軽な「手土産=モノ」として求めるているのです。
都市や文化が包摂する漠然とした「環境」などを大きく括るイメージとしての「知財」は、
多くの見えない「利益」を共有しつつ、それを具体的な「モノ」の形に見せ、供給し販売する人を軸に、
関わる多くの人に見えない「利益」を、様々な形で提供しているといえます。
固有の「文化」は、それを創り出し「包摂」する社会の重要な「ソーシャルキャピタル」といえます。
「ソーシャルキャピタル」は、そこに棲む人、あるいは働く人、利用する人らを含め、
広汎な一過性の人も含め「互酬性」を幅広く大きく提供しているワケで、
その「芯」に対する尊重や敬愛また尊崇し維持する事が重要ではないかと考えているのです。
有形無形を問わず数多くの「世界文化遺産」を保つ京都や奈良を観光(体験=コトを為す)する。
それに依り「得がたいトキ」を過ごす。時には「コトで感動」する。
その記念に「手土産(モノ)」を求め、思い出と共に持ち帰る。
これほど見事に「モノ」「コト」「トキ」が一連のストーリーを完結させる事により、
常日頃「文化はカネになる」と指摘している事をご理解いただけましたでしょうか。
蛇足ながら「文化」そのものが「一対一でもカネ」になりますが、
そのような矮小な事を宣べているワケではないのです。
大きな仕掛けの必要性を指摘し、やがての「結果」である事を言っているのです。
ご理解下さいませ。
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