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2024/12/26

蔦屋重三郎の活躍をNHKが2025年の大河ドラマで放送するのは既定の事実ですが、何よりも興味深い事は次々にクリエイティブし続ける事で

世間は、ナンのカノと言っても、

Tokyo-jin

便乗しカネを稼ぎモノにしようと!

蔦屋重三郎の「クリエイティブ・マインド」とは、
真逆の姿勢「パラサイト」でもアリンスわぃナァ~!


マッ、先人に学ぶ姿勢と思考はヨイ事です。
若くして散った、型破りな江戸の出版者。


江戸の庶民を擽り、今日に至る江戸の「シモジモ文化」の礎を築いた
蔦屋重三郎の足跡で遊ぶのは真にヨイ事で。


併せて、
彼の、猛烈で挑戦的な「クリエイティブ・マインド」を、
重視し学び取って貰える事を強く期待します。


また、
老中「田沼意次」が果たした、
「文化・文政」の頃に取り組んだ積極的な政策も大いに見直し参考にされる事を願って止みません!


真にヨロシかろうと、存じ上げ候ヨ!
べっらぼぉ~メ!

一部引用開始→『べらぼう』が描く蔦屋重三郎…花街の「粋」と「通」を知り、“江戸のメディア王”になるまで (讀賣新聞 編集委員 丸山淳一 2024/12/25 15:00)

 貧しい庶民の子に生まれ、親も失って遊里の茶屋に引き取られた若者が、知恵と努力で流行を先取し、“江戸のメディア王”にのし上がっていく――。
主人公の 蔦屋重三郎 (1750~97)を横浜流星さんが演じる大河ドラマ『べらぼう~ 蔦重栄華乃夢噺 ~』(NHK総合・日曜午後8時~ほか、初回は15分拡大)の放送開始が近づいてきた。
脚本は大河ドラマ『おんな城主 直虎』やドラマ『大奥』を手がけた森下佳子さん。原作のないオリジナルストーリーだ。

 重三郎は喜多川 歌麿 (1753~1806、演:染谷将太さん)と東洲斎写楽(生没年不明)を世に出した。今でいう大人向け漫画の「黄表紙」や、遊郭を舞台にした大人向け小説「 洒落本 」を次々に発売した。黄表紙の祖とされる恋川春町(1744~89)、狂歌師の 朋誠堂喜三二 (1735~1813、演:尾美としのりさん)、作家で絵師でもあった 山東京伝 (1761~1816)を人気作家に押し上げたのも重三郎だ。『富嶽三十六景』の葛飾北斎(1760~1849)や『南総里見八犬伝』の曲亭馬琴(1767~1848)や『東海道中膝栗毛』の十返舎一九(1765~1831)は、重三郎が才能を見抜いてバックアップしなければ、いずれも歴史に名を残すことはなかっただろう。

 蔦屋と言えばカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)とその関連会社が運営する「TSUTAYA」が浮かぶ人も多いだろう。TSUTAYAの名前は創業者の増田宗昭会長の祖父が営んでいた屋号「蔦屋」に由来する。第1号店の開業日に知人から送られたファクスで重三郎の功績を初めて知った増田さんは、重三郎が版木で文化を残したように、書籍、映像、音楽などのカルチャーを広めることを願って店名にしたという。

 馬琴は後に「蔦重(重三郎)には風流も文才もなかったが、世渡りの知恵にすぐれ、時代を代表する才人に愛されていた」(『近世物之本江戸作者部類』)と記している。多くの才人に愛され、文化を育み、残せたのは、江戸最大の花街、吉原で生まれ育ったことと無縁ではない。

7歳で「遊郭の茶屋」の養子に
 重三郎は寛延3年(1750年)、丸山重助、廣瀬津与夫婦の子として新吉原(現在の東京都台東区千束3、4丁目付近)で生まれた。本名は 柯理からまる 。実父の職業は不明だが、貧しい家だったようで、親に捨てられ、7歳で「引手茶屋」を経営する喜多川家の養子となる。「蔦屋」は喜多川氏が経営していた店の屋号だから、史実に沿えば、ドラマで高橋克実さんが演じる重三郎の育ての親、駿河屋市右衛門は喜多川姓ということになる。

 ドラマは明和9年(1772年)の「明和の大火」から始まるが、新吉原は明暦3年(1657年)の明暦の大火で日本橋 葺屋町(現在の東京都中央区日本橋人形町2丁目付近)にあった吉原(元吉原)が全焼して移転していた。新吉原は明和5年(1768年)にも全焼しているが、吉原の守護神、九郎助稲荷だけが2度の大火でも焼けずに残ったという。ドラマでは綾瀬はるかさんが九郎助稲荷として語りを務め、重三郎の活躍を見守っていく。ちなみに吉原は、元吉原と新吉原をあわせて江戸時代に27回も火事に見舞われている。

 駿河屋が営んでいた引手茶屋とは遊客を遊女に引き合わせる仲介業者で、今でいう歓楽街の風俗案内所と似た役割をしていた。そこで幼年期を過ごした重三郎は「風俗」関係の仕事も手伝っていたとみられる。色を売る風俗店が軒を連ねる吉原は当時も「悪所」とされていたが、「風俗」という言葉が持つ響きは、当時と今ではだいぶ異なる。その違いを理解しないと、遊郭の茶屋育ちの若者が、なぜ江戸文化のけん引役になれたのか、理解できないのではないか。

「吉原」では遊女も客も教養を磨いた
 吉原は幕府公認の遊郭で、大名や豪商、文化人が身分の差なく遊ぶ場所だった。その相手をする遊女たちも、その相手をするのにふさわしい身だしなみと芸、教養を身に付けていた。「 花魁おいらん 」と呼ばれるトップクラスの遊女は、歌や踊りだけでなく、茶の湯や生け花、和歌や漢詩、書道に精通していたという。

 吉原では、遊女の方にも客の相手を断る選択権があったというから、客の方も教養を磨く必要があった。しかも、大名の権威や老舗ののれんといった「現世」の格式や地位は通用しない。身分や職業は関係なく、見られるのはまず個人の資質。金離れがよく、教養があって気遣いができ、あと腐れなく遊べる人ほど、遊びに「 通 」じた「 粋 」な人といわれ、吉原に通う人は「粋」で「通」な遊びを目指した。引手茶屋の仕事は遊女だけでなく、客を見る目がなければ務まらない。重三郎は「粋」や「通」という吉原の評価基準を知る機会に恵まれていた。

 茶屋の上客を増やそうと努力すれば、自然と文人・絵師の人脈ができていく。重三郎と組んで吉原関係の書籍を出した喜三二は平沢常富という武士で、秋田・久保田藩の江戸留守居役筆頭だったし、重三郎の墓碑を書いた大田南畝(1749~1823)は幕府勘定方の役人だった。ともに幕府や他藩の情報収集のため吉原に出入りし、狂歌や戯作の腕を磨くうち、重三郎と知り合った。彼らは重三郎の店に出入りして吉原で遊ぶうちに、町人出身の文人らと結びつく。重三郎は店を吉原の「文人サロン」として開放することで「粋」で「通」な人を集わせ、身分を超えた文人人脈を拡大していった。

「吉原ガイドブック」を刷新し大当たり
 明和の大火の翌年、重三郎は吉原大門近くの店先を借りて貸本と小売りの書店を開き、遊女の名前などを記した吉原ガイドブック『吉原細見』の販売を始める。吉原を良く知る重三郎は編集にも携わるが、『吉原細見』は江戸出版界最大の版元、 鱗形屋孫兵衛(生没年不明、演:片岡愛之助さん)が独占出版しており、最初は改訂版の編集スタッフに過ぎなかった。

 翌年に出された改訂版『 細見嗚呼御江戸 』は情報が最新のものにアップデートされただけでなく、平賀源内(1728~80、演:安田顕さん)が「 福内鬼外 」の名前で序文を書いている。源内は一流のコピーライターで浄瑠璃作家としても人気が出ていたから、序文を書いてくれれば話題性は十分。だが、源内はゲイだったから吉原に出入りしておらず、面白い、と思っても、普通なら頼む前にあきらめる。江戸文化研究者で元法政大学総長の田中優子さんは『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』の中で「細見と福内鬼外を組み合わせる、という発想をしたのは重三郎であろう。出版物に付加価値を付ける、という考え方は鱗形屋には見られず、蔦屋のその後の方法に頻繁に見られるからである」と分析している。

 重三郎はこの年、初めて蔦屋の名前で『 一目千本』を刊行する。遊女を生け花に見立てて紹介する画集で、上得意客に配る非売品だった。ひいきの遊女がどんな花にたとえられているか、中身を見たくなるようにした上で、上得意でないと手に入らないプレミアム感を出すことで評判を呼ぼうという思惑が垣間見える。

遊女たちをビジュアル化したカラー画集も
 安永4年(1775年)、孫兵衛が上方の版元が制作した本を無断で出版して処罰され、その年の吉原細見の刊行を見送ると、重三郎はその 間隙かんげき をついて、蔦屋独自の吉原細見『 籬まがき の花』を刊行する。鱗形屋版より大判で見やすく、情報量を多くした。

 江戸いちばんの出版社、鱗形屋の“看板”の力も借りて集めた最新情報と、鱗形屋版のスタッフとして学んだ編集ノウハウを使って、より付加価値が高い細見を出されたのだから、孫兵衛は飼い犬に手をかまれたと感じただろう。鱗形屋は翌年に細見の出版を再開したが、一度蔦屋版に奪われた客は戻ってこなかった。

 重三郎はさらに、北尾重政(1739~1820、演:橋本淳さん)と勝川 春章(1726?~93、演:前野朋哉さん)という人気絵師2人が描いた遊女たちの絵をまとめた超豪華カラー画集『 青せい楼ろう 美人 合あわせ姿すがた鏡かがみ 』を発刊する。

 細見は毎年更新するたびに安定した販売が見込める。オールカラーの豪華本は付加価値が高い。手に入れた吉原関連本が安定した収益をもたらし、重三郎は書店主から出版社に成長するのに必要な体力を得ることができた。重三郎の吉原関連本はよく売れ、幕府未公認の他の遊郭に客を奪われていた吉原は息をふき返すが、むろん重三郎は吉原のためだけに奔走したわけではない。吉原が持つ「異世界の魅力」を利用し、“師匠“鱗形屋の失策につけこんだ面は否定できないが、ここも生き馬の目を抜く重三郎の商才をほめるべきなのだろう。

日本橋に進出し、「総合文化プロデューサー」に
葛飾北斎が描いた日本橋通油町の絵草紙店の蔦屋耕書堂(『画本東都遊』国立国会図書館蔵)
 天明3年(1783年)には、大手の出版社兼書店(本問屋)が軒を連ねる日本橋通油町(現在の中央区日本橋大伝馬町)に進出し、「耕書堂」を開店する。世襲制や株仲間といった規制がある中で、小さな貸本屋からわずか10年で「問屋」というのは異例の大躍進だ。

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 しかし、重三郎の快進撃はむしろ、ここからが本番だ。耕書堂には多くの文化人や絵師が出入りし、重三郎はさらに人脈を広げて江戸文化の総合プロデューサーとなっていく。その実績や華麗な交友関係は表にした通り。ドラマでは今後、歌麿、北斎、写楽、馬琴といった江戸文化を代表するビッグネームが続々と登場することになりそうだ。その配役は一部しか発表されていないから、ここでは先走りせず、まずはドラマが吉原での活躍をどう描くかを九郎助稲荷と見守りたい。←一部引用終わり

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