軽井沢を巡り展開された近代100年を超える欲望の共同幻想を擽る始末記
友人の「(旧)軽井沢」訪問記投稿を見て思い起こした事:
軽井沢は、佐久平の北東角の断崖地で札幌と同じくらい冷涼の地だ。
西欧から東洋の不思議の国「ジパング」に来着し、
横浜や東京で一定の地歩を固めた外国人が、蒸し暑い日本の夏を快適に過ごす地として見出したのが、
浅間山の南麓に拡がる旧中山道の「軽井沢宿」だった。
林の中に別荘を建て、教会を設け、テニスコートやゴルフ場を整備しいわゆる静寂の(旧)軽井沢が形成された。
そこに目を付け、金城湯池にすべく軽井沢に拘りカネに換えようと挑戦したのが、
西武鉄道を手中に入れた堤康次郎で、鉄道とは別の「国土計画」なる会社を設け、いまに至る軽井沢の原型を模した。
WWⅡの敗戦を経て、
日本は大財閥を成した人の手による社会経済が、
大財閥の解体で新たな社会経済の担い手に躍り出た上層サラリーマン即ち「中間上位層(いわゆる富裕層)」が明確なリーダーを形成した。
この層で成功者と言われ呼ばれる者は、
夏場の一時期を「(旧)軽井沢」で過ごそうと上野駅から信越線に乗り僅かな日時を過ごしに到来した。
1964年をメルクマールに、
日本の社会経済は「戦後賠償」から「国民経済の復興」へ舵を切り「降伏社会」から「幸福社会」の建設を目指し邁進した。
差し詰め1970年~1975年は、そのピークでもあり、いわゆる都市へ流入したローカル出のビンボニンも「軽井沢」を目指し押し寄せた。
この時期、軽井沢で一儲けしようと企む側は煽りに煽った。
沓掛は中軽井沢へ変わり、横川も実体的には軽井沢東口へ、
松井田は軽井沢入口前で、高崎は軽井沢下口になり、嬬恋は北軽井沢へと名を変え、御代田も軽井沢西口とされ、
その後に関越道の練馬ICは軽井沢入口手前と揶揄される程の事になった。
その後も、軽井沢はブラックホールのように拡大肥大化し、
長野行き新幹線(北陸新幹線)が整うと南軽井沢が産み出され、
いまや「軽井沢」は東京都港区の飛び地と化したようだ。
1975年頃、
いまは潰れ存在しない、オシャレ洋品店の「鈴屋」は「軽井沢ベルコモンズ」を設け、
首都圏から押し寄せる「情弱ファッション・モノ知り(アン・ノン族)」相手に、
トレンド品と値下げ品を混在させ体よく稼いでいた。
西武は、文化とカネ儲けを巡る兄弟争いが始まり、
池袋と軽井沢はその頂点であり、知欲で知欲(という強欲)を争う熾烈な展開だった。
万平ホテル、鹿島の森、三笠会館、軽井沢教会、軽井沢テニスコート、晴山ゴルフコースなどの旧勢力を凌駕する勢いだった。
極め付けは「軽井沢プリンスホテル」の大拡張、
セットで続く「軽井沢72ゴルフ場」に「軽井沢スキー場」に、
沓掛から踏み入る「千ヶ滝別荘地」を開発し「軽井沢スケートリンク」を設けるなど、
いわば西武鉄道と国土開発(堤義明)は絶頂期だった。
対する兄(故・堤清二)も負けずに「軽井沢アウトレットモール」を・・・
いま肩で風を切る勢いを誇る「星のや(星野屋)」の先代は、
旧中山道の小商人宿を営む小商いを保ちながら、静かに指を銜えて堤兄弟の争いを眺めていたのか。
ある時、日本橋の「ミカド珈琲」を見つけたのは嬉しかった。
(その後、六本木は東日ビルでも「ミカド珈琲」と出会え嬉しかった)
いま、東京を退いた若い人材が「御代田」へ居を構え「晴読雨読」「晴耕雨耕」「春秋労耕」「夏楽冬籠」を愉しんでいる。
軽井沢は実に興味深い不思議な地だ。
それは日本が入欧を目指した頂点のような憧れを、
過去の偉人も現代の豊かではナイ貧層をも惹きつける地だ。
軽井沢は、人的にも社会的にも自然な形で「ソーシャル・キャピタル」を互酬性として効果的に形成し、
安定的に提供されてきた稀にみる高質な地域といえる。
他者が形成構築した「公益」や「付加価値」を守り育てつつ、それを利用し更に高い公益性を追い「付加価値」を地域に提供し、
社会資本を形成する限り「憧れ」が弱体化し消滅する事は少ないのでは。
いま、その「堤康次郎」は遠ぉに亡く、子息の兄「堤清二」も亡く、弟の「堤義昭」は実質的にみずほに取り上げられ幽閉され。
代わって躍り出たのが小商人宿の小倅ドモだ。
その地で、貧層の憧れという付加価値を学び得て、リートでビジネスモデルに仕上げ全面展開しているのが「星のや」であると・・・
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